昼休みという短い時間の中、俺の球を取れや受けろやと騒ぐ後輩たちにつき纏われてるうちに、虚しくも本鈴が鳴り響く。後輩たちを教室へ帰して慌てて自分のクラスに戻る御幸。これは遅刻だ、参ったなと苦々しい思いをしながら教室の後ろからこっそり入ると、先生もいなければ生徒の数もまばらで、席を立っている者がほとんどだ。席に戻るついでに倉持の元へ向かう。 「あれ、先生まだ来てねーの?」 「今日は自習だと」 「やりい。俺寝るわ」 「残念、寝れねえんだよ、これが」 舌打ち交じりで倉持は配られたであろうプリントを御幸に突き付けた。これを埋めなければ、眠ることは許されないらしい。ただの穴埋めなら適当に埋めて休息に当てるところだが、残念ながらそういった生徒たちの怠惰を許さないらしい。公民の教師はそういった部分に厳しく、穴埋め問題以外に『少子高齢化における自身が思う問題点とその解消方法を文献を一冊引用して記載せよ』、という問題に御幸は眉を顰めた。なるほど、人がまばらなわけである。みな図書室に駆け込んだのだろう。 「俺らも行くか」 「だな」 基本的に野球部は可能な限り授業は真面目に受けている方だ。自らの怠惰は先生たちを通してしっかりと監督の耳に入ると、皆知っているからだ。睡魔に負ける部員もまあ少なくはないが、提出物は出さなければダイレクトに成績と評価に響く。面倒ながらも、睡眠を貪るわけにはいかない。野球部レギュラーならなおのこと。『野球ばかりで本業が疎かに』なんて言われすぎるのも、部の評価が下がる。それはひいてはいずれ入ってくる将来有望な新入生の──正確には親の──顰蹙を買いかねない。一年にしてベンチ入りした投手たちは揃って勉強は不得手だ。奴らも少しは自覚を持って欲しいものだと、御幸は嘆息した。 図書室はほぼB組の生徒ばかりだった。ただ、図書室では雑談が禁じられているため、みな目当ての本を借りてそそくさと図書室から出ていく。御幸たちも適当な本を一冊借りて、食堂なり教室なりでプリントを埋めてしまおうと思った。その時。 「そっちも公民?」 聞き慣れた声に振り返ると、天城凪沙がそこにいた。彼女とはクラスが違う、おまけに今は授業中。図書室で会うには些か珍しい顔に、御幸も倉持も目を丸くする。 「A組も自習?」 「そ。なんか緊急で職員会議やるんだって」 「なんで?」 「さあ? だから私も公民のプリント片付けにきた」 「え」 「え」 「え?」 凪沙の言葉は寝耳に水とばかりに、倉持も御幸も素っ頓狂な声を上げる。 「これ、授業終わりまでじゃねーの?」 「だから俺ら来たんだけどよ」 「ちゃんと話聞いとこう二人とも……明日まででいいんだよ」 「マジか」 「んだよ、急ぐことなかったのか」 倉持は面倒くさそうに舌打ちする。とはいえ、野球部に暇があるわけでもなく、授業中に片づける他ないのだが。そう考えて、二人ははたとする。では、凪沙は何故ここにいるのかと。 「そういうお前は?」 「公民の時間何してたんだよ」 「……穴埋めだけだと思いこんで、埋めるだけ埋めて寝てた」 「ヒャハッ、お前マジかよ!」 「すげー間抜けじゃん」 「プリント裏返した時の絶望感すごかったよ……」 毎日朝早くから夜遅くまで野球部のサポートに奔走する彼女が、ぐっすり眠るその姿を見て起こすのは忍びないという、クラスメイト達の優しさは時として仇となったらしい。なるほど、A組の生徒の姿が見えないはずである。苦い顔して社会科コーナーで本をぱらぱら捲る凪沙に、じゃあ、と御幸は言う。 「穴埋めしたとこだけ見せて」 「いいよ。というか、そのつもりで声かけたし」 意外にも、凪沙はさほど勉学に真面目ではない。試験も赤点がつかなければいいとばかりで、授業中もよく昼寝をしたりすると言う。なのでちょっとしたズルもお願いすれば、すんなり受け入れてくれる。 「ジュースでいい?」 「いらないよ。これもサポートの一環ってことで」 「そういうわけにはいかねえって。倉持、お前も半分出せよ」 「しゃーねえなあ」 「気にしなくていいのに」 交渉成立、ということで三人は適当な本を借りて、二人は図書室脇のブラウジングルームへ移動する。ここでなら談話もある程度許されており、B組の面々がちらほらとテーブルに本やプリントを広げている。隅の丸テーブルに三人で円を描くように座る。隣に座るとはいえ少しばかり空いたその距離に、安堵と落胆が両方襲ってくるのだから、面倒だと御幸は思う。 「先、移してて。その間に本読むから」 「りょーかい」 凪沙の分のプリントを受け取る。穴埋めしたのは本当らしく、少し癖のある字がびっしりとプリントに刻み付けられている。半面、裏面の大きく空いたフリースペースは驚きの白さ。たっぷり睡眠を貪った後、プリントを裏返した時の絶望した凪沙の顔を想像し、笑いが込み上げてくる。そんな御幸に、凪沙は本から顔を上げてじとっとした視線を寄越す。 「……そんな面白いこと書いたっけ?」 「いーや、別に」 「えー、なのに笑うことある?」 「こいつ、箸が転がっても笑うからな」 「いつも思うけど、御幸くんの笑いのツボ浅過ぎない?」 「んなことねーって」 そんな下らぬやり取りをしながら、まず御幸がプリントを映し、倉持と凪沙は借りてきた本に目を通す。いつしか三人の間に会話はなくなり、時折スマホで何かを検索したり、ノートにメモ代わりに何かを走り書きするだけ。しばらくして穴埋めが終わり、御幸はぐっと伸びをする。 「倉持」 「ん」 ぴらりとプリントを渡せば、本から顔を上げぬまま倉持はプリントを受け取る。一方で、凪沙は黙々と本を読み込んだまま。だが、頬杖をついて本に目を落とすその目はとろんとしており、今にも眠りこけそうだ。 「天城起きろ〜」 「……んー」 呼びかければ、鈍いが一応返事は返ってきた。だが、今にも溶け切ってしまいそうな瞳がゆっくりと御幸に向けられ、思わず背筋が伸びる。その目の奥に愛らしさと、それ以上の色香見出してしまい──さっと視線だけ逸らす。 「……ヨダレ、出てっけど」 「ハッ!」 そう言うな否や、凪沙はがくんと震えて目を見開いた。さっと口元を覆うも、当然嘘なので濡れてなどいないのだが。 「はい嘘」 「……御幸くんさあ」 「ばっちり目覚められたろ?」 「ソーデスネ」 少しばかり恥ずかしそうに返し、んー、と腕を組んで伸びをする凪沙。それでもまだ意識はぼんやりとしており、しきりに目をこすっている。そんな凪沙に、倉持がプリントから顔を上げた。 「珍しいじゃねーか、夜更かしでもしたのかよ」 「夜更かしっちゃあ夜更かしかなあ……昨日、ほとんど寝てなくて……」 「何かあったのか?」 「君らの背番号縫ってたの〜……」 あふ、と欠伸を噛み殺す凪沙。意外な回答に、倉持も御幸も顔を見合わせた。 「あれ、家でやってんのかよ」 「他のマネージャーは食堂でやってたけど」 「他にやることあったからさー、大会までやればいいやと思って後回しにしてて……」 「そんなんでよく縫物とかできたな」 「割と夜型だからそこはへーき。ちゃんと綺麗に縫えました!」 「ほんとか?」 「曲がってたら恥かくの俺らだかんな」 「仮止めして曲がるほど急激に大きくなってなければ大丈夫」 選手によって体格も違う。ユニフォームを着て背番号の仮止めは、予め行われていた。いくら成長期でもそりゃ無理だと倉持が笑い、凪沙はシニカルに肩を竦める。そんな中で、御幸はさりげなく──さりげなく、訊ねた。 「で、今年は誰が何番担当?」 「えーと、一〜四は私、五〜八は貴子先輩だったかな」 「っしゃ貴子先輩!」 「倉持くんみたいな人がいるから、くじ引き制になったんだろうなあ」 毎年背番号を縫うのはマネージャーの仕事だ。中には親に、という選手も少なくないが、ベンチ入りする選手はほとんど寮生なので、大体はマネージャーが手縫いしている。選手の希望制にすると野球部のマドンナに背番号をと殺到しかねないので、毎年担当人数をマネージャーの人数で割り、区分けしていた。去年、御幸も『二番』を貰ったが、縫ったのは確か上級生のマネージャーだった。たかだか背番号。けれど、思いを寄せる人の手でその番号を背負いたいと思うのは、高校生として、いや、野球部員としては全うな欲求だと御幸は声を大にして言いたい。 『一〜四は私』──当然、今年の御幸の背番号は『二』だ。つまり、今年の背番号は凪沙が縫ったことになる。しかも、家に帰って、睡眠時間を削ってまで。例え相手には事務的な作業でしかなくとも、それを喜ぶなという方が無理な話。人目がなければガッツポーズぐらいはしたいところだが、生憎思いの相手張本人と倉持がいる前でそんなことをするわけにはいかず、しかして皮肉一つも繰り出せぬほど純粋な喜びを感じてしまった御幸は、話を逸らす他なく。 「うわー、今年はお前が亮さん担当か」 「いやほんとそれね! 正直、エースナンバー縫うより真剣にやったよ……」 「丹波さんかわいそー」 「た、丹波先輩や結城先輩は優しいから、ちょっとよれたぐらいで文句言わないし……」 確かにエースを張るにしては些か気が優しい丹波や、ちょっとやそっとのことでは一切の揺らぎを見せない結城なら、多少背番号が歪んでいるぐらいで怒りはしない、寧ろ笑って労ってくれるだろう。だが、その中に──小湊はともかく──自分が含められていないことが、心外でならなかった。 「こらこら。俺だって優しいだろ」 「いや、御幸くんは小湊先輩の次に煩いでしょ」 「ヒャハハハッ、違いねえ! こいつ小姑みたいなとこあるからな!」 「誰が小姑だよ、誰が」 「去年三年の先輩に『縫い目が雑』とか『布地がたわんでる』とか何とか言ってたの忘れてないからね、私たち」 「そんなこと言ったっけ?」 「「言ってた」」 倉持と凪沙のセリフが被り、だよねなんて二人が笑い合う。勿論御幸にそんな記憶はなく、一年前の自分の軽率さと二人の記憶力の良さを呪う。誰相手だろうと、思ったことはずけずけと言いがちなのは自分の性分だ、今更直すつもりはないのだが、やはり凪沙相手に指摘されるのは些か居心地が悪い。とはいえ、去年の手腕を見るに凪沙は人並み程度の器用さはあったはずだ。小言の心配はないはずだ。 「まあでもおかげ様で、御幸くんの背番号は過去最高に綺麗に縫えたのでご安心を!」 「大丈夫だって。元から天城の腕は信用してるから」 「うそくせー」 「俺、倉持になんかしたっけ?」 倉持も凪沙も答えなかった。どうしてこう、自分の誉め言葉は素直に人に伝わらないのか。日頃の行いが物を言うのだと気付かぬ御幸は首を傾げる。そんな話をしていたからか、凪沙は徐々に意識が覚醒したようで、倉持が移し終わったプリントをひっくり返して本を見ながらあれこれ文章を書き込み始めた。 「よし、五分で書き切る!」 「マジか、もうまとまったのかよ」 「テーマは? マネしねえから、参考にさせて!」 「『単親世帯への子育て支援』。パクってもいいけど、丸コピしないでね」 「よっしゃ、御幸そっちの本回せ」 「もう一冊同じのあったし、借りてくれば?」 「そうすっか」 そう言って御幸は凪沙が借りた本のタイトルを脳にメモし、図書室へ行って同じ本を借りてくる。ちょっと離席しただけだというのに、凪沙のプリントは半分以上文字がびっしり埋まっていた。 「うわ、天城書くの早!」 「現国苦手な割にこういうのはいけんだな」 「自分の意見を書くのは平気。作者の意向に沿って〜、みたいなのがダメ」 「あー、気持ちは分かる」 「そうかあ? 読んでりゃそんなもん、なんとなく見えてこねえか?」 「感覚派だねえ、倉持くんは」 「そもそも作者が作った問題でもねえのに、作者の意向も何もねえよな」 「わ、分かるー!! 教師が作者の代弁するのなんか違うよね!?」 「お前ら監督にぶっ飛ばされて来い」 そんなことを言い合いながら三人でプリントを埋めていく。本鈴がなる頃には何とか書き終えた御幸と倉持は、一足先に片付けてその場で突っ伏して寝ていた凪沙を叩き起こして自販機まで引っ張っていく。二百円もしないジュースを二人で割り勘し、腰に手を当てサイダーを一気飲みする凪沙は中々に漢らしい。 凪沙と別れ、倉持とあれこれ取り留めのない話をしながら教室に戻る。もうすぐ夏が始まる。彼女の縫い付けた背番号と共に、御幸たちの戦いは始まるのだ。睡眠時間を削ってまで懇切丁寧に縫い付けられたそのユニフォームを思いながら、御幸は上機嫌で自らのヒッティングマーチを口ずさむのだった。 (自習時間のお話/2年夏) |