御幸一也は二年生になった

 四月。それは、出会いの季節。今年も新入生たちがぞくぞくと野球部に入部し、御幸たちは『先輩』と呼ばれる立場になった。未だ慣れぬ、後輩たちの顔とデカい声で飛んでくる挨拶の数々。シニアの頃から、名前も一致しない後輩たちに挨拶されるのは妙な気分になる。ぞわぞわするというか、落ち着かないというか。形ばかりの敬語に挨拶、野球部に限った話ではないが、年齢による縦社会システムはどうにも御幸は好きになれずにいた。そんなことを考えながら、御幸は今日も朝練に赴く。すると──。

「あ!! ちわっす、エンジェル先輩!!」

 天城凪沙を見かけた途端叫ばれた、グラウンドの隅から隅まで届くような馬鹿の馬鹿でかい声に、流石の御幸もずっこけそうになった。

「沢村くんッ!! 恥ずかしいからその呼び方直してって言ったじゃん!!」

「なんでっすか? 俺らにとって先輩はもう天使っすよ、天使!」

「そんなこと思ってるの君だけだよ!!」

 誰しもが振り返った先にいるのは、耳まで真っ赤になったマネージャーの天城凪沙と、何かと騒ぎを起こす新入生、沢村だった。一日一度は騒ぎを起こさないと気が済まないらしい。

「えー、じゃあ何て呼べばいいんすか?」

「普通に『天城先輩』でいいんだよ!」

「それじゃだめっすよ! 感謝の念が感じられない!」

「感謝は痛いほど伝わってるからご心配なく!」

 洗濯籠を抱えたまま狼狽える凪沙。先輩だろうが修羅場だろうが物怖じしない彼女が振り回される姿は珍しいと、御幸はつい視線をよこしてしまう。まああれほど突き抜けた大馬鹿、周りにはいないだろうから、当然といえば当然なのだが。

「じゃ、今日もお願いしますね、エンジェル先輩っ!」

「いやだから私の話を──沢村くーん!? ちょっとお!?」

 振り回すだけ振り回し、沢村は愛用のタイヤを抱えてグラウンドへ飛び出していった。大型犬にじゃれつかれて困惑する小型犬のような姿だと思いながら、御幸は凪沙の元に近寄る。

「へえ〜、お前いつから天使になったんだ?」

「御幸くん……追い打ちなんて性格悪いですよ……」

「はっはっは。冗談だって」

 からかい半分の言葉に、凪沙はムッとした表情で御幸を睨む。そういった姿も可愛い、と思ってしまう程度には秘めた思いは日々肥大化していくことに、御幸は気付かぬふりをしていた。

「沢村となんかあったの?」

「ないよ。強いて言えば、去年御幸くんたちにしてあげたことを、しただけ」

「……おにぎり?」

「そ」

 青道野球部の食トレはとにかく力業だ。どんぶり三杯の白米を、毎日ひたすら食わされる。そんな日々に辟易し、吐いてしまう者も少なくない中、傍で仕事をしていた凪沙に助けを乞うのは必定といえる。自分も仕事で疲れているだろうに、ふりかけ等を駆使して、どんぶり三杯分の米をせっせとおにぎりにしてくれる彼女の背に後光を見たのは御幸とて一度や二度ではない。そういうことかと、御幸は頷く。

「あれ、一年たちにもやってんだな」

「吐いて戻すなんて勿体ないからね」

「そこかよ」

「そこだよ! お米だってタダじゃないんだから!」

 食べ物を粗末にするなと怒る凪沙に、あの頃自分たちに手を差し伸べてくれた天使は、決して慈愛の心で動いていたわけでないと知る。それはそれで彼女らしいと笑ってしまうあたり、どれほど絆されているのかを痛感する。

「まーでも助かるわ」

「いえいえ。マネージャーですから」

 そうやって軽やかに微笑む彼女の夜のおにぎりが不要になって、御幸たちも久しい。流石に羨ましいなんて思ってはいないが──そもそも彼女の作るおにぎりはほぼ毎日食べている──少しばかりの懐古の風が胸を撫でる。

「なー、たまには俺らにもおにぎり作ってよ、マネージャーさん?」

「御幸くんたち、もうどんぶり三杯余裕でしょ?」

「別に食えても楽なわけじゃねえんだから」

「残念、他にやることありますので」

 シニカルにいなす凪沙に、流石の御幸も口答えはできない。家が近い代わりに自宅でできる解析などの仕事は他マネージャーに任せ、現地でしかできない仕事を夜遅くまで残って片付けんと奔走する彼女に御幸たちはどれほど助けられてきたか。

「もう、私のサポート無くても大丈夫でしょ?」

「……そうだな」

 合理性、だけではない。流れた歳月と、その分の成長。凪沙はそれが分かっているからこそ、敢えて御幸を突き放すように言う。たった一年、されど一年。それだけで御幸たちは吐くほど厳しい練習に耐えきり、吐くほど食わされる食事にも慣れ、自主練に赴くほどのスタミナを得たわけだ。

「……あの子たちも、私のおにぎりが不要になる日が来るんだねえ」

「なんかそれすげえ年寄りくせえな」

「しまった、御幸くんに言うんじゃなかった」

 そう言って、二人してにやりと笑う。こうした軽口をたたき合えるだけで、いい。御幸は多くは望まない。逸る気持ちに蓋をして己を律する御幸など露とも知らぬ凪沙は洗濯籠を抱え直し、にこりと笑みを浮かべる。

「じゃ、練習頑張って」

「おー」

「私はこれ洗濯機にかけて──」

 こようかな、そう言いかけた凪沙の言葉が詰まる。手にしていた洗濯籠が、すっと奪われてしまったから。自分の前に落ちた影にゆっくり顔を上げれば、そこには。

「えーと……降谷、くん、だよね?」

 一年生の降谷だった。口数が少なく、何を考えているか分からないが背と態度だけはデカい、と上級生たちの間で囁かれていたのを、御幸も凪沙も聞き及んでいた。彼は洗濯籠を抱えたまま、にこりともせずに言う。

「手伝います」

「えっ、いいよ。練習行きなって」

「昨日助けてもらったんで」

「あれはサポートの一環。気にしなくていいんだよ」

「でも」

「選手には選手の仕事があるでしょう」

 そう言いながら手伝う手伝わない問答を始める二人。沢村といい、変な一年ばっかだなと御幸は思う。

「こいつもおにぎり?」

「そう」

 御幸を目にすることなく凪沙は静かに答えて、降谷に奪われた洗濯籠を取り返す。

「あっ」

「君の仕事は、吐かなくなるよう、スタミナをつけることだよ」

「……」

「試合出たいんだよね? なら、君のやるべきことは、少なくとも洗濯の手伝いじゃないはずだよ」

「……はい」

 凪沙はこの一年と少なからず話をしたのだろうか、言い聞かせるようなその言葉に降谷は素直に頷いた。よろしい、と彼女はふわりと微笑む。

「でも、手伝ってくれるって言ってくれて、嬉しかったよ」

「!」

「ありがとう。その気持ちだけで、十分な恩返しだよ」

 そう言って、花が咲くように笑う彼女は、本当に嬉しそうだ。大袈裟でもお世辞でもなく、心から喜んでいるのが分かり、御幸の心臓がざわつく──気のせいだと自らに言い聞かせる。降谷はその笑みにようやく納得いったのか、どこか満足げに会釈する。

「さ、こんなとこで油売ってないで戻った戻った。御幸くんもだよ!」

「はい」

「分かってるって」

 そう言って、御幸はAグラウンドへ、降谷はBグラウンドへ戻ろうとする。その最中、降谷はぺこりとまた会釈をした。

「それじゃまた──エンジェル先輩」

「ぶはっ」

「君も!?」

 真面目な顔でしれっと恥ずかしげもなく呼ばれるこっぱずかしいあだ名に、凪沙の顔は真っ赤で、御幸は腹を抱えて笑い焦げている。降谷だけは何が間違っていたのか分からない、とばかりに首を傾げるだけ。

「昨日、そう呼ばれてたので……」

「天城!! 天城凪沙だから!! 今すぐそのあだ名忘れて!!」

 そんな一幕のおかげで、御幸は降谷を『ド天然の一年』という印象を植え付けられ、降谷は降谷で『御幸に顔を売るために近付く』、『ついでに凪沙へ恩返しする』という当初の目的も忘れ、顔を真っ赤にした先輩マネージャーにがくがくと揺さぶられる羽目になったのだった。

(御幸と新一年生のお話/2年春)


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