御幸一也と同じ苗字

 御幸一也と結婚して、早数か月が経過した。

 凪沙にとって結婚という行為はとても神聖で奇跡的で、それでいて幸せに満ち満ちていると思っていた。かつて姉が父親と縁を切りかねないほど大喧嘩した時、『結婚』とはそこまでするものなのかと感銘を受けたものだ。ただ、実際結婚してみれば意外とそんなことはなく。書類一枚で苗字が変わり、クレジットカードだパスポートだ免許証だの更新に奔走するばかり。おまけに旦那はオフシーズンは秋キャンプ・年末年始のテレビ番組収録・自主トレ・春キャンプの怒涛のコンボによりほとんど家におらず、二人でゆっくり過ごした日は両手どころか片手で足りるレベル。意外とこんなもんかあ、と凪沙は洗濯物を畳みながらしみじみと思う。

 そもそも同棲はしていたので家に御幸がいる新鮮味もなく──正確には、家にいること自体新鮮なのだが──、苗字は変わったが職場では旧姓を名乗っているし──経理には報告したが、野球好きはいないようで今のところ勘繰られてはいない──、なんというか、本当に新鮮味がないのだ。そりゃあ結婚式だの親に挨拶だの改姓手続きだのドタバタすることはあったが、それはなんというか、業務的なものである。こう、心の持ちようと言うか、夫婦になったことに対する心境の変化というか、そういうものがあるのかと思っていたのだが。

 現実はただ、昨日と同じ明日が続くだけだ。

「(まあ、それがいいんだけどさ)」

 限りない贅沢のはずなのに、ついつい何かを期待してしまう。人間という生き物の欲は尽きることがない。罪深いものである。愛する人を愛し続ける明日は、きっと誰も彼もが欲しがって、そして多くの人が手放してきた『明日』なのだから。

「──なー、俺のグロング届いてねえ?」

 がらにもなく哲学的なことを考えていると、シャワーから上がった夫がひょっこりとリビングに顔を覗かせてきた。ホームのデーゲームぐらいだろう、御幸がこうして自宅でくつろいでいる様を見れるのは。パリーグの選手は北へ南へ奔走するというし、彼がセリーグ在籍で良かったと思う。

 「宅配ボックスはー?」と訊ねれば、御幸は軽く首を振る。今日は休みだし家にいたはずだが、宅配の類は来ていない。子持ちの家のように大量に積み上がるタオルの山を一つ一つ崩しながら畳んでいると見かねたように、ぴんぽーん、とチャイム音が響いてきた。件の宅配だろうか。

「ワリッ、ちょっと出てくんね?」

「しょうがないなあ、早く着替えなよお」

 上半身裸の夫を玄関に出すわけにはいかないので、よっこいせと立ち上がって玄関へ向かう。二人で暮らすには広すぎる家の廊下をぺたぺたと歩きながら玄関へ向かう。『御幸』と銘打たれたシャチハタを手にドアを開ければ、愛想のない宅配業者が顔を覗かせた。

「御幸凪沙さんでお間違いないですか?」

「──、」

 自分の名前を呼ばれ、一瞬誰のことかと本気で呆けてしまった。そうだ、自分だ。今の自分が名乗るべき名前だ。てっきり御幸の荷物が届いたと思っていたので、完全に虚を突かれてしまった。こういう時は確かに、結婚したんだよな、と強く実感する。

「御幸さん?」

「あ、はい、大丈夫です、御幸です。はい」

 不審がる宅配業者に愛想笑いを浮かべながらハンコを押して、荷物を受け取る。荷物の差出人は中学時代の友人だった。そういえば結婚祝いを送るとか言ってたような。お礼考えなきゃと、ドアを閉めてリビングに戻ると、頭にタオルを乗せてがしがしと拭いている御幸が、期待に満ちた視線を寄越す。

「来た?」

「ううん、友達からの結婚祝いだった」

「へー、なにそれ」

「軽いしタオルかな。こんなんなんぼあってもいいですからね」

「あー、それ聞いたことある。なんだっけ」

「嘘でしょ始球式来てたじゃん」

 相変わらず、野球以外とんと興味を持たない男である。今に始まったことじゃないにしろ、始球式でネタまで披露してくれたのに忘れるんじゃない、と言いたくもなる。

 そうして凪沙は呆れながら友人からの御祝品を開封する。読み通り、中身はフェイスタオルとバスタオルのセットだった。助かるー、と凪沙はふかふかのタオルを抱き締めた。新品特有の、何とも分からぬ変なにおいがする。

「誰?」

「中学の友達。昔一緒にミニバスやってたんだ」

「お前ホント友達多いよなあ……」

「一也くんが友達選び過ぎてるだけだと思う」

 おかげで返礼品の選定に苦労はしなかったが、これを利点と捉えるかは考えものである。不服そうな御幸が真新しいタオルをちらりと見て、そして雑に開封された箱に目を向けた。

「へえ」

「なに?」

「いや、いいなって」

「そんなに気に入ったの? 来週の遠征持ってく?」

「じゃなくてさ」

 そう言って緩やかな笑みを零しながら、御幸はタオルではなくタオルが入っていた箱を撫でる。厚い指先には丸みを帯びた字で綴られた凪沙の名前。『御幸凪沙様』という宛先。


「──俺ら、ちゃんと結婚したんだなって」


 噛み締めるように、御幸が目を細める。その横顔に、胸がぎゅっと締め上げられる。同じだったのだ。彼もきっと、実感がなかったのだろう。一緒に暮らして当たり前。苗字が変わって当たり前。同じ明日が当たり前──そんな当たり前を、こうして『特別』と思えることが、共感できることが、その言葉に喜びを見出せることが、嗚呼、どれだけ幸せか。

「御幸凪沙、まだまだ慣れないなあ」

「病院行って困らねえ?」

「めっちゃ困る。看護師さんに何度睨まれたか」

「しっかりしろよー、御幸夫人」

「そう聞くとなんかお蝶夫人みたい」

「なんだっけそれ、女バレ?」

「うーん、女子スポーツまで辿りつけてえらい」

 ケラケラ笑えば御幸は何だっけとしきりに首を捻る。そんな取るに足らない、くだらない日々。一年後には忘れてそうな、しょうもない会話。でも、こんなのが案外十年二十年後も笑い話になると聞く。なったらいいな、と思う。なってほしいな、とも。そうして二人でいつまでも『当たり前』に感謝しながら生きる夫婦で在りたいと、凪沙は強く願った。

(結婚した後のお話/プロ6年目春)

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