御幸一也の甥っ子

 鐘の音が鳴り響く。これが一世一代の恋が終わる音かと、俺は静かに唇を噛み締めた。

 生まれてから、母親の顔より先に覚えたその人が好きだった。その人に抱っこされて、手を繋いで、飯食って、風呂入って、寝て、幼少期のほとんどを彼女の隣で過ごした。作ってくれたご飯は美味しかった。運動会で一緒にリレーしてくれて嬉しかった。『和哉くんすごいね』の一言で、俺はなんだってできる気がした。そりゃ、血の繋がった人だし、結婚出来ると本気で思ってたわけじゃない。ただ、ずっと傍に居てくれると思ってた。それができると、信じてたんだ。追いかければ、いつだってその人には手が届くんだって。

 だから野球を始めたのも、親戚がやってたってのもあるけど、一番はその人に──凪沙ちゃんに褒めて欲しかったからだ。高校で野球部のマネージャーを始めたと聞いて、俺はいの一番に野球を始めたいと母親にグローブとバットをせがんだ。家計的には決して裕福な方じゃなかったけど、母さんは何も言わなかった。応援に来てくれたことは無かったけど、凪沙ちゃんや婆ちゃんは応援してくれたし、褒めてもくれた。だからそれでよかったはずだった。なのに。

「凪沙ちゃんは俺の恋人だから、お前とは結婚しねえぞ」

 八歳になったあの日、俺は生涯最大の天敵と相対した。

 御幸一也。凪沙ちゃんの彼氏とかいうそいつは、俺の人生から凪沙ちゃんを奪った。神奈川に引っ越して、部活が忙しくてなかなか遊びに来れなくなった凪沙ちゃんの数少ない時間を、あいつが掠め取っていったんだ。それが許せなくて、認められなくて、その日から御幸一也は俺のライバルになった。そいつを倒すべき目標と定めて、野球に打ち込んだ。年が離れているから、勉強でもスポーツでも、あいつとはろくに勝負してもらえない。勝負にならない。でも、野球は違う。野球は、俺とあいつを真っ向勝負させてくれる武器であり、舞台だ。だから一足先にプロの世界に踏み込んだあいつを見て決めたんだ。

「おれ、野球選手になる!」

 そう言った俺を、母さんは笑わなかった。婆ちゃんは喜んだし、凪沙ちゃんは応援してくれた。だから俺は必死にボールを投げて、バットを振り込んだ。いつかあいつを超えるため。倒すため。この数年必死だった。あいつがプロとして結果を出すたびに、俺の尻には火が付いた。あいつの傍に居る凪沙ちゃんの笑顔を想像するだけで、吐くほどの練習だって苦じゃなかった。必死で練習して、練習して、練習した。飯もいっぱい食った。テレビもゲームも止めて、睡眠時間をたっぷり取った。成績が落ちて母さんに叱られたから、勉強だって頑張った。

 その甲斐あって、俺はボーイズでもそれなりに名を馳せ、中学は色んなところから推薦が来た。学費がタダだと母さんも喜んでくれたし、凪沙ちゃんもいっぱい褒めてくれて、ケーキを焼いてくれた。でも、倒すべき敵はまだ遠い。あいつはもう、プロの世界で、一軍で戦っている。まだまだだと自分を叱責しながら、俺は親元を離れて青道中東部へ進学した。婆ちゃんちに下宿して──凪沙ちゃんと一緒に暮らせるかも、なんて期待はあったが、残念ながら凪沙ちゃんは一人暮らししていた──、青道でもめいっぱい練習した。大阪やら北海道やら、色んな私立から声がかかった中で青道を選んだのは、あいつへの当てつけだ。青道からは多くの野球選手を輩出してる。降谷先輩や沢村先輩を筆頭に、あの世代は黄金時代とさえ呼ばれていた。その時代の立役者が、あいつだったから。あいつの名前を塗りつぶす。それだけの選手になる。ただそれだけの思いだった。なのに。

 十四の冬。俺の恋は、完膚なきまでに叩きのめされた。

「……け、っこん、しき?」

「そ。ハワイだってさ、あんたパスポート持ってないからね」

 ある日、学校から帰ると婆ちゃんちに来てた母さんが、俺に言った。凪沙ちゃんが、結婚すると。結婚式はハワイで執り行うから、パスポートを作りに行くよ、と。その瞬間、俺の中で何かが崩れ去っていく音がしたんだ。

 そりゃあ、本気で結婚できるなんて、思ってない。あいつから凪沙ちゃんを奪えるなんて、考えてない。だけど、母さんの話を聞いて、信じられないぐらいショックを受けた。ああ、遅かった。そんな喪失感が、俺を襲ったのだった。それから何話したか全く記憶がないまま、あれよあれよと時間は過ぎていき。年が明けてから、あいつと──御幸と凪沙ちゃんの結婚式のために、俺たちはハワイへと飛んだのだった。

 そこで見た凪沙ちゃんのドレス姿を、俺は一生忘れない。

「……きれーだよ、凪沙ちゃん」

「ありがとう、和哉くん」

 輝くぐらい真っ白なドレスに身を包んで、窓辺に佇む凪沙ちゃんは本当に幸せそうで、不安なんか何一つないって顔してて、ほんとに、ほんとに綺麗だった。思わず、涙があふれるほどに。そんな俺に、凪沙ちゃんは困ったようにはにかむ。俺は凪沙ちゃんのこの顔が、好きだった。眉を八の字にしながらも、しょうがないなあ、って撫でてくれるこの人の優しさに、俺はずっと恋してたんだ。

 例えそれが一般的にいう『恋心』じゃなかったとしても、俺にとっては凪沙ちゃんは恋の象徴だったんだ。だからずっと、俺にとって凪沙ちゃんは大好きな人で、初恋の人だった。その人が今日、俺の目の前で倒すべきライバルと決めたあの男の元へ向かってしまう。そう思えば思うだけ涙が止まらなくて、凪沙ちゃんは子どもの頃のようによしよしと頭を撫でてくれた。

「お父さんより先に泣いちゃうなんて」

「だ、だって、おれ、心配、でっ!」

「大丈夫だよ。あの人となら、私はどこまでも歩いていける」

 凪沙ちゃんは強かった。プロ野球選手と結婚なんて、並大抵のことじゃない。今までもこれからも、大変なことは山ほどある。それでも、凪沙ちゃんは幸せそうに笑ってた。だから俺は見送るしかなかった。邪魔なんかする気もないし出来もしないけど、それでも岩を飲み込んだような気分で、式場へと向かった。

 白いチャペルは穏やかな日差しに包まれ、荘厳ながらもどこか柔らかな雰囲気で俺たちを出迎えた。そうしてバージンロードを歩く凪沙ちゃんを、ただただ見送る。その先には、俺のライバル。倒すべき敵がいる。そいつも凪沙ちゃんと同じぐらい真っ白なスーツに身を包んで、悔しいけど、ちゃんとした花婿やってた。ああ、悔しい。凪沙ちゃんが幸せになるのは嬉しいし、別に今更、横恋慕する気はない。だけど、悔しいんだ。こんなにも年が離れてなかったら、俺はあいつとちゃんと勝負できたのに。ちゃんと正面から勝負した上で、負けられたのに。

 それが叶わないことが、どうしようもなく悔しいのだ。

「和哉、どうかした?」

「……なんでもないよ、母さん」

 神父がつらつらと口上述べるそれを、俺はじっと見据える。そうして指輪を交換して、誓いのキスをして、二人は晴れて夫婦になる。数多の祝福を背に、二人の新郎新婦は道を行く。鐘の音と共にチャペルを後にする二人を見送りながら、俺は一世一代の恋に別れを告げた。

 ここからは──凪沙ちゃんは関係なしだから。



***



 その後、俺は青道高校に進学し、ひたすら野球に打ち込んだ。打者全員御幸だと思えば、俺のボールは吸い込まれるように相棒のミットに飛んでいく。その甲斐あって一年から甲子園のマウンドに立つことができ、俺は何度となく立ちはだかるライバルたちから三振を奪い取っていく。世代最強の左腕として名を馳せた俺はプロの目にも留まるようになった。何度となく記者が俺にマイクを向け、俺はそのたびにこう答え続けた。

「叔父の御幸一也を倒すために、プロに行きます」

 義理とはいえ叔父と甥の関係にあった俺たちに、マスコミはめっぽう注目した。マスコミが賑わえば賑わうだけ、俺は金の成る木になる。これもまたスポーツ選手の役目だと、俺は御幸の背を見て教わった。だから結果を出し続けながらマスコミを煽るだけ煽り、甲子園二連覇で終わった夏の後、U-18でも最優秀選手に選ばれ、俺はついにドラフト会議を迎えていた。

 頑丈で、コントロールが良く、おまけに高校生にして最速百五十一キロのストレートに、捕手が逸らし過ぎて中々投げられないジャイロフォークを武器にした俺は、数多の球団からドラフト前に声がかけられていた。ネックはスタミナとか言われるけど、そんなもんこれから鍛えりゃいいし。プロのスカウトたちもそれが分かってるから、俺を狙い続けた。正直どの球団でもよかったが、御幸を倒す以上あいつと同じ球団は困る。とはいえ、「ここだけは嫌だ」なんて言っちまうと後々角が立つし、そもそも確率は十二分の一。だから一位指名してくれりゃどこでもいいと、特にこだわりなく俺はドラフト会議に臨んだ。そうして迎える運命の瞬間、俺は見事五球団から一位指名された。その中に御幸の球団もあったのは気になったが、まあ五分の一の確率なんて早々引っくり返ることは無い──。

 そう思ってた俺が、心底アホだった。

「──あ」

 俺の名の書かれたクジを手にしていたのは──御幸のとこの、監督。カメラがある以上、ヤッベ、なんて顔に出ないよう必死だったけど、こんなんありかと頭を抱えたくなった。なんで倒したい倒したいと公言し続けた奴と同じ球団に入らなきゃなんねえのか。そんな俺に、記者たちは当然マイクを向ける。叔父の御幸選手と、これから同じチームでどう戦っていくか、と。

「え、ええと……最大の敵が身近にいることで、刺激になる、かと……」

 たどたどしくインタビューに答える俺を見て、御幸がテレビの前で笑い転げていると凪沙ちゃんに聞いた時、内腿ボコボコにしてやろうと俺は堅く誓った。

 まあ、まあ、なんだ。同じ球団に入って唯一良かったことは、そもそもあいつ自身FA取得の時期が迫っていたことだ。悔しいが打てる守れる顔もいい、と三拍子揃った御幸はどの球団も喉から手が出るほど欲しがった。うちの球団はそこまで金ある方じゃなさそうだし、マネーゲーム持ち掛けられたらまず勝てない。おれが二軍で扱かれてる間に、とっとと出てってくれりゃ御の字だと安心したのも、わずか一年。翌年、四年十数億というバカみてえな契約を提示した球団に、あいつは躊躇いなく残留宣言をした。叔父甥バッテリーをさせたいという首脳陣たちの熱い声援に応えたという御幸のインタビューを見た俺は、迷いなくお祓いに向かった。

 そうしてプロ二年目。シーズンも終えた今日、俺は初めて御幸と組む。

「しっかり頼むぜ、和哉クン?」

「逸らしたら殺すからな、オ・ジ・サ・ン」

 そうしてマウンドに向かう俺は、倒すべきライバル目掛けて渾身の投球をするはめになった。なんでこんなことになってんだろと思いつつ、相手は倒すべきライバルではあるが、投手として捕手に舐められるのは癪だ。ぜってえ構えたところにブチ込むと、俺は第一球を大きく振りかぶった。

 ──結局御幸を倒すどころか相対することすらできないまま、俺が仕上がるより先にあいつは引退していった。俺は恋を叶えることもできなければ、ライバルを倒すことさえできなかった。凪沙ちゃんに、御幸に、俺は挑み続けて、結局何一つ届かない人生だったと、人生を振り返りながら思う。それでも、凪沙ちゃんの子どもが俺をおじさんおじさんと慕ってくれる中で、御幸と共にノーヒット・ノーランを達成したあの日、こんな人生もまあ、悪くないかもしれないと思ってしまったのだった。

(天城和哉のお話/プロXX年目)

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