御幸一也と同棲する

「……なんか、変な気分」

「と、いうと?」

「部屋に御幸くんがいるなあ、と」

「そりゃそうだろ。一緒に暮らすんだから」

「そりゃそうなんですけども」

 それでも奇妙な気分だ。凪沙はそんな感情を噛み締めながら、隣にいる恋人を見上げる。御幸一也は少しくたびれたように笑いながら、ソファに腰を下ろす。凪沙もそれに倣うように、どさりとソファに倒れ込む。真新しいソファは硬く、慣れないにおいがした。

 今日は大忙しだった。何分、一生に何度あるか分からない引越し日だったのだから。それも、ただ住まいを移動するだけではない。愛する人と一緒に暮らすのだから。今日という日がいつか来るとは思っていたが、やはり訪れてみれば感慨深い──なんて思っている暇などなかった。とにかく忙しいなんてものじゃなかったのだから!

「疲れたねー……」

「ほんとありがとな、色々」

「それほどでもー」

 とは言いつつ、流石に疲労感が拭えない。ぐったりとソファで伸びる凪沙を、御幸は申し訳なさそうに撫でる。それだけで『まあいいか』なんて思ってしまう程度には、まだまだベタ惚れだったわけだ。

 引越しはとにかく大変だった。そもそも、一緒に暮らすにあたって結婚まで考えていたのに、御幸が若くして国際大会に選出されてしまい──有力候補が軒並み辞退してしまったため、繰り上げで選ばれてしまったのだ──、入籍やら挙式やらをする暇がなくなってしまったのだ。とはいえ凪沙が借りているマンションの更新日も迫っていたので、せめて同棲だけでもと互いの両親への挨拶も儘ならないまま引越しに踏み切った。なので借りる家も契約手続きも引っ越し業者の手配も二人で使う家具の選定も、全部全部凪沙が請け負った。何せ御幸は練習試合やら調整やらでとてもじゃないが引越しなんてやっている暇などなく──本人のこだわりがないことが幸いし、寮の荷物は球団職員と提携して無理矢理運び出した──、ようやく御幸が落ち着いた頃には開幕は間近。調整に奔走する御幸が引越し日に立ち会えたのは奇跡と言えよう。

 そうして凪沙が選んだ家具や電化製品が凪沙が選んだ家に、凪沙が望んだとおりに運び込まれた。全権任せた御幸は文句一つ言わず──流石に文句言われる筋合いはないが──、業者の荷解きが終わったころにこっそりと帰宅したのだった。

「荷物でバレなかったか?」

「野球ファンだとは思われたっぽいけど、別に」

「そういうもん?」

「寧ろ『見るからに二人暮らしなのに、なんで立会人が一人なんだろう』って顔された」

「あー……」

 御幸の住むマンションや引越しの業者は選手や球団職員御用達なので、多少有名人が出入りしたところで情報が漏れることはないだろうが、それでもヒヤヒヤするものだ。御幸は国際大会でも結果を残し、名を挙げ、顔を売った。イケメン捕手として売り込まれていた彼のグッズはますます入手困難になるだろう。球団としても人気選手の結婚だの婚姻だのは無いに越したことはないはずだ。シーズンが始まってしまえば入籍だの挙式だの両家ご挨拶だのやっている暇はない。この一年は球団の収益に加担するか、というのが二人の意見だった。どうせ御幸一也に長年付き合っている相手がいることぐらい、古参のファンなら誰でも知っているだろうし。

 でも、あと一年。もう一年我慢すれば、多少の窮屈さからは解放される。メディアに付きまとわれる日々がなくなるとは思わないが、それでも恋人の存在をひた隠しにする必要はなくなる。それまでは窮屈な生活を強いられるが、まあ、一年後のための練習だと思えば悪くはない。

「明日はー?」

「神宮で試合」

「え、ファームじゃないんだ」

「もう調整終わったし」

「早くない?」

「投手ほど調整いらねーし。つーか下にいる余裕ない」

「あー、オープン戦酷かったもんねえ……」

「オープン戦は参考だっつの。まあ、貧打なのは否定しねーけど……」

 野球選手にとって国際大会はあくまで『お祭り』でしかない。そこでタイトルを取ろうが優勝しようが、ペナントレースで結果が出なければ職業:野球選手として意味がない。寧ろ国際大会で怪我をしたり、調子が狂う選手が後を絶たないため、辞退する選手も決して珍しくない。勿論勝ち続ければ注目も集まるし、新規ファンの獲得にもなるので、必ずしも悪いことばかりではないのだが……。

 とはいえ、引っ越しを予定していたのに御幸が国際大会に選ばれるなんて想定外だ。第三捕手としてほとんどベンチにいたとはいえ、選出されること自体が光栄なことだ。ただ、せめてもうちょっと早く決まっていれば、こんなにドタバタすることはなかったのに、と思う。怪我だの何だので辞退した錚々たる選手たちを思いながら、凪沙はだらりとソファに身を委ねる。御幸が頭を撫でてくれるので、眠くなってきたのだ。

「こらこら、寝るなって」

「むりーねむーいもう寝るー」

「せめて風呂入れって」

「まだはるやすみだからいいもーん」

「理由になってねえって」

 もはや思考さえ億劫だ。とにかく一日ドタバタしていたのだから。荷物を運び出し、配置し、業者に軽く荷解きしてもらっている間に掃除をして。業者が帰れば本格的に荷解きを開始して。凪沙は人生最後の春休みがあるのでまだいいが、御幸は明日も試合という名の仕事なのだ。せめて御幸の生活に支障が出ないよう、最優先で段ボールから荷物を引きずり出した。まあ、御幸は私物が少ないので、段ボール数個レベルで済んだのでまだマシだったが。

 それから洗剤だのハンガーだの食器だの、共用で使う物から優先して段ボールから引っ張り出す頃には、もう日が暮れていた。夕食を作る体力もなく、珍しくコンビニで調達してきた弁当を楽しむ余裕すらなかった。ソファにへばりつく凪沙を、御幸は軽く揺さぶるが、もう指一本動かしたくない。

「こんなとこで寝たら風邪引くぞ−」

「……んんん」

 それは困る。移したら球団やそのファンに殺されかねないと、凪沙は反射的に体を起こす。けれど目は全く開かず、険しい表情のままフレーメン反応のように身じろぎ一つしなくなる。

「お、その意気その意気」

「……ンンンン」

 けれどすぐに力が抜けて、ふにゃりと崩れる凪沙を御幸はケラケラ笑いながら抱き留めた。しかめっ面のまま御幸の胸の中になだれ込むと、その程よい暖かさと柔らかさの枕──という名の胸筋に、顔を埋める。

「ぐう」

「俺を枕にすんなっつの」

「こんなしゃべるまくらいらない」

「こいつー」

 ぐにぐにと両手で顔を揉まれるが、凪沙の眠気はまだ抜けない。御幸も本気で起こすのは諦めたようで、まるで赤子を抱きかかえるように凪沙の頭を肩に乗せ、ぽんぽんと背中を優しく叩いてくる。

「しゃーねえ、一時間だけな」

「えーん御幸くん好き」

「お前の好意安すぎ」

「ないよりマシー」

「だな」

 お互い、下らない会話が垂れ流される。けれど、この距離感が心地いい。いつもは、これが特別だった。こんな穏やかな時間でさえ、二人にとっては限られた日々の中を縫うように過ごすしかなかった。

 けれど、今日からは違う。今日からは、ずっと一緒だ。勿論、遠征の多い仕事だ。普通の夫婦のように毎日仲睦まじく過ごすことはできない。それでも、今までを思えば贅沢すぎる。これからは年の半分以上、一緒に過ごすことができる。きゅ、と力なく御幸のシャツを握り締めて、胸元に顔を摺り寄せる。お互い朝からドタバタしたせいで、少し埃っぽいし、汗のにおいもする。それでも、よかった。

 それでも。それだけでも。凪沙たちは幸せなのだから。



***



 あれから、数年。

「……なんか、変な気分」

「と、いうと?」

「部屋に一也くんがいるなあ、と」

「そりゃそうだろ。一緒に暮らしてんだから」

「そりゃそうなんですけども」

「……こんな会話、前もしなかったっけ」

「そんな気もする」

 部屋にいる夫を眺めながら、凪沙はしみじみと頷いた。

 とはいえ、数年経っても愛する人が──夫が家にいることに、凪沙は未だに慣れないでいた。一年の半分とはいわないが、やはり週五日〜六日も仕事があり、遠征の多い御幸がスウェット姿で家を闊歩しているのは、まだ変な光景に見えてならない。自分が家で仕事している時は、なおさら変な気分になる。

 シーズンが終われば秋季キャンプがあり、冬場のメディア出演が終わればすぐに自主トレーニング、終われば春キャンプ、それを乗り越えればオープン戦──試合がなくとも、野球選手に暇はない。故に、たまの休みにこうしてだらけきった姿を晒しているところを見ると、動物園でパンダを見たような感覚に陥るのだ。

「仕事は?」

「今日はもう終わるー」

「飯作るわ。何がいい?」

「お、気が利くー! じゃあ御幸印のチャーハン!」

「せめてそこは一也くん印にしてくんね?」

「私も作れるようになったらね」

「いつになるんだよ」

「いつか!」

 そんな下らない話をして、二人で笑い合う。もう仕事はおしまいだ。作りかけの資料を放り出し、凪沙はキッチンへ向かう。スウェットにエプロンを纏った夫がキッチンに立つのを眺めながら、凪沙はテレビで試合のハイライト集を垂れ流す。

「いいねー、このホームランほんと綺麗」

「あー、それな。スゲー気持ちよかったわ」

「やだエッチ」

「なんでだよ、分かるだろ」

「うーん、最近バット振ってないしなー」

「たまには打てよ、勿体ねえな」

「いやいやどこでよ」

「どこだってイケるだろ」

「この辺バッセンあったっけ?」

「沢村でも降谷でも呼べばいいだろ」

「一億の後輩をバッピ扱いするんじゃありません!」

 食材を刻み、鍋に火を入れる音をBGMに、そんなしょうもない会話を楽しむ。多分、御幸と凪沙はいつまでもこんな感じで、変わらない。こんなくだらない日常を非日常のように抱き締めて、愛して、思い出にする。そんな思い出が今日も作られる喜びを噛み締めながら、凪沙は夫特製のチャーハンの味を思い出して、ぐうと腹の虫を鳴らすのだった。

(一緒に暮らすお話/プロ5年目春〜)

*PREV | TOP | NEXT#