御幸一也の知らぬところで

 とある男の、証言。

 御幸一也はネタの種である。若くして一軍入りした天才捕手。打てる捕手。イケメン捕手。それでいて、この数年スキャンダル一切ない格好の的である。御幸一也には何度かまともな取材を行ったことはあるが、いい意味では今時珍しいクリーンな野球選手、悪い意味では隙のない面白みのない男だった。とにかく女遊びをしない、寧ろ球場と宿舎の往復ばかり。趣味は野球、特技なし、友人関係も狭い。故に絶大な人気を誇る。故にこそ、御幸一也に張り付く記者が多い。この隙のないイケメン捕手に何らかの欠点があれば、それだけで飯が食えるからだ。だから晴れの日も雨の日も張り込んでいるわけだが、一人、また一人同業者は去っていく。何故なら何日張り込んだところで、ボロが出ないのである。御幸一也は、間違いなくクリーンな人間なのだ。

 だが、ただ一つ付け入る隙があるとすれば、それは彼の恋人。同業者なら全員が知っている、御幸一也が唯一人間味を見せる相手。それを知るのは決して難しいことではない。御幸はオフの日決まって彼女の家に赴くのだから、ちょっと張り込んでいればその自宅と顔はすぐに分かった。顔と住所が分かれば話は早い。どこにでもいそうなその少女が高校時代から付き合っていた恋人だと判明し、そこまで遡れば彼らの何もかもが調査がついた。それだけで十分ではないか、そう思う人もいるだろう。だが、それでは足りないのだ。何故ならその恋人もまた、御幸一也同様にクリーンな人間だったからだ。

 名前は天城凪沙。青道高校卒業、現在明神大学四年生。御幸一也と同い年。元青道高校野球部マネージャー。大学近くのマンションに一人暮らし。スポーツジムに併設されたテニススクールのサブコーチとしてアルバイトをしている、まさに文武両道。御幸と正反対で人当たりもよく交友関係も広く、SNSを調べれば多彩な趣味嗜好が見つかる。無論、御幸の球団ファンで、シーズン中はよく球場に現れる。ただ他の選手との交流はない様子で、一人で見に来ては一人でしずしずと帰っていく──。

 お分かりいただけるだろうか。ああ、なんてつまらない人間だろう。こんなもの、なんのネタにもならない、ただの個人情報のオンパレードだ。寧ろこんな情報を記事にしてしまえば、プライバシー保護法だか個人情報保護法だかに引っかかってしまう。違うのだ、自分たちが求めているのはそんなものではない。そういうクリーン見える人間が、裏では浮気、ギャンブル、反社会的勢力、いっそドラッグに関わっている──人々が求めている記事は、売れる記事とは、そういうものなのだ。人間誰しも他人に見せられない顔があるはずだ。自分にあるのだから、他人にもあるのだと期待する。それを白日の下に晒すのが記者の仕事である。故にこうして、寒い日も暑い日も御幸一也──ではなく、恋人の方を張り込み始めて数か月ほど経過した、のだが。

「(コリャ今月も給料泥棒だな……)」

 収穫、ゼロ。御幸も御幸なら恋人も恋人である。授業やアルバイトの関係もあり日々のスケジュールはまちまちではあるが、大体朝早く起きて大学へ向かい、遅くとも二十二時頃には帰宅している。とても健全な大学生の生活である。友人回りもさほど荒れていないし、浮気なんて以ての外。特別美人でもない彼女が、何故御幸一也と付き合い続けているのかは一切分からない。なんの面白みのない、ごくごく普通の学生だ。御幸一也のスキャンダルを探っては去っていく同業者の数が多いわけだ。だが、コンコルド効果とでもいうのだろうか。彼女たちに注ぎ込んだ時間を考えて、どうしても引けなかったのだ。

 この道に入ってもう何年にもなる。ようやく芽生えてきた記者の勘は言っている、もう此処で引くべきなのだと。こんなの時間の無駄だ。何も出てこない。けれど、何か、何かあるはずなのだ。人間なのだ、裏の顔があるはずなのだと、もはや意地で張り続けていた。大学生だぞ。相手は有名プロ野球選手。足しげく通っていようと、一か月に一度会えるか会えないか、という頻度。男の影でも掴めれば、それだけで勝ちなのだ。だから。

「(──きたぁ!)」

 記者だって馬鹿じゃない。勝ち筋のない戦に長々付き合いはしない。火のないところに煙は立たないように、記者だって煙があると掴んだからこそ火種を探し続けていたのだ。張り込み続けて早数か月、ようやくその姿を掴んだのだ。写真を納めなければ、と、社用携帯を構える。

 レンズの向こうには、一人の青年がいる。ぼんやりした表情で、大きな荷物を背負って天城凪沙のマンションに向かっている。年の頃は高校生か大学生ぐらいだろうか、すらりと背が高く、色素の薄い髪に切れ長の目、これまた中々のイケメンである。モデルかアイドルかと思って調べたが、どうやら一般人らしい。素性は分からないが、ここ最近天城凪沙の家にその男が出入りしているのだ。どう見ても御幸一也ではないし彼に兄弟はいない。天城凪沙にも男兄弟はいないはず。ただの友人? 年頃の大学生が一人暮らししている家に、男が一人で上がり込むのに? 記者の勘が言う、これは間違いなく『火種』なのだと。

 御幸と天城凪沙のツーショットはここ数年いくらでも撮られてきた。まあ、この二人はこちらが呆れるほど家デートばかりなので──外でいちゃつくだの、ホテルにインするだの撮れればまだ良かったのに──、せいぜい近所のスーパーに買い出しに行く姿ぐらいしかないのだが。それでもトイレットペーパーだの米などを抱えて歩く御幸を見れば、二人が懇意であることは言わずもがな。これに並べるように天城凪沙があのイケメンと並んでいる姿を収めてインタビューでもできれば完璧だ。ようやくこのつまらない張り込みからおさらばできる。いざ、と意気込んだ。その時。

「(──あ、れ?)」

 画面の中にいる謎のイケメンが、こちらを見ている。見ているどころか、レンズ越しに目が合っていると錯覚するほどに。おや、と首を傾げる間に、カメラの中の人物は徐々に徐々に大きくなっていく──。

「てめぇだな、凪沙ちゃんのストーカーってのは」

 気付けば、ゆらりと柳のような体が自身を見下ろしていた。身体のわりに声は高い、まるで思春期の少年のようだ。けれど自分を見下ろすその体躯に呼吸が上ずる。一体何センチあるんだとばかりの身長に、がっしりとした肩幅。スポーツでもしているのだろうか、まだ身体つきは出来上がっていないが、これに厚みが出たらラグビーでもアメフトでもできそうだ。

 だが、『ストーカー』というワードがようやく脳みそが理解し、まずいと顔色が変わった。

「な、なんだ君! ストーカーって、何を根拠にっ」

「惚けんじゃねえネタは上がってんだよ。こそこそ凪沙ちゃんのこと嗅ぎ回って大学からバイト先まで付きまといやがって、バレてねえとでも思ったのか?」

 そう言いながら大男が突き付けてくる携帯には、確かに自分が用もない大学や天城凪沙のアルバイト先をうろついている姿が収められていた。しまった、まさか自分がつけられているなんて。がしりとこちらの腕を掴む握力は相当なもので、へし折られてしまいそうなほど相手はいきり立っている。

「クソ野郎め、言い訳は警察にするんだな」

「ち、ちが、俺は記者だッ! 彼女の、御幸一也の、取材をっ!!」

 あわや警察を呼ばれる前にボコボコにされかねない勢いだ。大人しく白状しながら名刺をつき出すと、イケメンは名刺に目をやりながらすっと目を細めた。ぱっと名刺をひったくるなり、にやりと笑んだ。

「御幸か。そうか、御幸のせいで凪沙ちゃんは困ってるのか」

 にやにやと、よく分からないことを言い出すイケメン。どうやら彼らの顔見知りであることはこちらの読み通りだったらしい。だが、関係性が全く読めない。御幸一也よりは年下に見えるが、球団関係者だろうか。『凪沙ちゃん』、だなんて、どういう関係なのか。浮気なのか、間男か、もしやこっちがヤバイストーカーの可能性も。なまじ相手が巨体なだけに、こちらも出方に迷ってしまう。しかも弱みさえ握られている。どうしようかと困惑していると、イケメンはパッと手を放してくれた。

「なるほどね、記者、なるほどな」

「わ、分かって頂けたようで……だったら──」

「とりあえず警察は呼ぶから待ってろ」

「なんでだよっ!!」

 携帯を耳に当てるイケメンに慌てて掴みかかるも、ぎろりと絶対零度の視線が飛んできてぞっとした。汚物を見るようなその目に、ぞわりと背筋が震えた。

「『なんでだよ』?、よくそんなこと言えたな、ゴミ野郎。何か月も女の子付け回して、ストーカーとしてつき出されないとでも思ってんのか?」

「な、何もしてない!! 写真どころか、話しかけたことだって!!」

「じゃ、『何もしなかったけど大学生の女の子を数か月追い回してました』って聞いた警察が、この写真見てどう判断するか試してみようぜ」

「ぐ……!」

 有名人のプライベートは『有名税』だからとある程度許容されるも、一般人相手にはそうはいかない。何もしていないとはいえ、証拠がこうして揃っている以上、圧倒的に不利だ。まずい、ボコボコにされる。物理的にではなく社会的にだ。

「そしたら凪沙ちゃんも気付くよな? こんな奴にばっかりつけ回されて、嫌になるよな? 怖いよな? そしたら御幸とも別れてくれるよな? あんたもそう思うだろう、なあ?」

 やばい──本能的にそう感じた。にやりと笑うイケメンの目は、完全にイッてる。こちらを見てるのかさえ定かではない虚ろな表情のままそんなことをぼそぼそと呟きながら、ずいっと顔を覗き込まれる。まずい、逃げなきゃ。そう思っても、捕食者を前に成すすべなく震えるしかできず。ああ、だから、諦めた方がいいと、記者の勘は告げていたのに。その時だった。

「こぉら! 何してんの和哉くん!」

 ぺし、という軽い音。イケメンの後頭部──ではなく背中に手刀を振り下ろす、一人の少女。それがこの数か月つけ回していた天城凪沙だったのだから、驚きのあまり飛びのいた。一方で、不服そうに凪沙を見るイケメンに、小柄な少女はご立腹な様子。

「もー、この子は思い込み激しいんだから……すみませんうちの甥っ子が大変な失礼を……」

「あー、いや、その──甥、っ子……?」

 ちらり、とイケメンを見上げる。甥っ子、甥っ子だと。確かに若いが、二人並んでいれば男女の仲に見えなくもないこのイケメンが、甥っ子。まさかそんな、と混乱していると、イケメンはポケットに手を突っ込み、何かをずいっと突き付けてきた。

 それは学生証だった。天城和哉、青道高校付属中学校三年生と書かれている。なるほど、苗字も同じ。年齢も身元もはっきりしている──。

「ちゅ、中学生……っ!?」

 我が目を疑う。確かに若くは見えるが、たかだか十四歳十五歳にはとても見えない。なんでこんなに体が出来上がっているのだ。信じられないような思いで二人を見比べると、かずやくんと呼ばれたイケメンはフンと鼻を鳴らす。

「凪沙ちゃん、俺謝らねえよ。そいつがストーカーだったんだよ」

「ちがっ──!!」

「違わねえよ。凪沙ちゃんが最近変な奴に付きまとわれてるって言うから、こうして証拠写真まで押さえたってのにさ」

「だからって本人を脅せなんて一言も言ってないでしょ!」

 どうやらこっちの備考はとっくにバレていたらしい。記者失格だ。スクープを掴むどころかトラブルになったと聞いたら上はなんて言うだろう。せめて、せめて事を穏便に収めないと。幸い、イケメンと違って凪沙は友好的な様子。此処は一つ大人として毅然とした態度で接すれば良いだろう。こほん、と咳払いをしたその時、凪沙はけろりとした顔でこう言った。

「大体、記者相手なら会社と御幸くんの球団にクレーム入れるからだけだし」

 前言撤回。全然良くない。

「ま、待ってください!! それだけは、それだけはご勘弁を!!」

 大人しそうな顔して全く容赦のない対応に、大人としての矜持は吹き飛んだ。会社も不味いが球団に泣きつかれるのも不味い。そもそもこの仕事は野球選手を守る球団からある程度の『お目こぼし』があって何とかなっているのだ。訴えられたらどうやっても負ける。それも相手は一般人。証拠写真もある中、普通に勝ち目がない。

「──この子、怖かったでしょう」

 そんなとき、凪沙がそんなことを言った。甥っ子の腕をするりと撫で、たおやかに微笑む姿はとても穏やかな光景のはずなのに、ぞくりと悪寒が過る。隣の大男よりもずっと小柄で、華奢で、こんなどこにでもいる、大人しそうな少女相手に、どうして。


「私もね、怖かったんですよ」


 にこりと微笑むその笑顔が、どうしてこんなにも恐ろしかったのだろう。

 結局、何も掴めないまま数か月を無為にし、とぼとぼ帰る自分には無能の烙印が押された。あれから何人もの芸能人やらスポーツ選手をつけ回したが、ターゲットを補足するなりあの笑顔を思い出して足が竦む。ついに仕事を続けられなくなって別の職種に転職し、何年か経って結婚し子どもが生まれて男はようやくその理由を理解した。きっと自分は『加害者』である自覚をしたくなかったのだ。これは仕事だからと倫理観をゴミ箱に捨て、若い女の子を追いかけ回すことがどれだけおぞましいか、あの笑顔に思い知らされたのだ。どうかしている。本当にどうかしている世界だった。我が子が同じように男につけ回されたらと思うと、とても冷静ではいられない。そんな当たり前で大事なことを、今になってようやく答えとして得たのだった。

 御幸一也は未だプロ野球世界で第一線で戦っている。彼女が御幸とどうなったのか、男は知らない。御幸が結婚したというニュースは見た気がする。相手は高校の頃から付き合っていた恋人、だとも。だがその相手が彼女なのか、男は気にしなかったし、調べるつもりもなかった。だが仮にそうだとして、今も彼女は誰かに後を付けられているのだろうか。あらゆる好奇の目に晒され、どれほどの恐怖を耐えながら生きているのだろう。男は時折、そんなことを思う。彼女は結局、自分を会社にも警察にもつき出すことはしなかった。無論、それに恩義があるわけではない。仕事がうまくいかなくなったのは彼女が原因だし、そのせいで結局仕事は変えてしまった。それでも、あんなおぞましい世界に未だ身を置く彼女に、ほんの少しの同情心が芽生えたのだった。

(週刊誌の記者に張り込まれるお話/プロ4年目秋)

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