御幸一也と調理実習

「おい、御幸」

「俺は今いないって言ってくれ」

「透明人間にでもなって出直せ、アホ」

 ガッ、と机を蹴っ飛ばされ、御幸は渋々机から顔を上げる。そこには笑いもせず、寧ろキレる一歩手前の倉持がいる。その顔にまた大袈裟に溜息を吐けば、「人の顔見て溜息つくな」ともう一度机を蹴り飛ばした。そんな倉持が親指で指し示す方向には、教室の入り口で御幸をちらちらと窺う女生徒たち。その手には決まり文句のように何らかの包みが握られていて、辟易したなんてレベルじゃない。

 今日、他クラスで調理実習があったらしい。らしい、というのは、今日は嫌に差し入れを押し付けられるので、御幸が勝手に推測しただけなのだが。気持ちだけはありがたく頂戴するが、誰が何を入れたとも分からない食材を口にするほど御幸は愚鈍ではないし、そもそもカロリー計算してる御幸に余分な間食は厳禁である。なので可能な限りそういった差し入れをお断り申し上げたいわけだ。

「……腹壊して動けない、って言ってきてくんねえ?」

「何度でも言うぞ。そういうのは、自分で言え」

「俺と天城を守ると思ってさあ……」

「『自分で言えば?』って言うだろ、あいつでも」

 ご尤もである。恋人の天城凪沙は、嬉しいかな悲しいかなあまりこういう事態に嫉妬心を見せてはくれない。寧ろ『誠意を見せて自分の言葉で断りなさい』と説教してくるだろう。守ってくれなんて言わないが、せめてこう、もっとこう、何かないものか。

 とはいえ、ここでグチグチ言っていても外にいる彼女たちは帰ってはくれない。どうか大人しく引いてくれるよう祈りながら教室から出る。

「あの、御幸くん。これよかったら──」

「……あー、悪い。俺、彼女いるから、こういうのは受け取らないようにしてんだ」

 可愛らしくラッピングされたそれは、クッキーなのか、パウンドケーキなのか、御幸が知ることはついぞなく。ショックを受けたように立ち去る少女の背中を見届けることなく、教室に戻る御幸を倉持がからかいにやってくる。

「そういやお前、本命はどうしたよ」

「本命?」

「天城だよ、バカ。あいつのクラスも調理実習だったんだろ?」

「あ、そうだったの?」

「何でお前が知らねえんだよ」

「あいつ、そんなことで連絡してこねえし」

 寧ろ何で倉持はそんなことを知っているのか。友達いないくせに、と思いながら念のため携帯をポケットから引っ張り出す。だが、彼女からの連絡はない。当然、何か持っていくからという約束も昨日今日で取り交わした記憶もなく。

「……なんつーか、主張のねえ“彼女”だな」

「倉持はこういうの欲しい派?」

「そりゃないよりあった方がいいだろ」

 そりゃそうだ。御幸としても、可愛い彼女が調理実習の差し入れ、なんてベッタベタなイベントでも、あれば嬉しいものである。もっとも、こういうイベントごとに浮かれない彼女だからこそ、こうして長続きしているのかもしれないが。

「──ってことがあったんだけど、今日何作ってたんだよ」

「え? スパイスカレー」

 なので帰り道、早速凪沙に尋ねたところ、とても差し入れできそうにないメニューが返答されて思わず言葉が詰まった。そりゃあ差し入れに来ないわけである。

「そう言われてみれば、みんなお菓子作ってたなあ」

「まあ何作るのも自由だけどさ、なんでカレー?」

「や、どうせ作るなら普段あんまりやらないことしたくてさ。なっちゃんとさっちんのご家庭のスパイスかき集めて今日の昼ご飯を作ろう! ってなったわけなんだけど……」

 確かに、カレールーなんて便利なものがあるのだから、わざわざ手間をかけてスパイスからカレーを作ろうとは中々思うまい。御幸の脳裏に、嬉々としてスパイスを炒めるマネージャーたちの姿が容易に想像できてしまったので、何も言う気になれず。複雑な表情の御幸を、凪沙は不思議そうな顔で覗き込む。

「食べたかったの?」

「いやー、まあ……いやでもカレーか……」

「お昼あるんだし、どうせ持ってっても食べないでしょ?」

「……そりゃま、そうなんだけどさ」

 それはそうだ。クッキーやらケーキならまだしもカレーである。流石に練習の合間にぱくり、とはいかない。故に凪沙の考えも分かる。分かるのだが。得も言われぬモヤモヤを抱えたままの御幸に、凪沙はにやにやと笑みを浮かべる。

「ひょっとして、期待してた?」

 その一言で、モヤがフッと吹き飛ばされた。ああ、そうか。期待していたのか、自分は。列をなして御幸の在籍を確認する少女たちの中に、凪沙の姿を見つけたかったのか。例えそれを口にできなくても、彼女に来て欲しかったのか、自分は。そんなことも理解できていなかったのかと、御幸は純粋に驚いた。

「御幸くん、そんなイベント楽しむ人だっけ?」

「いや、どーだろ……」

 寧ろ、自分の誕生日すら『そういえば』で思い出す人間である。そんなことで浮足立つようなタイプではないという自認だったのだが、彼女相手ならなんでも楽しみたい、なんて考えてしまったのだろうか。自分でもうまく表現のできない感覚に首を傾げていると、凪沙はからからと笑い飛ばす。

「では期待に応えて、今度は御幸くんに作ってくるよ」

「ん、待ってる──」

「調理実習は、きっと来年[・・]もあるわけだしさ」

 そこで、はたと脚が止まった。今日は一段と、彼女が欲しかった答えをくれる。ああ、そうか、と寒風吹きすさぶ中で御幸は空を仰ぐ。不思議そうに訊ねる少女に、少年は何でもないとかぶりを振った。

 凪沙がその意味を知るまで、実に一年の歳月を要する。



***



「……ひどいねえ」

 ぽりぽり、とクッキーをかじりながら参考書を開く。受験まで秒読み。今日は久々の調理実習があった。家庭科の教師はスケジュール管理が適当で、年の後半は『やることがなくなった』とよく調理実習でお茶を濁すことが多かった。今日も好きな料理を作れと生徒に丸投げし、生徒たち──主に女生徒は──大喜びで各々好きな料理を作る。昼食代わりにする者、お菓子を作って意中の誰かに差し入れをする者、ただただ友人たちと手料理パーティーをしたい者がいる中で、天城凪沙は一人クッキーを焼いた。お菓子作りは不得手じゃない。焦げることもなく美味しそうに焼けたそれを、少女は一人口に運ぶ。さくりと軽めの触感と共に、甘さを抑えたバターの風味が口いっぱいに広がる。

次はない[・・・・]って、教えてくれてもよかったのに」

 気付かなかった自分も自分だが、言わなかった御幸も御幸である。プロ野球選手として人生を選択した少年は、十二月末で青心寮を退寮した。今頃、沖縄で野球漬けの日々を送っているのだろう。故に御幸はもう、卒業式まで学校に来ることはない。

 そりゃあ、今生の別れではない。勿論、御幸との付き合いはまだ続いている。手料理を振る舞う機会なんてこの先きっといくらでもある。けれど、この学校で焼いたクッキーを、御幸に手渡す日はもう来ない。御幸くん、約束守りに来たよ、食べやすいように甘さ控えめでね。そんなセリフを一年間温めて、結局腐らせる羽目になってしまった。

「……大事にしなきゃ」

 過ぎ去った日は戻らない。輝かしい未来に進む恋人を前に、あの頃はよかったなんて言いたくはない。だからこそ、一日一日を大事にしなければ。日ごろからそう務めていたはずなのに、やはり人間、取りこぼしてしまうものだ。

 だから、気を引き締めようと少女はサクサクとクッキーを口に運ぶ。今日の虚しさを忘れないよう、思いを籠めて焼いたクッキーに歯を立てた。さくさくさくと、噛み締めながら参考書を読み進めていく。こんなものを、もう二度と味わわないように。

(調理実習とできなかった差し入れのお話/3年冬)

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