御幸一也とピロートーク

「──はっ!?」

「天城?」

 月に一度あるかないかのオフの日、凪沙の朝は遅い。何故なら真夜中にやってくる恋人に抱き潰されてしまうからだ。会えなかった時間を埋めるように、御幸は何度も何度も何度も熱をぶつけてくる。凪沙だってそれに全力で応えたい。けれど、プロ野球選手の体力に敵うはずもなく、五回戦以降の記憶は途切れがちだ。なんなら気絶している時さえある。なので気付けば朝を迎えており、ひん剥かれたはずの服はいつの間にかしっかり身につけられているケースが多かった。

 けれどその日、天城凪沙は突如目覚めた。まるでたちの悪い夢を見たかのような、唐突な覚醒だった。しかし指一本動かせないほど全身がだるく、ベッドから起き上がることができない。部屋は薄暗く、ぼんやりと浮かび上がる時計は深夜三時を差している。そして、そんな自分に馬乗りになっている恋人が、いそいそと凪沙にパジャマを着せているところを目撃してしまった。

「い、いつもこんなことしてるの……?」

「素っ裸で置いとく方がまずいだろ」

 それはそうだけども、まるで人形を着せ替えるようにパジャマのボタンを止めていく御幸の指に、気恥ずかしさが募る。どろどろになるぐらい汗をかいていたはずだが、ちゃんとタオルで綺麗に拭われているのも、どうにもむずむずする。そりゃあ、御幸には隅々まで暴かれた身体ではあるが、それはそれ、である。

「けど、珍しいな。こんな時間に起きるなんて」

「う、うん」

「──まだ、足りないとか?」

 にっ、と悪戯な笑みを湛えたまま耳元に唇を寄せる御幸。こっちのセリフである。ばかあ、と胸板を押し退けると、御幸はにたにた笑いながらそれ以上手出しはしてこなかった。ころりと隣に寝転んで、疲弊しきって動けない凪沙を抱き寄せる。

「寝る?」

「うん。けど、少しお話したい」

「ん、ちょっとな」

 ちゅ、と額に口付けて、御幸は嬉しそうに凪沙の頬を撫でる。少しだけ微睡んだ、柔らかな表情に何度でも胸がぎゅっと締め付けられる。忙しい中、足しげく通ってくれる御幸の愛情が、今尚衰えていないことが分かる。幸福を噛み締めながら頬を寄せて、凪沙はかねてから計画していたそれを口にする。

「ピロートークしたい!」

「ぴろーとーく」

 ウキウキする凪沙を他所に、御幸の目は点になった。そう、凪沙が今日目覚めた理由がそれだった。行為の後、凪沙はいつも気絶するように眠ってしまい、事後の浮ついた空気感を味わったことがなかった。今日こそはと意気込んでも、気付けば朝を迎えてばかり。今日こそは絶対に目覚める、そんな気合でようやく疲労や眠気に打ち勝ったのだ。このチャンスを逃す他ない。

「ピロートークって……何話すんだよ」

「ええっと……ちょっとえっちなこと、とか」

「やっぱまだ足りねえの?」

「ちがーう!」

 頬を滑る指が唇を厭らしく撫ぜるので、凪沙は再び抗議の声を上げる。気絶するほど抱き潰しておいてまだ言うか、とジト目で睨みながら頬を膨らます。

「お話が! したいの!」

「はいはい。でも、お前の言う『えっちな話』ってなに?」

 呆れたような御幸に、凪沙はフフンと鼻を鳴らす。凪沙はこの時の為に準備してきたのは、何も気合だけではない。

「ちゃんとトークテーマ考えてきたよ!」

「ふーん、例えば?」

「胸とお尻どっちが好き?」

「……そういう系かー」

 きりっとした表情で訊ねる凪沙に、御幸は苦々しげに目を逸らした。こういう雰囲気だからこそ訊ねられる質問を、凪沙はあらかじめ準備してきたのだ。実際披露するまで、ずいぶん時間がかかってしまったが。

「さあさあ!」

「えー……別に、どっちでも」

「どっちか!」

「……じゃあ、胸」

 非常に渋々といった様子で、御幸が答えながら腰を抱き寄せていた腕が胸元をに触れる。確かに、よく胸を揉まれるような気がする。これは好きでやっていたのかと、しみじみした思いで頷くと、御幸の不機嫌そうな声が返る。

「……お前は?」

「──そ、それは、御幸くんの胸とお尻どっちが好きか、って意味?」

「……男のどういうパーツが好きなのか、って意味で」

 神妙な顔で訊ねる凪沙に、御幸は苦々しい顔で答える。男の胸筋や臀部が好きだという人もいるだろうが、どちらかと言えば少数派だろう。パーツの好みで言えば大体は首筋とか、腕とか、腹筋とか、そういうのがメジャーな部類と思われる。だが、言われてみれば即答ができず、小首を傾げる。

「うーん……」

「ほら、天城だって聞かれたら困るだろ?」

「まあ……あ、でも、一番コーフンするのは、私の中に入ってくる時の顔」

「……変態」

「エッ! 嘘!? そこまで言われるほど!?」

 正直に言ったのに変態呼ばわりされてしまった。心外とばかりに目を見開く凪沙に、御幸の方が恥ずかしそうに目を逸らした。その顔も好きだなあ、と思う。けれど、爆発寸前の欲を強靭な理性で抑えつけ、ゆっくりと自分を中を暴く御幸の顔が、一番どきどきするのだ。こちらも余裕はないのだが、その時だけは御幸の姿を目に焼き付けようと理性をかき集めてしまうほど。

 思わぬカウンターに言葉を失った御幸は、悔し紛れとばかりに胸をぐにぐにと揉んでくる。くすくす笑みを零しながら、次の質問を繰り出す。

「じゃあ、虐める方が好き? 虐められる方が好き?」

「……なあ、ピロートークってこういうのだっけ?」

「え? 違うの?」

 凪沙は驚くぐらい真面目な顔で返し、御幸は面食らったように唇を真一文字に結ぶ。凪沙にとって事後の会話自体がレアなのだ。というか事後起きてられることが奇跡に近い。とにかく何かしていたいと、胸元に頬を寄せて思いっきり甘える。答えをせがむようなその仕草に、御幸は非常に渋い表情で答える。

「……別に、虐められる方は、そんなに」

「じゃあ、虐めるのがすき?」

「ってわけでも、ねえけど……」

「ふうん?」

 ここぞとばかりに恋人の性嗜好を深堀りしに行く凪沙に、御幸はたじろぎながらも曖昧な回答を連ねていく。次は何を聞こうか、脳内の質問リストを閲覧していると、ちょっとむっとしたような御幸がこつんと額と額をくっつけてきた。

「お前こそ、どっちが好きなんだよ」

「んー?」

「虐められたい?」

 にやにやと至近距離で笑みを浮かべ、御幸の綺麗な歯が凪沙の鼻をかぷりとかじりついてくる。抓まれるような甘やかな痛みが、愛おしい。けれど。

「んー、どっちも?」

「……どっちも?」

「虐められてもみたいけど、虐めてもみたい、かな」

 言い方は悪いが御幸との行為は──回数という名の激しさはさておき──かなりノーマルだ。何と比較してかと聞かれれば友人各位の話と比べて、なのだが。道具を使うだとか、コスプレをするだとか、場所を変えるだとか、そういったことをしたことはあまりない。故にこそ、何事も御幸とならやってみたいと好奇心が疼く凪沙なのだが、御幸の反応は鈍い。引いているのだろうか。

「……お前が? 俺のこと、虐めんの?」

「うん」

「……参考までに聞くけど、どんな感じで?」

「目隠しとか手錠とか使って──」

 意気揚々と語る凪沙だが、言葉の続きは御幸のキスによって飲み込まれてしまった。やはり、虐められる趣味はないらしい。見かけによらず柔らかな唇に素直に黙らされた凪沙は、ぼんやりと浮かび上がる御幸の端正な顔をじっと見る。

「今の俺に不満ってこと?」

「ううん、全く」

「なら」」

「でも、御幸くんとなら何でもやってみたい」

 ふにふにと胸を揉む無骨な手をするりと撫でて、指を絡ませる。普段は性欲なんか微塵もありませんとばかりの顔で、この手にグローブを嵌めて球場で脚光を浴びているのだから、自分がどれだけ恵まれた存在なのかを思い知る。だから、御幸の全てが知りたい。限られた時間、終わりの決まった人生だ。できる限りのことをしたいのだ。二人で、一緒に。

「えっちなことも?」

「えっちなことも!」

 声高に言うセリフではないのは百も承知だが、それぐらいの意気込みなのだと凪沙は鼻息荒く答える。対する御幸は終始困ったような表情で、恋人相手ですらこういう話題に慣れてないのだと分かる。男らしい見た目にそぐわぬ初心な反応に胸がきゅんとする。もっと話題を振って困らせたいと思うほどに。もしかして自分は好きな人を虐めたいという性癖があるのだろうか。

 付き合ってもう四年になるが、新たな扉が開かれる気配にウキウキしながら脳内のリストをぺらぺらと捲る。すると、気付けば真面目な顔した御幸がじっと凪沙の目を見つめている。

「……じゃあ、俺もしたいこと、ある」

「おお! 珍しいね、なになに?」

 好奇心旺盛な凪沙に比べ、御幸は極めてノーマルだ。ただこれは性生活に限った話ではないので、御幸自体がそういう人間なのだと凪沙は受け止めている。何せ好きな食べ物やら得意な教科やら趣味やら特技やら、普通に生きていく中でも何度となく訊ねられる質問にすら答えを詰まらせるほどだ。故にこそ、理性のある御幸がこんなことを言い出すのが珍しく、ついつい目が輝く。

 だが、凪沙の猛攻も此処までだった。

「なまえ」

「……な、まえ」

「俺の名前、呼んで」

 ぎくり、と肩が強張る。形勢逆転とはまさにこのことか。突然空気が抜けた風船のように意気が萎んでいく凪沙に、御幸は笑わない。

「俺ら、付き合って何年だっけ?」

「も、もうすぐ、四年……ぐらい……」

「もうデートもセックスも泊りにも来てんのに、まだ呼べねえの?」

「だって……そ、それは、そのっ」

 さっきまで性癖やら何やらを意気揚々と話していた人物と同じとは思えぬほど、しおらしくまごつく凪沙。高校時代はキャプテンとマネージャーとしてある程度の距離を保つ必要があったものの、今はそんな必要はない。付き合ってもう四年近いというのに、未だに互いに名字で呼び合うなんて不自然だと思う自分は確かにいる。だが、その顔を見て、その名を呼ぶのがどうしても慣れない。何年も慣れ親しんだその呼び方を、いきなり変えるなんて。

「凪沙」

「──っ、あ」

「そりゃ、近々『御幸くん』とは呼ばなくなるだろうけどさ」

「え、あ、っと」

「たまには、さ。いーだろ?」

 なあ、凪沙。艶やかな声が耳元を撫で、びくりと肩が跳ねる。先ほどまでの無邪気なサディスティックさはどこへやら、今の凪沙は借りてきた猫のように大人しい。それに気を良くした御幸の攻勢が止まらない。

「練習しようぜ、練習」

「れん、しゅう……」

「難しいなら、状況を限定する?」

「……例えば?」

「セックスの時だけ呼ぶ、とか」

「そっちの方が恥ずかしいよ!?」

「ピロートークしたいとか言い出す奴が何言ってんだよ」

 ご尤もである。ぐうの音も出ない反論だった。頬を滑る指が顎を掴み、ぐっと上を向けられる。真っ直ぐ見下ろしてくる鋭い瞳に、凪沙はあわあわと視線を泳がせる。だが、御幸は一歩と譲らない。じいっと視線を絡めること数十秒、震える唇がようやく彼の名前を形作る。

「……か、かず」

「うん」

「かずや、くん」

 決して、その名を初めて呼んだわけではない。なのに、手のひらがじんわり汗ばむほどの恥ずかしさが込み上げる。それこそ御幸の言う通り、デートしてセックスして、更にはお泊りしてるはずなのに、その何倍も羞恥心に見舞われる。火照るほど戸惑う凪沙に、御幸は渋い表情でため息を吐いた。

「……あいつ思い出すし、君付けやめねえ?」

「え、う──」

 おまけに、その名前は愛してやまない甥っ子のものと同じというのだから、気恥ずかしさも倍増だ。その甥っ子は甥っ子で凪沙を愛するあまり御幸を親の仇のように憎んでいるのだから、御幸もこんな表情になるというものだ。可愛い嫉妬とあしらっていたチビッ子も、気付けば凪沙に届きそうなぐらいぐらいぐんぐん背が伸びてきたのだから、時の流れの早さを痛感する。

 ──ああ、そうか。もう、そんなに経ったのか。

「か、かず──かずや」

「うん」

「かず、や」

「うん」

「かずや」

 呼べば、御幸の表情が少しずつ綻ぶ。その音を紡ぐたびに、御幸の目が緩やかに細められる。これ以上ない幸せを噛み締めるかのように、凪沙の輪郭を撫ぜる。言葉無き愛に包まれ、いよいよもって凪沙は限界に達した。茹りそうなほど真っ赤な顔を、両の手で覆い隠してしまう。

「今日はもう……勘弁してください……御幸くん……」

「……ま、今日のところは痛み分けにしてやるよ」

 頑張った方か、とばかりに御幸は凪沙の髪を梳きながらため息を吐いた。付き合ってから四年。キスもハグもセックスもお泊りだって、何度も何度も繰り返してきた。だというのに、未だ恋人の名前すら呼べない凪沙に、ピロートークはまだ早かったらしい。早く寝ろ、と頭を撫でる体温に素直に頷くことしかできず、凪沙は白旗を手に眠りにつくのだった。

(ピロートークするお話/プロ2年目春)

*PREV | TOP | NEXT#