堕ちぬ女と不器用な男

※原作と同程度の倫理観欠如

※何でも許せる方向け

※何でも 許せる 方 向け

※別にネタバレがあるわけではないけど、本誌(243話)の影響をモロに受けてます













































『出ました。あなたの前世は、“狩人”ですね』

 自称占い師にそう言われた時、不思議と腑に落ちたのを覚えている。

 修学旅行で北海道へ行った時だった。薄野行こうぜと鼻息を荒くさせる友人──と呼ぶほどの仲かと聞かれると些か疑問が残るが──を小ばかにしつつ街中を歩いている時、占いはいかがかと若い女に声をかけられた。修学旅行の思い出にとグループ全員で占われた時、尾形を見た女はそう言ったのだった。胡散臭い、金の無駄だと嘲笑する尾形だったが、その一言だけは、成人し、就職し、社会の荒波に呑まれる今となっても、鮮明に思い出せるのだった。

 必要だと、欲しいと。そう思った時、尾形は迷いなく動ける男だった。それこそ、獲物を虎視眈々と狙う狩人のように、狙いを定め、追いかけて、じっと待つ。そしてここぞという時に引き金を引く。普通なら、そうして苦労して手にしてきた獲物を、さぞ愛でることだろう。毛皮を部屋に飾るように、大事に大事に仕舞い込む、或いは友人隣人に自慢する。いずれにせよ、労して手にした獲物を、常人であれば何らかの形で愛でるだろう。だが、尾形はそうしなかった。獲物を手にした瞬間、彼はそれまでの執着が嘘のように、対象への興味が失せるのだ。なぜこんなものに執着していたのか、思い出せないほどにあっさりと。手にするまでの工程だけを楽しんでいるのか、手にしたそれからは自分の求むる“何か”を得られなかったからか、それは尾形自身にもよく分からなかったし、その悪癖を誰に咎められようと止めることはなかった。とはいえ、何も考え無しに手を付けては捨てる、という品のない真似はしない。自ら言い寄ってくるような獲物に、何の価値も見出せるはずもないからだ。狙うのは大物。それだけでいい。そうして撃っては捨て、獲ては破棄し、釣った魚にエサをやらない、やろうとも思わない尾形の性質を一言で表現したような『狩人』という言葉に、占いとやらもあながち馬鹿にできないと思ったものだ。

 さて、そんな尾形が次に狙いを定めたのは、同じ職場の後輩。何にそこまでの執着を覚えたのか、今となっては記憶も朧気だ。ただ、古臭い考えの老害がのさばる営業課の中で、男に手柄を取られようとも気丈に売り上げ勝負で勝ち越したり、仕返しとばかりに彼女の元に、気に入らなければ上司でさえぶん殴るような男──杉元を部下に押し付けられても、逆に奴と意気投合して大口顧客を増やしたりした。男の身勝手さに翻弄されることなく、正面切って戦うのは彼女は、自らを育てた母親と真逆だと思った。それがきっかけだったことは、覚えていた。そんな人間は彼女だけではないとは知りつつも、気付けば視線はいつも、部下たちを引き連れる天城凪沙の姿を追いかけていたのだった。だから、いつものように手に入れようとしたのだ。手にすれば興味を失うと知りながら、何故手を伸ばすのかを理解しようともしないまま、尾形は自分と異なる煙草の匂いを纏う女を見て、人を見下したような笑い声を漏らしたのだった。

 けれど、引き金を引いて尚、彼女は地に堕ちなかった。



あらゆる可能性込み[・・・・・・・・・]での、義理ですから』



 そう言って自分の腕からすり抜ける女を、引き留められなかったのは初めてだった。

 男がいることは知っていた。彼女は一度だって喫煙ルームに現れたことはなかったし、飲みの場で灰皿を求めることもしなかったにも拘らず、週明けいつも風変わりなニコチンの香りを纏っていたからだ。それが3課の男の物だと気付くのに、そう時間は要さなかったことも含め、胸糞が悪かった。男の趣味が悪い。いや、趣味の悪い男──否、何も言うまい。同じ穴の狢なのだから。そう、手出しする前からトラブルになるのは目に見えている。それでも尾形は構えた銃を下げるような真似はしなかったのだ。

 何にせよ、彼女を油断させて寝取るところまでは順調だと思っていた。酔っても大して顔色の変わらぬ女を安っぽいラブホテルに連れ込んで尚、拒否反応をちらりとも見せないその横顔に、此度の勝利を確信した。『尾形さん、私のこと好きなんですか』と、互いに一糸纏わぬ姿で貪り合っている最中、女の目は真っ直ぐに尾形を射抜いた。完全に酔いが醒めているのだろうと、思った尾形は適当に肯定し、まだ何か言いたそうな女の口を塞ぐことに専念した。思ったよりも呆気なかったと、最中にもかかわらず冷めた感情がちらりと過ったが、ひとまず最後まで行為を続けた後、眠りについたのだった。

 だが、女が何も覚えていなかったのは想定外だった。酒気は一切顔に出ず、受け答えもハッキリしていたというのに、起き抜けの女は『何故自分はこんなところにいるんだ?』とばかりにパニックに陥っていたのだ。なんて面倒な酔い方をする女だ。それに気付けなかった尾形と女の会話は噛み合っているようで噛み合わず、結果、後の尾形にとっては最悪とも取れる一手を打ち出してしまったのだ

『つかぬことをお伺いしますが、尾形さん。私のことが好きとかそういう──?』

『……いや、』

 散々言ってやったの、忘れたのか。そうやって尾形が紡ごうとした言葉は、『ですよね変なこと聞きましたすみません忘れて下さいッ!!』という女の土下座と共にかき消されてしまった。素っ裸で恥も外聞もなく土下座する女の白い背中を視て、ようやく彼女が何も覚えていないことを悟り、予想外の出来事に出鼻を挫かれてしまった。

 とぼとぼとシャワールームへ消える女を見送り、しばし煙を燻らしながら、尾形は次の手を考える。男がいると知りながら手を出した尾形に対し、女からは嫌悪だの憎悪だのという感情はなかったが、かといって好意的な色も見えない。やらかした、そんな一言を背中に背負っているような女の気落ちした後姿に、今日は引くかと、ガラス製の灰皿にまだ長さのある煙草を押し付けた。急いては何事も為せない。女からの好感度がマイナスに振り切れていないなら尚更だ。それに、長期戦であればあるほど、尾形は良しと考えていた。ひとまず、爪痕は残した。それをほじくり返し、癒える前に広げ、抉り、自分を刷り込むのは尾形の得意分野だった。思うように運ばなかったことだけは癪だったが、今日はそれで手打ちにしようと、尾形は女に言った。忘れるようにと。

『その方がお互いの為だろ』

 何故女が尾形が無理やり連れ込んだと疑問を抱かなかったのは謎だったが、そう勘違いしているのならそれを利用するまで。あくまで酒による気の迷いだったのだという体で女を残して去っていく。女は追いかけてはこなかった。それでいい、と笑みを深くした。恋人がいる身で他の男と寝た。誰よりも男の理不尽さに屈しない彼女が、その罪悪感に苦しみ、悶える姿を想像した。悪くない。そうしてその苦しみに寄り添うように、恋人から引き剥してやればいい。そう、思っていたのに。

 次の出勤日、左目から頬骨にかけて白いガーゼで覆われた女を見て、柄にもなく動揺した。

 ガーゼでは到底隠し切れない青黒い痣は、明らかに暴行の痕跡。何かにぶつけただのという生易しい傷ではなかった。けれど、女は清々しいほどに笑顔だった。どこのどいつが俺の上司をぶん殴ったのだと殺気立つ杉元を抑えながら、女は言うに事欠いて一緒に外回りに行けなくてゴメンねなどと笑うのだ。馬鹿なのかコイツは。エレベーターホールでその会話を小耳に挟みながら、尾形は心底呆れた。肉欲に、暴力に、何故屈しないのか。何故、涙一つ見せずに笑うのか。その気になれば復讐も制裁も容易だろうに、女は事も無げに義理だと言い切った。身体を暴かれ、頬骨を砕かれて尚、何も恨まず、しかして狂うこともなく、自分を失わない凪沙を前に尾形は確信する。これは思いもよらぬ長期戦になるだろう、と。

 それからすぐ、彼女の頬骨が元通りにくっつくより先に、凪沙は尾形の配下に異動してきた。これ幸いにと距離を詰めるべく家に押し入ったが、決して手出しはしないよう努めた。もっと揉めると思っていたのに、凪沙はあっさりと恋人を切った。情よりも道理で物を判断するような女だ、急いてはこっちも切られかねない。幸い、良い上司を演じてやったおかげか、家に押しかけようとも彼女は嫌がるそぶりは見せなかった──かといって歓迎もせず、ただ『心底理解できない』とばかりの態度だったが──。謎の図太さを持つ凪沙は、食材だけを持ち込む男の為にフライパンを手に取るばかりか、ぽつぽつとではあるが私語も交わすようになった。こいつは自分に組み敷かれたことがあるのを忘れたのかと呆れたものだ──実際その事実以外の全てを忘れているのだが──。尾形自身を信頼しているのか、自分自身を軽んじているのか、判断がつかなかった。ただ、家に上げた割に、どれだけの時間を砕こうと、凪沙は尾形に対して一切の隙を見せなかったのもまた、計算外だった。

 そう、家に上げようとも、凪沙は尾形に対して物理的に距離を詰めることはなかった。何の気なしに近付いても、あちらも何の気なしに距離を取る。決して手が届く位置には近づかないよう努める凪沙のそれは、計算ではなく素なのだから、3課の男は如何にしてこの女を口説き落としたのかと訝しんだものだ──泣いて縋ったのかもしれない、確かに押しには弱そうな顔をしている──。だが、尾形が同じ手を使おうものなら、奴は迷いなく携帯に手を伸ばすことは目に見えていた。110にかけるならまだしも、連絡する先は彼女が信頼を置き、かつ尾形を毛嫌いしている杉元やら宇佐美やらなのが性質が悪い。一度、悪酔いしたふりをして家に泊めろと迫ったことがあるが、車持ってる子呼びますねと、杉元に電話をかけ始めるのだから肝が冷えた。遠い過去の出来事とはいえ、奴に顎を割られた際の激痛はまだ鮮明に尾形の海馬に刻まれていた。凪沙の元彼がストーカーと化して彼女が出入りするスーパー付近で張っていたのには心底笑いが止まらなかったが、罠と分かっていながら送り込んで尚、凪沙は一切揺らがない。放っておいたら包丁の一本や二本腹に刺して帰ってきそうだったので助け船を寄越したものの、『尾形さん掛け値なしにいい人ですね!』なんて言い出すのだから言葉を失ったものだ。この女は、自分を何だと思っているのか、いよいよもって分からなくなる。一度は超えた線を今一度跨ぐのに、これほど労するとは、尾形自身も予測だにしていなかった。

 だが逆を言えば、一線以外の全ては、存外容易く超えられたように思う。飯を作れと食材を持ち込めば、文句一つなくそこそこ整った味の食事が用意された。食事をしたらすぐに歯を磨きたいと言えば、凪沙宅の洗面所には尾形用の歯ブラシとコップが鎮座するようになった。食材の書かれたメモを盗み見て買いに行けば、メッセージアプリで『すみません鶏肉300gも追加で』と、仕事以外の連絡が来るようになった。たまに食材を買い忘れて家に上がり込んでも、『有り合わせで何とかしましょう!』と、ちゃんと二人分の夕食が作られた。作ってもらっておきながら好き嫌いするなと言う割に、彼女が食事に椎茸を使ったのはたった一度だけだった。どうせ同じ家に行くのだからと、金曜の帰りは一緒に帰路につくようになった。煙草を吸わない彼女が元彼と化した男用の灰皿をいつまでも破棄しないことも知っていたし、食材と酒が入らないと、冷蔵庫を買い替えていた本当の理由にも、気付いていた。稀に『今日は家に来ない方がいいですよ』という連絡も、今思えばそういうことだったんだろう。

『はあ? もう新しい男でも捕まえたのか』

『何言ってんですか。来るのは大学の友人──婚活惨敗女子3人ですよ。何なら尾形さんのことを高給取りのいいとこのボンボンと紹介しますけど、それでも来ます?』

 当時は上司に向かってどういう口の利き方だと嫌味一つ言って終わったが、今思えばあれは完全に尾形が家に来ることを想定しての注意喚起だったのだろう。そう、こうして凪沙の生活の中に、徐々に尾形が浸透している。種を植え付け、その種が芽を出し、根を張り巡らせるように、彼女は音もなく侵されている。何より、聡い彼女がそれを受け入れているその事実が、心地よかった。そう、心地よいのだ。獲物を撃ち落とさんとしていただけなのに、駆け引きだの緊迫感だのを少なからず好んでいたあの頃がまるで嘘のように、この日々が馴染んでいる。仕事を片付ける、共に彼女の家に行く前にスーパーに立ち寄る。適当に食材やら酒やらツマミを買い込んで彼女の家に向かう。飯ができるまで大して興味もないTVを眺める。飯ができたら職場や上司や部下の愚痴を交えながら共に食事を摂る。そうして酒が無くなる頃、終電が無くなる前に帰宅する。どんなクソみたいな案件も、横にいる彼女と共に乗り越えた。愚痴を肴にすれば、何時間でも語らえた。

 それが日常と化したことを自覚した時、尾形は心底ぞっとしたのだった。

 だからこれは──必要なことなのだ。そう、判断した。



「母親を、殺した。小学生の頃だった」

 焼き鮭を突きながら突如話し始めた尾形に、頬を割られても動じなかった凪沙も流石に言葉を失っていた。ほうれん草のおひたし、鮭、ニラと溶き卵の味噌汁、タケノコとしめじと鶏肉の炊き込みご飯、それから酒のツマミのチャンジャ。いつものように二人して向かい合って座って、いただきますと手を合わせる。そうして徐に尾形が切り出した話に対し、凪沙は珍しく真顔だった。だが、馬鹿馬鹿しいとも、酔ってるのかとも、そんな茶化すような顔ではなかった。だから、続けた。決して食事時にすべき話ではないと、理解しながら。

 このご時世、珍しくもない話だ。大企業の役員と、夜の街で働く女。正妻を持つその男からしてみれば、そんな女が孕んだ子どもなど百害あって一利なし。そうして母子ともに捨てられ、親子二人で生きてきた。けれど、母には父への愛があったのだろう。来る日も来る日も、父の帰りを待っていた。彼によく似た子どもなど見向きもせず、夜に仕事へ行っては帰り、オンボロアパートのドアが開く日を、ずっと。頭がおかしくなったのだと、誰に指摘される前から尾形は理解していた。当然、父は二度とこの家に帰ってこないことも含めて、だ。そんな母を哀れんだ。だから、夜の仕事から帰って眠る母親の隙を見て、室内を締め切ったまま石油ストーブを点けて学校へ向かった。吐く息も凍るような、寒い冬の朝だった。何を患っていたのか、母親は睡眠導入剤といった薬剤をごまんと服用していた。一度眠れば呼んでも揺すっても起きないことも、そう珍しくはなかった。だから学校から帰宅する前、担任の教師が血相を変えて自分を教室から連れ出してきた時、自分の目論見は成功したのだと悟った。人のいない日中帯を狙ったおかげもあり、よくある事故だと、誰も自分の犯行を疑わなかった。そうしてひっそりと息子に殺害された母だが、尾形はほっとした。これで父親に会えるだろうと思ったのだ。母は、せめて葬式にぐらいは、愛した男に会えるだろうと信じていた。だが、父親は来なかった。連絡一つ寄越すことなく、気付けば母は両手で持てるほどの壺の中に納まってしまった。それから尾形は母方の実家に引き取られ、大学に入学するまではずっとその家で育ったのだ。

 ほうら、珍しくもなんともない話だ。そう〆て彼は食事を全て平らげた。ご馳走様、と形式だけの一言投げかけるも、凪沙は何も言わない。彼女の箸は鮭を解したところから一寸と動いていない。その反応に、安堵した自分がいた。理由を挙げる気にもなれず、缶ビールを一気に飲み干す。これでよかったのだ。これで、いいはずなのだ。まるで自分に言い聞かせるような言葉だけが、脳裏を過る。なんだこれは。なんだ、これ。だめだ、と、かぶりを振る。去るべきだ。そして、二度と訪れるべきではない。獲物を前に諦めるのは性に合わないはずなのに、得も言われぬアラートが尾形を急き立てる。

「──悪かったな」

 それは、何に対しての謝罪だったのか。寝取ったことか。食事時にこんな話をしたことか。或いは、これまでこいつと築いてきた時間全てにか。まあいい、彼女の言う“義理”ぐらいにはなったはずだ。そうして立ち上がろうとする尾形を前に、凪沙はようやく重々しく口を開いた。

「何年前の、話、ですか」

「、は?」

「お母さんを殺したの。何年前の話かと、聞きました」

 悪ノリに、付き合っているような顔はしていない。彼女は至って真面目な顔で、箸を持ったままそう訊ねた。なんだ、これは。自分で作り出した空気の筈なのに、この、馴染まぬ感覚は、一体。だめだ、この、主導権を奪われるような眼差しは。尾形は、打開を望むべく立ち上がるのをやめ、母親の享年を数える。

「……20年、いや、21年前か」

「はあ。よかったですね、時効じゃないですか」

「は?」

「え?」

 時効って20年でしたよね、凪沙はあろうことか、事も無げにそう言った。これには流石に、我が耳を疑った。そして凪沙は、何事もなかったかのように箸を進めて鮭をほぐし、摘み、口に運び、もごもごと口を動かして咀嚼する。そして、ごくんと鮭が喉を伝う様を、尾形は見届けた。

「な、なんですか。怖い顔して」

 あろうことに女は、尾形を前に首を傾げている。それどころではない。何事もなかったかのように、夕食を続けているのだ。そんな尾形の戸惑い──そう、これは紛れもなく戸惑い、動揺に他ならなかった。それを少しでも汲み取ったのだろうか、そうですねえ、と凪沙は言葉を濁すように箸で空中に文字を描くように動かす。

「まあ……そうですねえ、そこまでの行動力があるなら、思い切る前に色々やればよかったんじゃないかとは思いますけどね。人並な感想であれですが」

「……言って、変わったと思うか?」

「その台詞は言った人にのみ使うことが許されるんですよ、尾形さん」

 思いの外ストレートな反撃に、尾形は黙した。確かに、尾形は昔から一言足りないレベルでは済まないほどに、言葉足らずな男だった。彼女の指摘するように、一言発せば何か変わったかもしれない。そんな岐路が、人生の内にいくつもあったのだと思う。だが結果として、尾形は一言足りないままに今も尚、生きている。何故なら、一言足りない人間の周りには、その一言をカバーするような人間が集うからだ。私生活においても、職場においても、それは変わらない。人生は上手いようにできている。無論、足りない方を補う人間としてみれば、堪ったものではないのだろうが。それは上長である鶴見における月島のように。

 或いは、尾形における──凪沙のように。

「言っても伝わらないことはありますけど、言わなきゃ伝わりもしないでしょう」

 そんな、誰もが知り得るような至極真っ当な意見を述べて、缶ビールをぐいっと呷った。当たり前すぎるその言葉は、当たり前であるが故に、尾形の脳を直接揺さぶった。何故彼女はそれを、怒るでもなく悲しむでもなく、或いは恐怖するでもなく、食事を続けながら述べているのか、と。

「お前、他にないのかよ。なんか、」

「だって尾形さん、良かれと思ってやったんでしょう?」

 結果的に重罪すけど、そう続けながら、みそ汁をずずっと啜る女が、まるで読めない。何故ならそれは、尾形の予測していた反応の一覧表には、記載されていない。読めない女は、己が言葉通りに自分の考えとやらを、つらつらと述べていく。

「私は今、尾形さんの口から聞いた情報でしか判断ができません。お母様は死んで当然の人だったのか。それとも尾形さんが理不尽なだけだったのか、私には知る由もありませんからね」

「……だろうな」

「でも、尾形さんは言いました。お父さんに会わせてあげたかったと。ならそれは、結果はどうあれ、善意でしょう?」

 確かに、それは嘘ではない。死に際に──実際は殺した後の話だが──一目でも、愛した男に会えればいいだろうと、そう判断した。だから殺した。そして、尾形は今でもその判断は正しかったと思っている。何度同じ人生を歩もうと、尾形は同じ方法を選ぶだろうと、確信しているほどに。それほどまでに彼は、その胸に罪悪感というものを、抱かなかったから。

「罪悪感、ですか」

 うーん、と凪沙はチャンジャを口に運び、続けてビールを流し込んだ。

「罪を犯して、悪いことしたなあ、という感情、略して罪悪感。罪──罪、そうですね。罪ですね。人を殺してはいけない。子どもでも知っていますね。でも、その罪は誰が定めたものなのでしょう。はい、はい、答えるまでもなく、人ですね。人類であり、国であり、歴史ですね。だけどそんなの、あくまで六法辞書、たかだか何千ページに収まるほど、何億といる人間の価値観は統一化されてはいません」

「──、」

罪を犯すこと[・・・・・・]と、罪を悪だと決めつけること[・・・・・・・・・・・・]は、違うことでしょう」

 まるで能書きを垂れる子どものように、彼女はおおよそ常人ならざる独自の倫理観を上げ連ねている。人を殺すことは悪いことだ。だから、してはいけない。それを罪悪一つなく為し遂げる者がいるのなら、それはきっと人ではないのだと。日本に生まれ育った者ならば、誰に叩き込まれることもなく身に付けるべき倫理観を今、彼女はほうれん草とゴマのおひたしと共にゴリゴリと奥歯ですり潰してしまう。ごくんと、か細い喉が鳴るたびに、尾形は得も言われぬ感情に乱される。



「だから、尾形さんが悪いことをしたと思っていないなら、それはそれでいいんじゃないですか?」



 そう言って凪沙は今度は茶碗を持って炊き込みご飯をかき込む。しいたけは嫌いだから絶対に入れるなと釘を刺したおかげで、尾形も好んで食すそれを、凪沙はやはり何でもないように平らげ、ビール缶が逆さになるほどの勢いで飲み干した。そして瞬く間に食事を平らげ、ご馳走様でした、とパチンと手を合わせる。

「はーっ。やっぱビールに米を合わせるのはよくないですね。お腹ぱっつぱつです」

「……」

「尾形さん?」

 ──凪沙は、いつも通りだった。見ているこちらが、気味悪いと思えるほど。

 こんな身の上話を、他人にするのは初めてではない。あなたと離れたくないの、あなたが好きなの、あなたの支えになりたいの、そんなことを宣う女たちに、まるで試すように話してみせた。決して、過去のやんちゃを自慢する、なんてつもりは毛頭ない。だが、お前らが好きだの愛してるだの言う男はこういう男なのだと、親切にも教えてやっただけだ。そうしてその親切心は功を奏し、あれほど付きまとってきた獲物たちは蜘蛛の子を散らすように去っていき、二度と連絡を入れてくることはなかった。事も無げに母親殺しを語る尾形に、反応は様々だったが、やはり一番多かったのは“恐怖”だった。まるで次に転がる死体は自分かもしれないと、誰もが頽れるほどに。だからこそ、凪沙の反応には、尾形は何と返したものかと考え込んでいたのだ。

「……この話をして、怖いだのイカれてるだのと、言われなかったのは初めてだな」

「はあ。私には関係ないですからね」

「あ?」

「いやだって、それは尾形さんとお母様の関係の中での話でしょう。私は関与していないから、因果関係が成立しないじゃないですか」

「分からんぞ。一度あったことだ、二度目もあるかもしれん」

「理由がないでしょう」

 さらりと、凪沙は静かに返した。その口ぶりに、むかっ腹を蹴っ飛ばされたような気分になった。売り言葉に買い言葉。そんな剣幕な雰囲気ではないと分かっているのに、どうしてかこんな些細なことに苛立ちが募る。今、目の前にいる男は産みの母を殺し、それどころか凪沙自身を犯したというのに、その余裕綽綽と言わんばかりの表情が、心底気に食わない。なら、と尾形は笑みを繕った。

「俺が何故、自分たちを捨てたような父親がいる会社に入社したか分かるか」

「……さあ、」

「確かめるためだ」

 少しの逡巡も許さぬような間で、尾形は二の句を紡ぐ。

「祝福された道に居る弟君が、うっかり[・・・・]何らかの事故で死に絶えた時、父親は俺を思い出すかどうかを」

「冗談にしちゃ笑えませんね」

 そこで初めて──凪沙は表情を一変させた。ガンッ、とテーブルを拳で叩きつけ、静かに尾形をねめつけるその目には、確かな怒りが滲んでいる。怒り、怒りである。あれほどまでに無関係、無関心を貫いていた彼女が、此処に来て突如見せたむき出しの感情に面食らった。そうしてガタッと椅子が床を擦りながら跳ね、凪沙はそのまま立ち上がった。

「神威社への見積もり!」

「……あ?」

「工数算出とWBS作成も! 尾形さん、あなたが持ってる案件がどんだけあるか、分かってそんなこと言ってるんでしょうね!? 今、尾形さんに抜けられたら、あなたが持ってる案件を誰がカバーすると思ってるんですか! 私たちに決まってんでしょ!! ウウウ冗談じゃない! 7課で持ってる案件の中でも、とりわけ膨大な作業量なのに! そもそも、技術部上がりの尾形さんがいるからギリ回せてるような状況だってのに一抜けたなんて、神様が許しても私が許しません!! 留置所に作業用ラップトップ持ち込んででも、受注までは仕事してもらいますからねッ!!」

 そこまで一気にまくし立てた凪沙は、ゼーハーゼーハーと肩で息をしながら力なく椅子に崩れ落ちた。まるで突風だ。突如発生したかと思えば、一息で過ぎ去っていってしまった。ぱちぱちと、瞬く尾形を前に、凪沙は俯いたままテーブルに並んだ缶チューハイを適当に引っ掴み、そのまま一気に飲み干した。凪沙はそのまま、ずるずると机に突っ伏していく。

 彼女が此処まで感情を露わにした姿を見たのは、初めてだった。取引先に嫌味を言われようとも、どんな腹立たしい上司の愚痴を叩こうと、それこそ男に暴力を振るわれようと、一切の怒りを見せなかった女が自分に対して純粋な怒りをぶつけている。それも、上司を殺すだのと宣ったことに対してではない。殺人を実行することで逮捕される尾形が抜ける穴に対して、怒っている。

 少なくとも“良い上司と部下”を続けて、幾何かの月日を経たというのに。

「ははぁッ」

 人を小ばかにしたような笑い方だと、数多の人間に諫められた笑みが自然と鼻から漏れた。なにわろてんねん、とばかりに睨んでくる凪沙を目にしながら、尾形は缶ビールのプルタブを立てた。

「降参だ」

「……なんか、勝負、してましたっけ」

「ああ。もっと早くこうすべきだった」

 引き際を見誤った、自分の負けだ。ああそうだ、とっくの昔に手遅れだったのだ。それに気付いていながら、たった一度外した銃弾にこだわり続けた。まだ勝負は終わっていないと、ムキになってただ悪戯に時間を費やし、そうして気付いた頃にはもう引き返せなかった。傷を抉られ、種を植え付けられたのは此方の方だった。なんとも、見事な手練手管である。当人は毛ほども自覚がないあたり、腹立たしさを通り越していっそ清々しい。

 ニヤニヤと、自身の敗北を噛み締める尾形に、凪沙はハアともホウともつかない曖昧な相槌を打つ。アルコールを摂取して唐突に叫んだせいか、変に酒気が回っているようで、頬がほんのりと朱色だ。これぐらい目に見えて分かり易ければ、こんなにも時間を無為にすることはなかったのに。けれど、だからこそ負けを認められた。これ以上時間をかけても、この鳥は落ちない。墜とせないと、ようやく知ったのだ。



「好きだ」



 もっと早く、言っておけばよかったのだ。忘れているならもう一度。それで折れねば何度でも。いっそ心地がいいほど尾形に興味を示さなかった女に対し、尾形はわざわざ遠回りをし過ぎたのだ。遠回りしすぎて、こっちが足を滑らせた。そうだ、道を踏み外した。この家に、帰りたくなった。それが、当たり前になった。追い求めるだけが自分の性だと信じていながら、足を休めたくなった自分に嫌気が差した。だから突き放そうとしたのに、凪沙は微動だにしなかった。当然だ。突き放そうにも、彼女は最初から尾形の腕の届く場所に居ない。暖簾に腕押しとはまさにこのこと。嗚呼なんと間抜けな、一人相撲だったことだろう。

 地に堕としたものたちを顧みることのなかった男が、全てを曝け出して尚、敗北を喫したただ唯一の相手。だったらもう、尾形に残された手は決して多くはない。ああ、ほら。今尚、顔色一つ変えない女だ。仕方ない。負けを認めたのだ。潔く、彼女の流儀に従うとしよう。

「──言わなきゃ、伝わりもしないんだろ?」

 一応、言うのは二度目なんだがな。そう、ゆっくりと続ければ、机に突っ伏していたはずの頭が、ようやくガバリと起き上がった。目を見開き、口はあんぐりと開いたまま呼吸一つしていない。まじまじとこちらを見つめる不躾な顔が、だんだんと状況を理解してきたのか、笑顔とも泣き顔ともつかぬ複雑な物へと変化していく。その顔を見てようやく、尾形は己が怠慢を悟ったのだ。

 たった一度、狙いを外した。そう思っていた。けれど確実に撃ち込んだ。当たらずとも、その銃声が彼女の耳に残っていると、そう踏まえて行動してきたのだ。だが、実際はどうだ。それ以前の問題だった。彼女は最初から、自分が狙われていたことに気付いていなかったのだ。銃弾を掠めたことでさえ、自覚していなかったのだ。種など、最初から植えられていなかった、育つわけがない。そんなことにさえ気付かずに、出もしない芽に水をやり続けたせいで、気付かぬうちにこっちに種が植え付けられた。静かに、しかし確実に蝕んだそれを、尾形は自らの求めたものではないと薄々理解していた。けれど。

「ま、覚えてないんだ。何の意味もなかったがな」

「──……? どういう──……、ッ、ェアァ!?」

 たっぷり10秒停止した凪沙だったが、流石に覚えがあったらしく、聞いたこともないような雄叫びを上げた。この聡い女が、尾形を前にして記憶を失った経験など、たった一度だけ。流石に此処まで言えばこのどうしようもなく鈍い女にも伝わったようで、シュミわっる、そう言いながらもう一度机に突っ伏す凪沙の耳は、酒のせいとは思えないほど真っ赤だった。なんだ、言えばそんな反応もしたのかよ。そんなことを呟いて、べこべこと音を立てながら凹む缶チューハイを握り締める凪沙の手に触れた。あからさまに硬直するその小さな指に、確かな手応えを感じながら、その手を重ねて握り締めた。

 これは、一度跨いだ一線を越えるのに3年と8か月要した、男と女の物語。





―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
2020/06/21 243話に居てもたってもいられなかったので。

あとがき ※本誌243話ネタバレ注意


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