愛を編む

※何があっても許せる方向け(特に型月設定大好きユーザー)

※便宜上赤弓と表記しましたが、あくまで便宜上です

※ネームレス













































 気付けば男は、その店に足を踏み入れていた。

 寂れたバーだ。窓の少ない店内は薄暗く、狭く、入り口から奥の座席まで見渡せるほど。カウンター席が6つと、テーブル席が3つ。切り詰めればもっと座席は確保できるだろうに、それを妨げているのが入口から正面の壁に広がる、本棚。壁一面が棚と化しており、疎らに本が詰め込まれている。大小、厚さ問わずに詰められた本を、数少ない客たちが引き抜いては席でそれを開く。合間を繋ぐように、店主が運ぶグラスに口を付ける。

 店主を見た。女だ、それも若い。グラスをステアして、運ぶ背中はぴんと伸ばされている。けれどこちらの存在に気付いてその視線が交錯した時、男は身構えた。ちり、と肌が痺れる。それほどまでに、女の目は血も凍るほどの赤い色をしていたから。赤き瞳は魔を象徴する。魔──即ち、女は人非ざるモノということで。けれど女は、こちらを振り向くなり、どこか懐かしそうな顔で笑ったのだ。

「ああ、やっと来てくれた」

 花がほころぶように、とはこのことか。柔らかに笑む女の顔に、覚えはない。二の句が継げずにいる男に対し、女は、あれ、と首を傾げた。

「覚えていないの?」

「──なに?」

「あら? これ、代行者対策の結界のはずなんだけど……わたし、この手の魔術は得意ではないものね……まあ、どちらでも一緒よ。今日がハジメマシテ、ということでいいでしょう」

 女は一人で納得し、一人でうんうんと頷いた。そんな横顔も、やはり覚えはない。彼女の勘違いだろうと男は判断する。しかしながら、『代行者』なんてのっぴきならないワードを気兼ねなく出すあたり、女の正体は自然と絞られていく。表情を険して行く男に、女は表情を一転させ、男の顔をまじまじと見つめる。

「貴様、何者だ」

「あなたの敵、ではないわね。少なくとも、わたしの敵はわたしのこと見て『何者だ』なんか、尋ね返したりしないもの」

 連中、本当に気が早いわよね、と女はたおやかに笑う。代行者から逃げ遂せるほどのモノだ、目の前の女が人外であることは間違いない。そんな男の思考を埋めるように、女の言葉は続けられる。

「わたし、吸血鬼なの」

 自己紹介にしては、随分と物騒なワードだ。けれど一見してただの人間であろうとも、艶やかに微笑み、血のような瞳を細めるその姿はまさに、吸血種に他ならない。

「吸血鬼だけど、バーを経営しているわ。生きる為にね」

「……死徒が人の営みの真似事とは、随分と趣味がいい」

「そうでしょう? 自分のお店を持つの、夢だったのよ」

 皮肉も物ともせず、女はこつりこつりと踵の低いソールを鳴らしてカウンターへ戻っていく。黒のパンツに黒いロングエプロン、白いシャツには黒の蝶ネクタイと、長い髪は高い位置で一つに括られている。どこからどう見ても、ただの人間、ただのバーテンダー。だというのに、その瞳だけが彼女を死徒だと物語る。

「……入らないの?」

 入口で棒立ちする男に、女はそう訊ねる。

「何が目的だ」

「なあんにも。生きる為にお仕事をしてるだけ。お代は一杯20mlの血液、奥の本はご自由に。あとはいくらここに居てくれて構わないわ。お酒と読書を楽しむ、『アーネンエルベ』は年中無休で営業中よ」

 それではごゆっくり、と女は再び酒瓶を手に仕事に戻る。無防備な背中は、不死と名高い死徒を屠れるほど。自分が代行者でなくとも、だ。けれど男は代行者ではない。故に男は招かれるように、カウンター席に腰を下ろした。

「ご注文は?」

「……では、君のおすすめを」

 男はまるで、普通のバーに訪れた時のようにその言葉を投げかけた。おかしい、と男は思う。何故自分はバーにいるのか。何故自分は、死徒を前に客を装うのか。何故自分は、此処へ来たのか。男の記憶は風化し、摩耗し、酷く曖昧だ。砂上の城と同じように、脆く崩れた景色は、男の視界を妙に狭めていく。それは今に始まったことではない、はずなのに。

 そんな、酷く覚束ない意識だったからだろうか。女が出す酒を、男はなすがまま、臆さずに口を付ける。濃厚なブランデーに、果実──チェリーだろうか、仄かな甘みが広がる。

マーテルVSOPブランデーベースのキルシュチェリーブランデーだけのシンプルなカクテルよ」

「何故、私にこれを?」

「このカクテルね、『ハンター』って言うのよ」

 あなたにピッタリね、なんて悪戯に笑う瞳はどこまでも人非ざる色をしているのに、男は久方ぶりに喉を通る酒の味に酔いしれたのだった。

 それから何度となく男は酒場に足を運んだ。その間も疑念は尽きない。何故このバーに足しげく通うのか。何故死徒たる女に敵意を持ちえないのか。何故女の出す酒を、何一つ疑うことなく飲み干せるのか。聞いたこともない酒場で一人、人を食い物にする死徒を前に、どうしてこんなにも警戒心を抱かずにいられるのか。けれどそんなあれこれが、この場所に一歩立ち入るだけで、あの赤い瞳を見るだけで曖昧になってしまう。これは罠なのか。何故こんなにも記憶が霧がかったように霞むのか。けれど思い返せど、元々男の掌に残る記憶など数少な。自分が経てきた記憶の何もかもが経年劣化するように摩耗し、壊れ、救えなくなっている。故に男は何度となく訪れるバーに、今日も足を踏み入れるのだ。まるで何かに、導かれるようにして。そこに取りこぼしてきた記憶があるのではないかと、そう予感して。

「いらっしゃい、シロウくん」

 女は幾度となく現れる自分の名を尋ねた。けれど男はその問いに答えなかった。けれど何故か、女はその名を呼んだ。他人の口からその名を示され、彼はようやく自分の名を思い出したほどなのに。何故と問えば、女は軽く微笑んだ。

『わたし、魔術師上がりの死徒なの。より正確に言えば、魔術師が死徒に血を与えられたタイプの死徒、って感じなんだけどね』

『なるほど。道理で人間臭いわけだ』

『それ、褒め言葉なの?』

 そうして、酒の肴にするには重すぎる、本来なら決して起こりえない、魔術師による魔導の開示がなされた。女の家系は代々、置換魔術を生業としていた。それそのものは魔術としては酷くありきたりで、突き詰めることのない初歩的な魔術。女の家系が特異だったのは、置換する物と置換後の姿。女は他人の血液から、その人間の情報読み取ることが出来るのだという。遺伝子情報を読み取るように、女は他人の過去を見、現実を予測し、未来を演算するという。

『まるで千里眼だな』

『言葉ほど便利ではないわ、相手の血液が必要なのだから』

『確かに。自分の血液をそう易々と渡す者もいまい』

 血液から情報を読み取ることは、何も女の家系の専売特許ではない。だから大変なのよ、と女は肩を竦める。

『わたし、もともと根源到達にはあんまり興味がなかったのだけれど、死徒にガブッとやられてから、生きる為に血を摂取する必要が出てきちゃったの』

『それはまた、災難なことだ』

『でしょう? 血も安くはないし……わたしもね、最初こそは人を襲ったり、まあ時には厄介な連中に手出ししてたんだけど……この店を構えてからは、そういう野蛮なことは止めたの。お代を血液として回収できれば、わざわざ戦う必要がないって気付いたのよ。悪戯に子どもを増やして人を襲って、教会の連中に目を付けられるなんて、わたしはご免だもの』

『それで酒代をまかなうために、客の個人情報を売り捌いているわけだ』

『人聞き悪いこと言わないで頂戴。そりゃあ、生きる為とはいえお店を経営するにもお金は必要だし、ちょっとはね? ちょっとはその……情報屋っぽいことはしていますけれど、お客様の情報を他人に売ったりはしないわ。絶対よ』

『どうだかな』

『あ、ひどい! 絶対信じていないでしょう、シロウくん!』

 信じてはいない。けれど、自信の魔術のタネまで晒す目の前の女はきっと、魔術師として生まれながら、魔術使いの道を選んだ。そして彼女は死徒化した。それだけだと彼女を表現する程度には、男は女のバーテンとしての能力を買っていた。故に男は、こう返すのだ。

「お邪魔するよ、店主殿マスター

 マスター。名を名乗らぬ彼女を、自分はそう呼んだ。何故か、懐かしい気がしてくるから不思議だ。彼女はそんな言葉に、羽根ペンを手に、バーカウンターから顔を覗かせて微笑んだ。ここ最近、彼女はいつも何かにペンを走らせている。聞けば、奥の本棚の何冊かは彼女が書いたのだという。何を書いているかはとんと教えてはくれないが、少なくとも彼女にとっては、とても大切な事らしい。というのも、彼女がペンを離してミキシンググラスやバースプーンを取り出している間、羽根ペンはまるで己が意思を持っているかのようにノートの上を走り続けているからだ。魔術に、御伽噺に出てくるような万能さはない。悲しいかな、明かりを灯すことにさえ、魔術で代用するとなるとそれ相応のコストがかかる。即ち、仕事中でも止められないほど、その執筆には何か意味がある、ということだ。

「ごめんなさいね、急いで仕上げてしまいたくって」

「お構いなく。いつにも増して、作家業に精が出るようで何よりだ」

「理解を示してくれる人って好きよ」

「君の好意は羽根より軽い」

「人のこと言えたクチ?」

 いつものように軽口を交わし合い、男はいつものようにカウンター席の奥側に腰を下ろすその前に、壁一面の本棚を覗き込む。此処の本はどれも物語、それも決まって英雄譚だった。それも、男が生前読んだこともない物語ばかりだったため、不思議とその続きをと、何度となく本を手に取っていた。

「ところで、その呼び方はなんとかならないのか」

「あら、どうして?」

「学生じゃあるまいし、些か面映ゆい」

「あなたを示す名称には違いないでしょう? それとも、前の名前の方がお好み?」

 血液から情報を摂取するという女は、その言葉に嘘偽りなく男の情報手玉に取っていた。彼が初めて救われたその日より前に授けられていた名前を、この女は──マスターは、知ったのだという。

「……いや、」

「ならいいじゃない。名前がないと不便でしょう、わたしにみたいに」

 対して女は、名を持たないという。いや、『名乗っていた名を覚えていない』、と言っていたのだったか。名は符号、『アーネンエルベのマスター』で事足りていたという彼女は、特定の名を持たずとも生活に支障はないのだろう。何分彼女は吸血種、血さえまかなえれば未来永劫生き延びることの出来る生命体だ。生みの親から贈られた名前はもう、思い出せぬほど遠い昔に置き去りにしてきてしまったのだろう。

 ちょうど今の、自分のように。

「それとも、わたしに相応しい名前をつけてくれる?」

「……辞退する。特に、そんな台詞を不特定多数の男に言うような不埒者なら、なおさらだ」

 名を思い出せぬと、豪語するマスターだ。死徒故にその容姿が劣化することなく、若く、清廉な女を相手に、バーに通う数少ない男たちが名を贈らぬはずもない。きっと彼女には、男たちの数だけ名乗る名前があったに違いない。けれどマスターは、少し傷ついたとばかりに眉を顰める。

「思い出せないほど昔のことよ。さっきから嫌味な人ね、それとも嫉妬?」

「冗談。いくら私でも、死徒を相手にするほど命知らずではない」

「失礼ね。死徒だって、他者を愛することぐらいあるわ」

 今日も彼女は、ハンターを男に差し出す。グラスに手をかける伸ばす男の褐色の指を、女がそっと撫ぜる。血色のいいピンク色の爪に、冷たい指先。同じ人間と、錯覚してしまうほどに。

「いけない?」

「……何故、私を?」

「わたし、あなた以上にあなたのこと知ってるのよ」

 柔らかく笑うマスターに、古い記憶がノイズのように走る。人を愛する時の女の顔を、男は痛いほど知っていたからだ。けれど覚えはない。その目の色を愛と呼ぶことを知っていても、その目を誰から向けられていたのか、男の記憶にはもう残っていないからだ。そんな人として大切なものばかりを取りこぼしてきた男に、女は酷く柔らかく微笑むのだ。

「あなたの生まれも、あなたのご両親も、あなたの喪失も、あなたの救済も、あなたの成長も、あなたの呪いも、あなたの戦いも、あなたの可能性全てに至るまで、私はあなたを知り尽くしたわ。それこそ、あなたが抱いた女の顔から、あなたの“運命”でさえも」

 にべもなく、彼女は淡々と告げる。この店に訪れた回数は、そう多くはない。けれど、彼女はそのたった数回で支払われた男の血から、男の人生全てを読み取ったのだろう。過去に置いてきた何もかもから、たった一つ忘れられない出会いさえも。

「シロウくん。あなた、間違いなく英雄だわ」

 英雄──今の自分には最も遠い概念だというのに、彼女は真向からその名で男を呼んだ。愛おしそうに、悲しそうに、グラスを握る指をそっと這わせる。

「わたしはその性を、愛さずにはいられないの」

「──英雄色を好むというが、英雄の性を好む女がいるとは」

 男はシニカルに吐き捨て、マスターの指をすり抜けてグラスを傾ける。彼女の言う愛が本物かどうか、男にとってはどちらでもいいことだった。マスターが誰を愛していようと、ただの客である男には関係ない。そう、関係ないのだ。彼女を傷つけるようになったとしても、自分には──自分には。

 自分は今、何をしている・・・・・・

「女の誘いを、断るような人だったかしら」

「悪いが仕事中でね。公私は分ける──主義、で……」

 ズキンと、一際大きく脳が揺れる。仕事、仕事だって。どういうことだ。公私とはなんだ。記憶が震える。視界がブレる。がしゃんと、グラスが倒れてカウンターから転げ落ちる。なんだ、これはなんだ。此処はどこだ。何故、自分は此処にいる。どうして此処に来た。いや、そもそもどうやって此処に来たんだ。此処はどこだ。どうして此処へ辿る道の、記憶がないのだ。過去の記憶が抜け落ちているのは今に始まったことではない。だが、今自分が座す店の場所さえ分からぬとは、どういうことなのだ。
 Bar『アーネンエルベ』は、どこにある・・・・・

「……アラヤも馬鹿ではないわね。よほど便利な手駒を失いたくないと見える」

 マスターの静かな声が、男の鼓膜を震わす。アラヤ──霊長の抑止力。抑止力。ヨクシリョク。阿頼耶識の一部。自分の、仕事。掃除。殺戮。道具。防御装置。顔のない代表者。不可思議なワードだけが、記憶の蓋をこじ開けんと暴れ回る。痛みとは違う、吐き気を催す濁流。血と、涙と、嘆きが見えぬはずの惨劇が男を襲う。

 過去と現在と未来の景色が交錯する中で、ペンの動きが止まる音を聞いた。



「でも、わたしの方が早かった」



 それは、驚くほど愛おしげに囁かれる勝利を確信した声。マスターは、まるで子どもをあやすかのように男の白く変色した髪を撫ぜる。

「貴様、何を……何をした、私に──」

「怒らないで。あなたを救いたいだけなのよ」

「救う、だと──っ、馬鹿、な」

「いいえ、救いよ。いつかあなたが、聖杯戦争に望むほどのね」

 意識と記憶がぐちゃぐちゃに引っ掻き回され、まともに武器を取ることも出来ない。なのに女の声だけが鮮烈に身体の芯を揺さぶる。女の言うことが、何一つ理解できないはずなのに。

「もう、助けるために殺す必要はないの。もう、人理の掃除屋として使われることはないの。優しい人。死後の己を犠牲にしてまで、勝ち過ぎた力を追い求めて、それで一体何が救われたの。誰が救われたの。ただあなたが、苦しんだだけじゃない。

けれど、その無念を無力を無価値を嘆く姿を、わたしは愛します」

 そうして女は、涙した。愛していると言いながら、彼女は男を撫でて涙を流す。髪を、頬を、指先を、撫ぜる女の手はどこまでも優しく、飴細工に触れるかのような繊細さがそこにあった。けれどそれもそのはず、男の指先が徐々に透き通っていくのだ。痛みはなく、故に感覚もなく。ただ氷が熱に解かされるのと同じように、男の身体が、消えて。

「これ、は──」

「あなたはもうすぐ、世界から消えるの」

「ふざけ、るな──そうだ、私は、私は貴様を、倒す、ために、」

 そうだ、何故忘れていたのか。何故そんな単純なことを、思い出せなかったのか。自分の名を。自分の役目を。自分の運命を。死後の魂を世界に売り渡し、掃除屋として未来永劫解放されることなく働き続けるだけの装置。そんな自分が此処に現れたのだから、目の前の女は人理の敵。人理の破壊を促す敵を、排除するために現れたというだけなのに。

 女の手は、愛を宿して男に触れる。

「世界に失望しているくせに、随分仕事熱心ね」

「何を、した。俺に、何を──、きさ、」

「消えるだけよ。苦しみも絶望もなく、解放されるだけ」

 消える。世界から。一度死した己を、消す。それは即ち、ただ命を絶つなんて、生温い話ではない。分かるのだ、喪われゆく指先から徐々に、世界から自分の存在が欠けていくのが。分かるのだ。もうこの先、男が歴史を紡ぐことはなく、男が何かを成すことはなく、男が彼岸を遂げる日は訪れないのだと。

 かつて、男は理想を抱いた。平凡な自分には不釣り合いなほどの、永久に遥か遠くの理想を。だから世界との契約は、自分に相応しい道だと信じて止まなかった。世界を覆すような野望もなく、人を従える求心力もなく、決して人理の英雄には成りえぬ自分には、こんな形でも人類史を守る一端を担えるのだと。けれど現実は、男をただ体のいい掃除屋として使役するだけだった。何年も、何十年も、何百年も。殺して、殺して、殺して殺してまた殺して。己が名前さえ風化するほど摩耗した男は確かに失望していた。こんな理想なら、抱く前に死んでしまえたらと。何度も。

 それでも彼はまだ、間違えてなどいなかったと信じていたのに。

 

「《死がふたりを裁断つともオーバーライト・ロマンシア》」



 ──それは、とある魔術師が死徒になった後の出来事。愛する男を抑止力に未来永劫奪われた女が、抑止の輪より愛する男を取り戻すまでの物語。彼女の家に伝わる魔術は『置換』。血液から他者の人生に刻まれた情報に置換する、決して希少性もないような魔術。女はその力を用いて愛する男を本に書き綴った。男の名前、性格、容姿、趣味趣向、愛した人の名、家族のこと、匂い、指先の温かさ、愛の囁き方、瞳の美しさ、過去も、現在も、未来も、辿る可能性の全てに至るまで、愛する男を全て封じ込めるように、女は紙にペンで書き綴った。舌先に乗る血液は、女に愛する人の全てを残してくれたから。そうして出来上がった一冊の本。文字通り心血注がれて描かれたその本は、彼女が愛した男の全てだった。何だって記載されていた。ともすればその本は、アラヤが招いた守護者たちよりも鮮明に記されていた。たった一つ、最後に記される一文を除いては。

『──故に衛宮士郎は、守護者として招かれることなく死するべし』

 《死がふたりを裁断つともオーバーライト・ロマンシア》──永きに渡る生涯の中、女が辿り着いた愛のカタチ。時間の輪から外れた守護者たちが漂うアラヤに直接接続し、『そんな人間は存在しなかった』と上書きする魔術。守護者は人間でなければならない。人に生まれ、人として育ち、人非ざる力を求めて死後の魂と引き換えに彼らは掃除屋となったからだ。では、人として生まれた彼らの情報よりも、彼女自らが生み出した情報の方が優れていたとしたら。質も、量も、執念も、母なる親が産んだという事実を、全くの赤の他人の手で綴った手記が上回っていたとしたら。

「人の信念を……舐めないで頂戴、アラヤ……ッ!!」

 女とて世界に存在する一個の生命体。故に女にも信仰心があり、死者の為に祈る心があった。なればこそ、守護者たちを知る百万人の祈りを、女の信仰心が上回ることが出来るのなら。彼らは守護者になるべきではなかったという祈りが、幾多の人間の信仰心をかき消すことの出来るのなら。そうすればアラヤは彼らを『人』ではなく、『女の妄執』として認識せざるを得なくなる。無辜の怪物という言葉があるように、たった一人の作家が一国の王を、或いは女城主の在り方を後世に伝わるまで歪めたように。かくあるべしと招かれた抑止力としての記録を、たった一人の女が『守護者ではない』と否定しまえたら。そうすれば彼らは、もう抑止の代行者として隷属する必要はないのだと。

 無論、そんなことが罷り通るはずもない。しかし、現実として、彼女は守護者を抑止の輪から引きずり下ろした。たった一冊の本の中に封じ込め、あたかも自分の生み出した物語として固定した。そのデータがあまりに正確で、鮮明であったが故に、物語として固定されたその情報こそを世界が正しいと認識し、守護者たちの生きた形跡はこの世から消える。何故なら彼らは女の産み落とした物語。故に、世界に生きた痕跡があろうはずがないのだ、と。まさに因果律の逆転。残された結果一つが、世界のすべてを書き換えてしまう魔法の域に届かんばかりの魔術。たった一人の女の愛が至った、執念が成せる業。

 けれど、ともすれば世界を書き換えるだけの力技。死徒とはいえ、その肉体にかかる負荷は尋常ではない。薄れゆく愛する男を抱きしめるように、女は空をかき抱きながらその場に倒れ伏したのだった。














































 気付けば女は、一冊の本を拾い上げていた。表紙に綴られる名はなく、また挿絵一つないその本を書いたのは自分だったと思いだすのに、随分と時間がかかった。女は思案する。

「……また、ころしてしまったのね」

 寂しげに表紙に指を滑らす、女の顔はただ静か。



「──いったい、どんな殿方だったのかしら」






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五百倉さんサイト開設おめでとうございます!

特に意味のない あとがき


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