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それから、マージおばさんにいびられる生活が始まったが、子猫の癒しのオーラを思い出すことで何とか数日は事無き事を得た。無論、おじさんたちが必死になってマージおばさんの気を逸らしてくれなければ私の右フックがあの贅肉にめり込んでいたであろうことは目に見えているので、一家にも感謝しているが。

だがマージおばさんの罵声に似た小言より、如何にペチュニアおばさんの目を盗んで肉やら魚やらを部屋に持っていくか、の方に私は神経を擦り減らしていた。生はあまり良くない、けれど塩だの油だのと調味料がつけられるともっとよくないらしい。そんなわけで、私はポケットにビニール袋を常備する必要となり、マージおばさんが居る手前引き籠ってもいられない私は、キッチンでおばさんの手伝いをしながら、おばさんの目を盗んではポケットのビニール袋に加熱済みかつ未加工の肉や魚を滑り込ませた。私の涙ぐましい努力の甲斐あって、子猫はモリモリと食べ、モリモリと元気になっていった。



「ま、元気なことは良いことだ。ね、シュバルツ」

「にゃ」



またも名前に悩まされることとなったが、結局ヴァイスに因んで、子猫はシュバルツと名付けた。いや、安直とか言うなよ。いやね、名は体を表すじゃないけどさ、綺麗な黒毛だし、こう、ね、うん。カッコイイかなー、みたいな、ね、ウン。

とかく、シュバルツとの生活は、私の心を穏やかにさせた。私の言うことは大抵素直に聞くし、大人しく、その辺を爪でカリカリしたりしない。ご飯も残さず食べるし、トイレは勝手に窓から出てって外でするし。せいぜい一緒に風呂入るのを嫌がる程度で、本当に手間がかからない。ストレスフリーである。おかげでどんな耳を塞ぎたくなるような罵倒をされようとも、心にあの柔らかく温かな、愛らしいシュバルツを思い描けば、大抵のことは許せた。いつもより五割増しで笑顔の私にダーズリー一家は益々恐れをなしているようであるが。心外である。

そんな日々を何とか過ごし、いよいよ明日はマージおばさんの最終滞在日となる。



「よし、寝るか。おいで、シュバルツ」

「……にゃあ」

「もー、こいつはー」



ベッドも好きじゃないのか、椅子の上に軽く爪を立てるシュバルツを引っぺがし、手のひらに乗せてベッドに連行する。魔法用具を一切片付けてしまった今、筋トレくらいしかやることがないので、この一週間はさっさと眠ることにしている。あの無礼極まりないマージおばさんのことだ、いつ無断で部屋に上がり込んでも不思議じゃないしね。シュバルツならね、ポッケに入れればやり過ごせるだろうけど。ホント鳴かないし、大人しいし。

パジャマに着替えた私は、ほかほかの身体でベッドに直行する。私の手から逃れようとするシュバルツは、いつものように観念したのか、大人しくなった。私はそのまま温かなシュバルツをお腹の上に乗せて、眠りについた。明日を乗り切ればいつもの引き籠りサイクルに戻れると、希望を胸に、だ。





***





「……ん、」



夢も見ないほど、深い眠りについた。けれど、どこか懐かしいものを感じた。ふわふわと、あたたかく、しあわせなものを感じた。底から這い上がるように、意識がスゥ、と上昇して行く。瞼の裏側には光が溢れている。ああ、もう朝か。でもやだな、まだこのまどろみの中に浸っていたい。しあわせだなあ、涙が出るほどしあわせだ。どうしてこんな、懐かしいものが、今。



「      」



誰かが何かを言った、気がした。とてもかなしい、せつない音を聞いた。私はこんなにもしあわせな気持ちを感じているのに、どうしてそんなかなしくて、せつなくて、くるしい音が出せるの。う、と呻きながら身体を起こそうと、意識を押し上げようとするけれど、カーテンの隙間から差し込む眩い光に目が開かない。



「だ、れ―――」



答えはない。けれど、先程の音とは別に、どこか遠くから口笛を吹くような音が耳に入り―――私の意識は一気に覚醒した。



「やっば!」



がばり、と飛び起きた。私の腹の上で寝息を立てていたらしいシュバルツがころりとベッドの上に転がる。ごめんごめん、と寝ぼけ眼のまま謝って、私はベッドの下に入れてあるトランクに手を伸ばす。この部屋に目覚まし時計なんてものはない。だとすれば、音が鳴るとしたらこのトランクの中の物しかない。トランクの中の物―――何が鳴ってるか分からないが、この家で言う『普通でないもの』に違いない。さっさと音の正体を突き止めて止めないと、誰かが部屋に入ってきてしまう。

急げ急げ、とトランクの鍵を解錠したその時。



「……止まった」



音が、鳴り止んだ。今までの口笛のような音が嘘のように、シン、と静まり返る。そして一間置いて、両隣や下の階から地鳴りのような鼾が聞こえてくる。ドキドキと高鳴る心臓を押さえ、壁掛け時計を見上げれば、まだ五時半で。

ふう、と安堵の息を漏らす。



「……なん、だったんだろ」

「にゃ」

「あ、ごめんなシュバルツ。寝てたのに」

「にゃ、にゃあ」



叩き起こされたと言っても過言ではないのに、シュバルツは気にしてないよ、とばかりに心地よさそうな顔で尻尾を振る。もうひと眠りしよっか、とシュバルツを抱き上げて、私はもう一度布団に滑り込んだ。しかし、さっきの音は何だったんだろう。怪物的な怪物の本があんな音を鳴らす訳ないし、スニーコスコープは怪しいモノが近付かないと鳴らないし、ドラコから貰った懐中時計はあんな音じゃないし……―――そんなことを考えているうちに、また眠りに落ちたのだった。

朝を迎え、今日も罵倒に耳が痛くなるも、部屋に残してきたシュバルツを思えばこんな豚女、気にならない。そうして堪えているうちにようやく夜になり、私はペチュニアおばさんと一緒に豪華なディナーを作る為にキッチンを奔走した。勿論、シュバルツのご飯も忘れずにちょろまかしている。おじさんはワインを開け、マージおばさんと早くも出来上がっている。その間、流石のマージおばさんも気がよくなってるのか、私の罵倒は一言も発しなかった。

やがて料理を全て平らげると、おばさんと私はコーヒーを入れ、ダドリーはレモン・メレンゲパイを一人でホール半分を食い散らかし、おじさんとマージおばさんはブランデーで乾杯していた。



「フーッ、素晴らしいごちそうだったよ、ペチュニア。普段の夕食は大抵あり合わせを炒めるだけさ。十二匹も犬を飼っていると、世話が大変でねえ」



ゲッーフ、とおばさんは大きなげっぷをした。紳士淑女の国の名が泣くな、と思いながら樽のように盛り上がったお腹をさするマージおばさんを見る。



「失礼。それにしても、あたしゃ健康的な体格の子を見るのが好きでね。ダッダー、あんたはお父さんと同じに、ちゃんとした体格の男になるよ」



それは困る。やはりコーチに頼んでもう少し減量させなければ。マージおばさんが来てから体重制限をすっかり忘れてしまったダドリーは、ぷくぷくと肥えてきている。これは不味い。

なんて思っていると、マージおばさんのギョロ目がこちらを向いた。



「ところがこっちはどうだい。骨と皮だけの、みすぼらしい産まれ損ないの顔だ。犬にもこういうのがいる。去年はファブスター大佐に一匹処分させたよ。水に沈めてね。出来損ないの、小さな奴だった。弱弱しくて、発育不良さ」



……う、うわあ。ファブスター大佐に嫌われるワケである。大佐も、こんなのに付き纏われたくなきゃ、さっさと引っ越せば良いものを。悲しげな表情を浮かべながら、脳裏にシュバルツを思い描く。ああ、今はいないヴァイスとは仲良くなれるだろうか。どっちか焼きもち焼くかな。それはそれで可愛いかもしれない。



「こないだも言ったが、要するに血統だよ。悪い血が出てしまうのさ。いやいや、ペチュニア、あんたの家族のことを悪く言ってるわけじゃない」

「マ、マージ。ブランデーはどうかね」



おじさんがどこか動揺隠し切れぬ声でブランデーを勧める。マージおばさんはブランデーを瓶ごと受け取り、自らの手でブランデーをグラスにドッバドバと注いだ。シミ一つないテーブルクロスがブランデーの染みで広がっていき、ペチュニアおばさんも顔を引き攣らせた。



「ただ、あんたの姉は出来損ないだったのさ。どんな立派な家系にだってそういうのがヒョッコリ出てくるもんさ、それでもってろくでなしと駆け落ちして。結果はどうだい、親に違わぬ尻軽が目の前に居るよ!」



おじさん、おばさん、ダドリーでさえ、まずい、といった顔をした。酒が入ると、マージおばさんは手がつけられなくなることをよく知っているからだ。そう思うなら私だけ部屋に閉じ込めておいてくれればいいのになあ、その方が互いの為になるだろうに。

かたり、と廊下の方で何か音が聞こえたが、振り返る隙はない。マージおばさんのぎょろりと出っ張った大きな目が、私の一挙一動を捉えるからだ。



「そのポッターってのは、一体何やってた奴なんだい」



ダーズリー一家に緊張が走る。ダドリーでさえ、メレンゲパイを食べる手を止めて、私とマージおばさんを交互に見やっている。



「ポッターは、アー、働いてなかった。失業者だった」



もっとマシな嘘を吐いて欲しいものである。マージおばさんをいい気にさせていては、本当に私がキレてしまうかもしれないのに。

……いやでも待って、状況が状況だったとはいえ、パパもママも働いてなかったよね。不死鳥の騎士団はいわばボランティアみたいな団体なわけだし、給料が出ていたとはとても思えない。闇払いだったわけでもなさそうだし、そもそも私を身ごもってからは両親共に軟禁状態であったのだから、働く余裕なんてある筈もない。まあそもそも金庫を見るに、働かなければならないほど金に困ってるわけでもなさそうだしなあ。

とは、墓穴を掘りたくないので言わないが。



「そんなこったろうと思ったよ!」

「さ、さあマージ。TVでも見ないか。ブランデーも、もう一本開けよう」

「フン、バーノン。庇ってやることはない。文無しの役立たず、穀潰しのかっぱらいの娘なんだと、ハッキリ言って聞かせるべきさ。じゃなきゃこいつだって同じ道を辿るよ。いや、もうなってるのかもしれないね。ペチュニア、一回こいつを病院に連れて行ってごらん。きっとロクでもない親と同じように、とんでもない性びょ―――」



マージおばさんは、突然黙った。一瞬、舌でも噛んだのかと思った。だが、どうも様子が変だ。どうして、だって私、何もしてないのに。おかしい、何かがおかしい。私はがたり、と立ち上がった。思考は至って冷静だ。怒りのままに魔法を発動させるようなんてこと、ホグワーツでならまだしも、こんなリスクのある場所で私がするはずない。

おじさんもおばさんもダドリーも、マージおばさんに注目した。マージおばさんの顔が、なんだか丸くなってる気がする。丸く―――いや、膨らんでいる、膨れが止まらない、まるで魔法がかかったかのように!



「う、わ―――」



巨大な赤ら顔が膨張を始め、ぎょろりと飛び出しそうな目玉が本当に飛び出しそうで、口は左右にぎゅっと引っ張られ続けて言葉を発するのも叶わない。次の瞬間、ツイードの上着のボタンが、弾丸のように弾け飛んだ!



「「マージ!!」」



おじさんとおばさんが同時に叫んだ。マージおばさんの膨れは止まらない。腹が、顔が、指が、足が、ぶくぶくと空気を入れられた風船のように膨らんで行く。ついにおばさんはヘリウムガスを入れられた風船のように浮き上がり、ぼんぼんと天井にバウンドし始めた。ディナー皿が乗ったテーブルが引っくり返り、グラスが床に叩き落とされ、メレンゲパイがぐしゃりと潰れる。誰もが恐怖で声も出せない。

なんだこれは。違う、私じゃない。いくらとんでもなく失礼なこと言われても、この程度で、こんな場所で正気を失うほど私もアホじゃない。じゃ、じゃあ、一体誰が……。

その瞬間、私の背後でバシッと聞き憶えのある音が鳴った。



「アシュリー・ポッター!!」



思わず振り返れば、そこにいたのは、此処に居る筈もない人物―――いや、妖精。土色の肌に、大きな目と耳が特徴の魔法生物。カラフルな靴下と、グリフィンドールカラーのネクタイがお洒落な彼を、私は知っている。

ドビーだ。私のメル友となった、屋敷しもべ妖精。魔法界の住人。こんな、“普通”の世界に居る筈もない、私の友人だった。ダドリーとペチュニアおばさんは彼を見て大きな悲鳴を上げたが、ドビーはそんなの気にしてられない、とばかりに切羽詰まったような表情で私に手を差し伸べた。



「逃げて下さい! シリウス・ブラックが! すぐそこに!」

「な―――なんですって!?」

「この家は危険です、アシュリー・ポッター!」



シリウス・ブラック―――その名に、今度こそ一家は大パニックになった。風船のように膨れ、天井をバウンドするマージおばさん、顔を真っ青にパニックになるおじさん、ドビーの出現に身を縮こまらせるダドリーを、庇うように伸しかり何か訳の分からないことを喚くおばさん。庭に居たマージおばさんの犬、リッパーが狂ったように吠えかかり、キッチンは一瞬にして地獄絵図と化した。

かく言う私も、少しだけ混乱していた。いやいや、なんで此処にドビーがっていうかシリウスがっていうかドビーがシリウスの名前を……?分からない事だらけの私を、ドビーが見かけによらない力で私を廊下まで引っ張っていく。



「ま、待って、ドビー! い、一体なにが、」

「説明は後です、今は荷物をまとめて此処を離れる方が先です!」



キーキー声で喚くドビーの必死の形相に、私はとりあえず頷いた。二人で二階に駆け上がり、私の部屋に入る。ベッドの下からトランクを引き摺り出し、一度中身を確認する。みんなからの手紙、プレゼント、教科書、金庫の鍵、ローブ―――リストと照らし合わせながら、しきりに急かすドビーを宥めながら、忘れ物が無いかチェックする。



「あ―――……」



私は、唐突に青いノートの存在を思い出した。いつも学校に向かう前に、念入りに読み込んでおく、今後の展開が日本語で書かれたノートだ。どうする、まだ確認してないんだ。持っていくか―――いや、誰かに見られたら―――けれど、今年も十分大切な年なのだ―――ぐるぐると思考が浮かんでは消えていき、ドビーのキーキー声が脳を揺さぶる。数十秒悩んだが、私は腹を決めて青いノートを引っ掴み、トランクの奥底に仕舞い込んだ。

数分かけて忘れ物チェックを終えた私は、箒と杖を手に立ち上がる。ドビーが魔法でトランクを浮かせ、先導して持って行ってくれた。私もそれに続いて、階段を駆け降りる。あれ、そういやシュバルツはどこいったんだ。



「シュバルツ?」



呼びかけてみれば、耳慣れた「にゃあ」という返事。辺りを見回すと、階段下の物置の隅に隠れていた。何でこんなところに、と思ったが、玄関口でドビーが私を急かす声が聞こえる。



「行こう、シュバルツ!」



後先のことはこれから考えればいい、そう思って私はシュバルツを拾い、ポケットに滑り込ませてから私を呼ぶドビーの方へと駈け出した。が、廊下に足をかけたその時、ダイニングルームからバーノンおじさんが飛び出してきた。顔面蒼白で、足はリッパーにでも噛まれたのか、ズボンの裾までズッタズタだった。



「此処に戻るんだ! 戻ってマージを元通りにしろ!!」



怒り狂うおじさんは、すっかり私のせいだと思い込んでいるらしい。ま、あの状況じゃそう思うのも当然か。が、私はマージおばさん如きの為に魔法を使って警告状を受け取るつもりはサラサラない。顔面蒼白なおじさんの顔に杖を突き付けた。



「おじさんには悪いけど、当然の報いだと言わせてもらうわ」

「な、な……!」

「私が何を言われても動じない女だと思ってた? ごめんなさいね、私、そこまで良い子でいられないの」



最後の脅しは、ちょっとした仕返しみたいなもんだ。腰を抜かすおじさんの脇をすり抜けて、私はドビーの待つ玄関へ向かう。そしてちらり、と今尚騒がしいキッチンの方を振り向いて―――そのまま、前を向いて歩き出した。そうして私たちは、暗闇の中、しいんと静まり返ったプリベット通りに飛び出した。

……あーあ、今年もダドリーと仲直り、出来なかったなあ。


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