23.5

ジェームズの家から脱兎の如く逃げ出した件については、おばさんはものの見事に『錬金術の件』と誤魔化してくれたらしく、ジェームズからの追及が来ることはなかった。その優しさに報いるだけの『成果』があったのかは自分でも分からない。ただ、相変わらずあいつの作る飯は美味い。手間暇かかった料理を苦ともせずに作っては、黙々と俺に振る舞う。けれど俺を見る目はいつだって冷たく、『話しかけるな』と顔に書いてあるほど。おばさんの言う『愛情』の欠片は、夏休みが終わりに近づいて尚、読み取ることはできなかった。やっぱり、おばさんの早とちりに決まってる。俺はそう決め込んで、ドラゴンの卵のようなハンバーグを口にするのだった。

そうして気付いてみれば夏休みが終わるのも残り数日になっていた。長かった。長かった共同生活と軟禁生活がようやく終わると、俺もあいつもどことなく浮足立っていた。あと何日かで俺はあの真っ赤なホグワーツ特急に乗って帰るのだ。ホグワーツ、俺たちの家に。目の前でむすっとした顔のまま文献を漁るこいつも一緒なのかと思うと少しばかり気が重いが、それでもホグワーツに帰れば二人きりではなくなる。今よりは百倍マシに決まってる。



「(あとは、ジェームズたちに気付かれないようにすればいい)」



正直、こいつを未来に送り届けるよりも、ホグワーツで生活していく中で俺とこいつの関係性をジェームズにバレないようにする方が何倍も難しい気がしてきた。どうせこいつもホグワーツに戻ろうが『話しかけんな』とか言ってきそうだし、接触は可能な限り控える必要はありそうだ。まあ、少なくとも錬金術の時間には会えるのだ。それで十分だろう。別に、好き好んであいつに接触したいわけじゃねえ。ダンブルドアの宿題のせいだ。仲良くするつもりはお互いなくとも、情報を抜き出す仕事が、俺には残されているのだから。

さて、そんなこんなで八月最後の土日を迎えたのだが、いつものように紅茶を片手に読書と洒落込むことはできなかった。曰くこの週末はカーニバルが執り行われるらしく、朝の十時からきっかり十時間ほど外からはよく分からない音楽が四方八方から飛んでくるし、家の前は文字通り人の波で埋め尽くされていて、出店やらストリートパフォーマーやらで賑わいつくしていた。当然、小難しい論文が頭に入るはずもなく、俺たちはこの二日間を荷造りやら掃除やらに充てていた。クリスマスやイースターに帰るつもりもないし、次に帰ってくるのは恐らく一年後。家のことはトンクス夫妻に任せるにしても、こいつの痕跡が残っていると『家に誰を連れ込んでいたの?』なんてアンドロメダに詰め寄られたら厄介だ。なのでアシュリー・グレンジャーの痕跡は可能な限り潰しておかねばと、念入りな掃除と荷造りが必要だという訳だ。



「やーっと終わった……」



ぐったりしてソファに身を投げ出す、日曜の夜。大して広い屋敷でもないのに、あいつの痕跡が残っていないか隅から隅まで調べるのは骨が折れた。だが、おかげでシャワールーム以外にあいつの生活していた痕跡は残されていなかった。あとは九月一日に念入りに掃除して、シャワールームの歯ブラシやら着替えやらを持ち出せば完璧だ。聞けばアシュリーはホグワーツ特急に乗って行くのではなく、フラメルに連れられてホグワーツに行くらしい。何時間とかけて列車に揺られなければならない身としては、羨ましい限りだ。まあ、その理由は列車に乗っている最中に何かあっても困るから、という真っ当な理由なのだが。

夕食の後、いつもならアルファードが送り付けてきたレコードを掛けながら紅茶でも淹れて文献から有用な情報をまとめたり本を読んだりと時間を潰す俺たちだが、今日ばかりはいつものルーチンワークとは違う。あいつは煙草とバタービールを片手にベランダに出て、カーニバルを見物していた。夜にもなると花火の音やらウーウーという耳障りな音やらも加わって、マンドラゴラの泣き声さえ遮断する耳当てがあっても安眠はできないだろう、という騒がしさだった。あんなパレードの何が楽しいんだか理解できないが、自室からベランダを見るとあいつは足でリズムを取りながら、穏やかな表情で街を見下ろしている。いつもああなら、俺だってもう少し──って、何考えてんだ、俺。この騒ぎに俺まで浮かれてんのか、馬鹿みてえ。

気を紛らわすためにリビングに戻り、冷蔵庫をガッと開ける。いつもは所狭しと食材が詰められていたこの冷蔵庫も、今やほとんどの食材はない。すっかすかだ。食材をなるべく無駄にしないよう、此処一週間は買い物にも気を使っていたらしい。人の金で買ったものなのに、そういうところあいつは律儀というかなんというか。俺はキンキンに冷えたバタービールを手に飲み干す。甘ったるいこの飲み物は本来あまり好きじゃないが、あっつい夜に頭が痛むほど冷やして飲むと格別だった。あいつもそう思っているのだろうかと、リビング越しにアシュリーの背中を見た時、リビングのテーブルの上にある物に目が止まった。



「いっけね」



そこには、ガラス製の大きな灰皿が鎮座していた。そういえば、最初にあいつが煙草買った時に一緒に灰皿を買っていたんだっけ。結局あいつは室内では喫煙せず、携帯灰皿に灰を落とすのでそいつはもはや部屋のインテリアと化していた。だが俺は煙草は吸わないし、部屋に残ってたら怪しまれかねない。これも荷造りしろと言うために、俺は瓶の中身を飲み干してからシンクに置いて、ベランダに向かう。

広いベランダには、あいつの背中がぽつんと暗がりの中に浮かんでいる。あっちこっちからジャンルも分からないほどぐちゃぐちゃした音楽が聞こえてくる中で、あいつの歌声が聞こえてきて。



「♪White riot, I wanna riot.White riot, a riot of my own」



それは歌というよりは独り言のような、小さな小さな声。なのに、この騒ぎの中でもはっきりと聞こえてきた。暴動を起こしたいと、あの小さな背中が歌っているのがどうにも変な光景に映る。



「……ひっでえ歌詞」



そう呟けば、耳聡く俺の声を拾ったあいつが振り返る。ほんの少し眠たげだったその黒い目は俺を見るなりはっと見開き、すぐさま手元の煙草を携帯灰皿に押し込んだ。既に独特の嫌な臭いがベランダに充満しているのに、だ。



「別に消す必要ねえだろ」

「健康には気を使うべきだと思ってね」

「へっ、若いから、ってか?」

「違う、『人間』だから」

「……ホムンクルスがさまになってきたようで、何よりだな」



皮肉を返せば、アシュリーは肩を竦めるだけだった。相変わらず、『喧嘩にならない程度』にしか会話をしない奴だ。ぐっとバタービールを飲み干すそいつを見下ろしながら、そんなことを思う。



「で、何か用?」

「……灰皿」

「灰皿?」



会話の意図が読めなかったのか、こいつは携帯灰皿を見落とす。そっちじゃねえよ、と俺はリビングを親指で差す。



「あのくそでけえ灰皿だよ。荷造り忘れてんじゃねえの、お前」

「ああ……あれか……あれは捨てる予定だから」



なんてことないとばかりに、こいつはその一言を口にする。

──思えば、その選択は別段おかしくもなんともないはずだったんだ。あいつはこの家に来てから、一度もあの灰皿を使わなかった。買ってはみたが、使わなかった。あいつにとってあの灰皿は、不要なものだ。だから、手放す。たったそれだけのこと。それだけのことなのに、どうしてかそうして呆気なく手放そうとするこいつに俺は、柄にもなくショックを受けたような気分になってしまったのだ。



「捨てる? なんで」

「使わないからだよ。不要な物は破棄すべきだろう?」

「そりゃ、今はそうかもしれねえけど、来年とか──」

「ないよ。私は来年、此処に戻る気はない」



ぴしゃりと、アシュリーは宣言する。分かるのだ。その理由が。だからショックだった。何故ならショックを受けたこと自体が、ショックだったからだ。

今、使い道がなくとも、来年、再来年はどうか分からない。どうせこいつは煙草を手放せない。だったら、手にした灰皿にすぐ見切りをつけるのは時期が早いのではないか。手放すかどうかは、『いつか』決めればいい。だがこいつは、そんな『甘え』を微塵にも許さない。



「一年で、帰るつもりかよ」

「一年と言わず、一日でも早くね」

「そんなにこの時代が気に食わねえのかよ」

「私の生きるべき場所は、ここにはないからね」

「んなの──ッ!!」



何故こいつにこんなに腹が立つのか、分からない。分からないが、こいつがあっさり灰皿ごと、この時代を手放そうとする姿が酷くむかつくのだ。そしてこいつは、俺の心を読み取ったかのようにその答えをお優しくも与えてくれる。



「この時代が、嫌いなわけじゃないよ」



静かなその一言で理解する。俺の目にこいつの行動は、自分の生きる世界を否定されれているように見えるのだと。俺はこの時代に生まれて、今を生きている。他の時代なんか知らないし、知ろうとも思わない。歴史を学んでも『この時代に生きてみたい』なんか思ったこともない。俺にとってこの一九七六年は“絶対”だ。

だというのに、目の前に佇む女にとってはそうじゃない。



「グリモールド・プレイスで育った君なら、分かるはずだよ」

「何を──」

「此処はとても、息苦しい」



そう、俺にとっての“絶対”は、この女にとってはそうじゃない。こいつはこいつにとっての“絶対”の場所があった。だから此処から出ていきたい。帰りたい。その足掻きが、どうしても今を生きる俺には否定されているように見えてしまうのだろう。『お前たちが生きるこの時代は、自分にとってはこんなにも劣悪なのだ』、と。

答えを得れば、実に腑に落ちる。だというのに、苛立ちは収まることを知らない。仮面のような表情で、淡々と語る女にはきっと、この沸騰しそうな怒りは伝わらない。



「君だって、グリモールド・プレイスの人間と分かり合おうなどと思わないだろう?」

「当たり前だ!!」

「だったら、それでいいんだよ。私と君は、いわばそういう関係なのだから」

「……ッ」



どん、と胸板を突き飛ばされたような、そんな感覚。俺にとってこいつは嫌な奴だ。嫌味は留まるところを知らないし、飯作ったり身体を気遣ったりと変なお節介を焼く割に、俺たちと向き合おうともしない不誠実な奴。それでも、言葉は通じるし、純血主義者じゃないし──聞いたわけじゃないが、純血主義者は喜んでマグルの家電を使ったりしない──、未来の俺の、ダンブルドアたちの味方だ。だからこそ、例え俺たちを寄せ付けないための口先だけの嘘だったとしても、おぞましいあんな連中と一括りにされるのが、どうしようもなく腹が立つ。なのに、俺はこいつに反論するだけの材料を、何一つ持ちえていなくて。

結局、口じゃ勝てない俺は黙る他なく。あいつもあいつでこの話はおしまいだと、カーニバルの喧騒に背を向ける。



「分かってると思うけど、ホグワーツでは話しかけないように」

「なんでだよ」

「関係性を疑われるだろう。接点なんて皆無なんだから」

「寮一緒ならそこまで不自然でもねえだろ」

「悪いね。私、スリザリンに組み分けされる予定だから」

「──は?」



思わず、そんな声を漏らす。今でこそ冷静で皮肉屋を気取っているが、一番最初に出会った時の血の気の多い姿こそがこいつの素だと思っていた俺には、信じがたい発言だった。こいつは、てっきり、俺らと同じ、グリフィンドールに入るものだと。



「後腐れなく帰る為なら、私は手段を選ばないよ」



俺の浅い考えなど見抜くように、あいつはそう言ってバタービールの瓶を飲み干す。ウーウーという耳障りな音と、人々の悲鳴と怒号が、遠く彼方から聞こえてくる中で、アシュリーの声だけが鮮明に俺の耳に飛び込んでくる。あいつはそのまま、リビングへと戻っていく。気付けば騒がしい音楽は鳴り止んでいて、けれど町は喧騒に溢れ返っていて。

今だけは、世界から切り離されたような感覚が分かるような、そんな馬鹿みたいなことを考えた。明るい空を見上げれば、同じイギリスとは思えないほどに星の輝きが遠く映って見えたのだった。


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