「じゃあまずミートソースから作るわね。シリウス、お野菜を切って、ラム肉を刻んでくれる?」 「げ、マグル式でやんの?」 「手作業でできないことは魔法ではできなくてよ、お坊ちゃん」 おばさんはそう言って野菜やラム肉を取り出してまな板と包丁を指し示す。そういうものだろうか。だが、おばさんの前で『めんどくせえな魔法でやろうぜ』とは言えない。おばさんはそういうとこ、おじさん以上に厳しいし。仕方ないと俺は包丁を手ににんじんや玉ねぎを剥く──が。 「ああ、シリウス。玉ねぎの皮は剥いてから切った方がいいわ」 「皮……ああ、ここ食えねえのか」 「そうよ。茶色い部分は捨ててしまっていいわ」 「にんじんは?」 「それも皮があるわ。実と同じ色だから、分かり辛いかもしれないけど」 まさか皮剥きから躓くことになるとは思わなかった。今まで自分が口にしてきた野菜たちがどんな風に調理されてるのか考えたこともなかった俺にとって、おばさんの言葉は何もかも新鮮に聞こえた。自分の無知さを恥に感じないのが、心底不思議だった。 俺はおばさんの言う通りに野菜を細かく刻んでいく。玉ねぎを切ると何故か涙と鼻水が止まらなくなって、おばさんに換気してもらう羽目になった。 「なんだ、これっ、目が──痛ェ!」 「そうなのよ。玉ねぎの匂いの元──硫化アリルが玉ねぎを切ることによって気化して、目の粘膜を刺激するの」 「くっそ、こんなめんどくせえモン食ってたのか、俺らっ!」 「ふふ、そうよ。お料理って簡単そうに見えて、とっても大変なのよ」 おばさんは楽しそうに笑いながら杖を振って風を起こす。おかげでさっきよりはマシになったが、目への刺激は糞爆弾並みだ。人間以外が食ったら毒物なだけある、と思いながら玉ねぎを見る。なるほど。料理、奥が深い。 その後、ラム肉をミンチにしていく。おばさんはその間、じゃがいもの皮を向いて一口大に切っては水の張ったボウルに入れていく。……おばさんまでマグル式でやることねえのに、俺に合わせてくれてるんだろう。 「それ、何してんの?」 「じゃがいもを水にさらすとね、色々いいことがあるのよ」 「例えば?」 「アク抜きよ。タンニンを取ったり、酸化による変色を防いだり、余分なデンプンを取って焦げるのを防いだり、じゃがいも同士がくっつかないようにするの」 「……つまり、そうする方が美味い?」 「ふふっ、そうよお」 にこやかに笑うおばさんを見ながら、そういや、あいつ──アシュリーも、似たようなことをしていたと思い出す。いちいちボウルに切ったじゃがいも突っ込んでは、すぐ自ら上げて煮たり焼いたりしてたっけか。洗い物が増えるから止めろと常々思っていたが、一応意味のある行為だったらしい。 「お肉を刻んだら、お鍋にオリーブオイルを少し入れて温めて」 「あ、ああオリーブオイルってこれ?」 「そうよ。ああ、火は強め過ぎないで、じっくり焼き色がつくまで炒めてね」 「お──おお」 「焦らないで。ゆっくりでいいのよ」 おばさんはニコニコと楽しそうに俺に指示を出す。料理なんて魔法薬みてえなもんだろって思ってたけど、結構大変だな。教科書はなく、おばさんの指示でしか動けない。何分間、何回かき混ぜればいいのかも分からない。オリーブオイルもどれくらい入れればいいのかさえ、俺には見当もつかない。 おばさんの指示を仰ぎながら、何とか肉を炒め始める。焦げ付かないように混ぜながらきつね色になるまでじっくりと炒めて、何故か肉を皿に盛り付けた。鍋には肉から出た大量の油が残ってる。 「その油で玉ねぎ、にんじんを順番に炒めてちょうだい」 「肉と一緒に炒めたらだめなのか?」 「お肉は一度油や水分を取った方が美味しくできるのよ」 「……料理ってめんどくせえなぁ」 「そうでもないわ。味さえ考えなければ、火を通すだけで終わりだもの」 ふふ、とおばさんは堪え切れなくなったように笑みを零す。味、味、ねえ。そりゃ、不味いより美味い方がいいに決まってる。だからって、毎日三食こんなめんどくせえことやってられねえよ。 「おばさん、すげーな。毎日こんなことしてんの?」 「魔法があれば少しは楽できるけどねえ。でも、ひと手間ひと手間加えたりすると、魔法があってもちょっと大変よ」 「俺、こんな風に料理できる気しねえわ……」 「ふふ、私だって自分だけが食べるなら、こんな手間暇かけたりしないわよ」 「どういうことだ?」 野菜を炒める手を止めて、おばさんを見つめる。おばさんはこっちがびっくりするぐらい柔らかな笑みを浮かべたまま、切ったじゃがいもを茹でている。 「あら、簡単な話よ。あなたたちに少しでも美味しいものを食べて欲しい。だから面倒くさくても頑張っちゃうの」 「……俺らの、ため?」 「そうよ、当然でしょう」 がん、と頭を殴られたような衝撃。理由は、分からない。動揺する、意味がない。なのに、おばさんの言ってることが、上手く呑み込めない。いや、分かる。理解はできるはずなんだ。おばさんが家族を愛してて、そこに俺も含まれてて、美味い料理を食って欲しいと願う気持ちは、頭では理解できる。屋敷しもべ妖精たちのそれとは違う、本当の『思いやり』だとか、『愛情』だとか、そういった類の感情から生まれる。それは分かってる。 だが、それが本当だったら、あいつの 「……おばさんは、嫌いな奴に料理出すとしたら、どうする?」 「やあねえ、嫌いな人に出す料理なんかに、ひと手間加えたりするものですか。キャベツ一個出せば十分──なんてね、冗談よおシリウス」 おばさんは冗談とは思えない真剣な顔でそんなことを宣って、ほほほと楽しげに笑った。そりゃ、そうだろうな。俺だって、スネイプに飯を食わせろって言われりゃそうする。食える物用意してるだけマシだ。 けど──だとしたら、あいつは? 「ねえ、シリウス」 おばさんは手を洗いながら、穏やかな声で俺の名前を呼ぶ。初めておばさんに名前を呼ばれた時は、ひどく驚いたのを今でも覚えてる。男とは比べ物にならない、女特有の高い声が俺の名前をこんなに柔らかく呼ぶことがあるんだな、と。 「この夏、マーケットで買ったものばかり食べてた、なんて嘘でしょう?」 「え──」 「だってあなた、こんなにも肌艶が良くて、髪も爪も綺麗で、とっても元気そうなんだもの。栄養のある食べ物を、バランスよく食べていたとしか思えないわ」 料理をするからと、結んだ俺の髪を掬いあげるおばさんに、何も返せずにいた。まさかこんなバレ方をするとは思ってもみなかったので、なんと言い訳すればいいのか思い浮かばなかったのだ。これがフィルチ相手なら何とだって言えるはずなのに、ジェームズのおばさんを前にすると、俺は貝のように口を閉ざしてしまった。 そんなおばさんは、俺を安心させるようにぽんと肩を叩いた。 「大丈夫、ジェームズたちには言ってないわ。ああ、当然だけど、スクランブルエッグさえ作ったことのないあの子が気付いているとは、思えないわね」 「……」 「よっぽど、その人のことが大事なのね」 「違う。……言えない事情が、あるだけで」 言えない、例えそこまで勘付かれてたとしても。素性を聞かれたらおしまいだ。だから俺にできるのは黙るぐらい。隠し事してますって言ってるようなもんなのに、誤魔化すことさえできない。ふいに、校長室で沈鬱な表情で黙りこくったあいつの顔が過る。あいつも、あの時こんな気分だったのかもしれない。 「あら、そう? その人はきっと、あなたのことをとても大切に思ってるのわよ」 ぐ、と肩が強張る。まさに俺が危惧したことを、おばさんは何でもないように告げる。そんなわけない。「そんなわけ、ない」、言葉だけは紡げる。だけど、嫌な想像だけは振り払えない。そんな俺に追い打ちをかけるように、おばさんはクスクスと楽しげに笑う。 「どうして? あなたの為に毎日栄養たっぷりのお料理を用意してくれる人なのでしょう? そんなの、『愛情』がなければできないわ」 「愛情──なんて、あいつには」 「シリウス、そんな意地悪なこと言わないであげて」 おばさんは少しだけ眉を下げる。そんな悲しい顔、させる気なんかないのに。よりにもよって、あんなやつの、ために。 「シリウス、あなたは今お料理がとっても大変だって分かったでしょう?」 「……ああ」 「それを、嫌いな人の為に毎日毎食、用意できて?」 「……できない」 「賢い子。あなたはもう分かってるはずよ、認めたくないだけ」 「……それ、は」 認めたくない、だけ。俺が、あいつを。あいつが、俺に対して、なに、なんだ。どんな感情があるっていうんだ。あんな冷たい目をした、嘘ばかりで身を固めて、嫌味で、無口で、傲慢で。 ──なのに毎日、あんなに美味い飯を作る奴。 「毎日、見たこともないブレッドを焼くんだ、あいつ」 「まあすごい。魔女でも面倒で嫌になっちゃうわ」 「よく分かんねえ国の料理ばっかり作るし」 「美食家なのね、その人」 「山ほど洗い物出すし、片付けんのは俺だし」 「それくらい、たくさんの手間がかかっているのね」 「だけど」 「シリウス」 おばさんが俺の手を取る。少しかさついてるけど、温かい手。あの冷たい家には絶対になかったもの。 「嘘を吐くことは、決して悪いことではないのよ」 「……」 「でもね、自分の心に嘘を吐くのは、とっても辛いことだわ」 「……」 「シリウス、ちゃんと受け止めて。そして、向き合ってあげてね」 「……?」 おばさんの言葉が理解できずに首を傾げるが、おばさんはそれ以上何も言わない。茹でられたじゃがいもと、中途半端に炒められた野菜を見ながら、過るのはあいつの──アシュリーの、顔。 あいつを、受け止める。向き合う。それは何故だ。そりゃあ、別に、あいつは嫌な奴だけど、怒りや憎しみといった感情はない。ただの嫌な奴、気に食わない。フィルチやスニベルスとは、違う。じゃなきゃ一緒に寝泊まりなんかできねえ。だから許すも何もない。はずなのに。なんでおばさんの一言が引っかかるのか、分からない。落ち着かない。 ただ無性に、リンデンガーデンの白い家に帰りたくなった。 「……俺、」 「なあに?」 「俺、帰らなきゃ」 「ええ、そうしなさい」 「ごめん、俺、急に」 「いいの。あなたはあなたの、帰りを待つ人のところへ」 だから後は任せなさい、とおばさんは笑顔で親指を立てる。何でこんなこと言ってるのか、自分でも分からない。だけど、こんな状態で、ジェームズたちと飯は食えない。そう思った。だから俺は身一つでキッチンを飛び出して、リビングへ向かう。夏場だというのに暖炉は火で燃え盛っており、俺は備え付けの壺から《煙突飛行粉》を一掴みして炎に投げ入れる。ぼう、と火が渦巻いてオレンジからエメラルドグリーンに変色するのを確認して暖炉に踏み入れる。 「『漏れ鍋』!」 そう叫び、燃え盛る緑の炎に包まれて視界を閉ざす。びゅんびゅんという耳鳴りを経て、見慣れた漏れ鍋の暖炉から這い出る。店は人が少ない。ブラッディ・マリーを注文してる《吸血鬼》のカップルの横を通り過ぎ、店を飛び出す。ただただ道を走り、走り、走り抜ける。サブウェイに飛び乗って、ノッティング・ヒル・ゲート駅で降りてまた走る。ギリギリ日も暮れていないおかげで、変な奴に絡まれずにリンデンガーデンへ戻る。 何をしてるのか分からない。なんでこんなに必死に走ってるのかも。息を切らして、階段上って、昨日施錠したドアを開けて、俺は一体何してんだよ。けど、あんな話を聞いてしまって、居ても立ってもいられなくなった。一か月、三食あいつの飯を食ってきた。美味かった。何一つ不味い飯なんかなかった。俺のことをあんな冷たい目でねめつけるようなお前が、何で。 「──え、あれ、」 部屋に入ると、あいつはいつものようにエプロンして、キッチンに立っていた。ケチャップと卵の、香ばしくて少し甘い匂いが部屋中に満ちている。いつものように淡々とした表情だが、少しばかり驚いた顔をしてる。 「もっと、遅くなるのかと」 「……こっちだって、そのつもり、だった」 「ふうん」 「……」 「……」 ポッター家での団欒が嘘のように、俺たちの間には沈黙が横たわる。俺を見るこいつの目は怪訝そうで、おばさんの言う『愛情』の欠片も見当たらない。それが分かって、ほっとした。やっぱ、おばさんの勘違いだったと。安堵した自分に、ようやく気付く。俺はそれを、確かめたかったんだと。おばさんがあんまりにも馬鹿馬鹿しいことを言って、馬鹿馬鹿しくも俺がそれをまともに信じてしまって、焦ったんだ。 ああよかった、なんて長々とため息を吐くと途端に、ぐう、と腹の虫が大声を上げる。しまった、そういや昼から何も食ってねえんだった。沈黙を妨げるその音に、アシュリーの黒い目が静かに細められた。 「夕食、まだなんだ」 「……あ、あ」 「分かった、準備する」 「いや、別に──」 「いいよ。二人分作っちゃったから」 そう言って、アシュリーはてきぱきと食事の準備を進める。フライパンに溶き卵を敷き、その上にケチャップで炒めたライスを乗せて少し丸める。そうしてフライパンよりも大きな皿を被せてフライパンごと引っくり返す。そうしてフライパンを退けると、薄焼き卵を被った楕円形の食べ物が大皿に鎮座している。 「……なんだ、これ」 「鶏肉や人参、ピーマンとライスを炒めて薄焼き卵で包んだもの」 「……オムレット?」 「みたいなもの」 そう言いながら全く同じものをもう一つ用意する。二人分作った、という言葉は本当だったらしい。アシュリー・グレンジャーはいつも通りに二人分のスープとサラダを用意し、いつものようにテーブルは華やかなメニューが並ぶ。 『──あなたはあなたの、帰りを待つ人のところへ』 おばさんの声が、リフレインする。今日、何時に帰るなんて告げてすらいなかったのに、なんでこいつは二人分の飯作ってたんだ。まさか──でも、本当に──? 「(本当に、こいつは──)」 確かに、アシュリー・グレンジャーはシリウス・ブラックと親しい、或いは近しい関係になるのは、初対面のこいつの態度を見れば分かる。子どもみたいにギャンギャン騒いでいたあの瞬間こそが、こいつの『素』なのだ。今みたいな鉄仮面が嘘のように、声を荒げ、恥じらい、悲しみ、傷ついた。だからこいつにとって俺は、その程度には心を許した存在だったということだ。 けど、こいつは十六歳のシリウス・ブラックには見向きもしない。寧ろ拒絶するような態度だ。まあそれは俺だけではない、ダンブルドアにも、フラメルにも同様なのだが。こいつは過去を見て見ぬふりを貫く。自らの秘密を、これ以上零さぬように必死で。それが分かってるから俺だって無理にこいつに近付こうとは思わなかった。ダンブルドアの宿題があろうとも、観察だけで済むならこんないけ好かない態度の女に関わらずに済むならそれでいい、と。なのに。 『そんなの、『愛情』がなければできないわ』 なのにあいつには、あるっていうのかよ。あんな冷たい目の奥に、そんなものが。ジェームズがエヴァンズに向けるような熱情が、或いはおばさんが俺たちに向けるような慈愛が。だめだ、分からなくなる。おばさんの言うことが全て間違ってるとは思わない。だけど、それをアシュリーに当てはめた瞬間に点と点の間を結んでいた線がぷっつりと途切れる。考えれば考えるだけ、線はどんどんこんがらがっていき。 「……食べないの?」 テーブルの傍で立ち尽くす俺に、アシュリーはなおのこと怪訝そうな目を向ける。だめだ、考えられない。きっと腹減ってるからだ。そうに違いない。そう考えた俺は黙って席に着く。さっさと食っちまおうとスプーンに手を伸ばすと、ライス入りオムレットにアシュリーはケチャップで絵を描き始めた。 「……何してんだ、それ」 「──え、あ」 妙にくちばしの長い謎の動物を描くアシュリーは、俺の指摘に初めて我に返ったかのように言葉を詰まらせた。そしてきゅっと唇を真一文字に結ぶと、ずいっとケチャップボトルを差し出してきた。 「こ、こういう絵を書いて食べるもの、だからっ……」 なんだそりゃ。聞いたこともないマナーに、俺は眉根を顰める。飯に絵を描いて何になるのか。アジア独特の文化なのか。理解できない俺に説明するつもりはさらさらないのか、アシュリーは描いた絵をすぐにスプーンの裏で塗りつぶして食い始める。全く以て意味が分からない行為だった。 ……仕方ないので、俺もまたケチャップボトルを手に取る。ただ、突然描けと言われても難しい。キャンパスも小さいし、絵具はケチャップオンリーで、やり直しもきかない。凝った絵は描けないだろう、俺はそう判断して身近な動物を描く。 「……うさぎ?」 「犬だよッ!!」 どっからどう見ても立派なシェパードだろうが!! だが、正面に座るアシュリーは首を傾げるだけ。全く、いちいち癪に障る奴だと、俺は渾身の力作をスプーン裏で潰し、ライス入りオムレットをぱくりと口にする。……いちいち腹立つやつなのに、なんで飯に限ってはいちいち美味いんだよ。 『──賢い子。あなたはもう分かってるはずよ、認めたくないだけ』 違う、脳内で囁くおばさんの声を振り払いながら、俺は黙々と飯を食う。全く、今日も美味えなあ、クソ! |