12.5

その日の朝も、バターが焦げる香ばしい匂いが俺を目覚めさせた。

あいつの作る朝食は何食っても──素直に認めるのは悔しいが──美味い。最近じゃブレッドまでもを自分で焼き出すのだから、言葉もない。外に出れない以上、勉強か料理ぐらいしかやることがないとはいえ、相当暇を持て余しているのだろう。買う方が手っ取り早いはずだが、焼き立てのブレッドは文句なしに美味い。食わせてもらってる俺に文句をつける権利はないので黙って食す日々なのだが。

ただ、あいつの作るブレッドはスイーツと言っていいほどに甘ったるい。いやまあ、俺でも食えるレベルなので文句はねえが。最初の方はホワイトブレッドやらハードブレッドぐらいだったのに、最近じゃ凝りに凝りまくってベーグル、シナモンロール、フォカッチャぐらいなら分かったが、見たこともないようなブレッドを作り出すのだ。こいつが作る料理が謎めいているのは今に始まったことではないが、ブレッドさえ住む国によってこうも違うのかと愕然とした。



「(こいつ、どんだけ名のある料理人だったんだ……?)」



ある時はクリームやフルーツの乗ったサクサクしたパイのようなブレッドが出された。スイーツではなく朝飯だと言い張るあいつに根負けして食ったらすげえ美味かったので、今後一切料理に関しては文句を言わないことを誓った。ある時はカットレットのような挙げたブレッドを出された。中身は様々で、牛肉や玉ねぎや人参などの野菜の炒め物だった時もあれば、昨晩食ったカレーが出てきたこともあった。余りものをこんな風にアレンジしちまうなんて、どれだけ名のある料理人だったんだ、こいつ。中にはスイーツのようなブレッドもあり、中でもクッキー生地が張り付いた格子模様のブレッドは俺のお気に入りだった。一見メロンの表皮によく似ており、実際メロンのような香りはするのだが、味は別にメロンではない。そのちぐはぐさが面白く、また作らないものかと期待した。だが、今日は違うだろう。あのブレッドはこんな香りはしなかった。

ベッドから降りて、適当に着替えてからリビングに向かう──流石に赤の他人がいる部屋の中を、全裸でうろつけるほど俺も恥は捨てていない──。ドアを開けただけで、バターの洪水にでも襲われたかのような匂いが俺の寝室にも雪崩れ込んでくる。当の作り手はこちらに見向きもせず、せっせとプレートにソーセージだのベイクドビーンズだのを盛り付けている。俺はキッチンを素通りしてシャワーへ向かう。さっと熱湯を浴びれば一気に目が覚める。もっかい着替えて、タオルで頭を拭きながらリビングに戻る。あいつは紅茶を淹れていた。ミルクティーが入ったカップからは、ほんのりとレモンの香りがする。



「……」

「……」



俺は黙ったまま席につき、女は特に何も言わないままオーブンから鉄板を引っ張り出す。俺たちの間に朝の挨拶なんて礼節は存在しない。そんなものなくても世は事足りるとばかりに必要最低限の会話しかしない俺たちだ。挨拶は『必要最低限』の中には含まれていない。

程なくして朝食が乗ったプレートが運ばれてくる。悔しいが今日も美味そうだ。特にこのつやっつやのクロワッサンは匂いだけで空きっ腹を刺激される。あいつが席につくより先に俺はそのクロワッサンを手に取り口の中に押し込んだ。その時だった。

テーブルのすぐ横に、アルバス・ダンブルドアが出現したのは。



「お食事中だったかの?」

「見ての通りですが!?」



俺は驚きのあまりクロワッサンを喉に詰まらせ、自分の胸をどかどかと叩く羽目になった。煙のように消えては現れることでお馴染みのダンブルドアだが、人んちまでこれとは恐れ入る。しっかし、今日のダンブルドアは一段と奇妙だ。いつもの白いローブが嘘のようなド派手な格好をしていた。ショッキングのスーツにネクタイ、ピカピカの革靴なんてのを履いている。今すぐファッション・ショーにエントリーせんばかりの格好だ。まあ、首から上はいつものダンブルドアだし、何の冗談だって感じだが。

アシュリーも信じられないものを見るような目つきでダンブルドアの頭からつま先までを見つめていた。急な来客にあたふたしながら、女はダンブルドアに紅茶を用意する。カップあったかな、と呟きながら席を立つ奴を横目に、俺は浮足立ちながらダンブルドアに顔を寄せる。こう見えて世界最高峰の魔法使いだ。暇だったから、なんて理由では此処には来るまい。



「なあ、なあ。何かあったのか? しかもその恰好で!」

「肖像画たちに大層好評でのう」

「そりゃあ──まあ、そうだな。その姿見りゃ、アラン爺だって絶賛するさ」

「褒めてもグリフィンドールには加点はできぬよ、シリウス」



ダンブルドアは嬉しそうに微笑む。そういや、アラン・マスグレイヴにもしばらく足を運んでないな。まあ、この先俺の人生であの爺さんの世話になるようなことはないか、と独り言つ。そうこうしている間にアシュリーは温めたカップを持ちより、ミルクティーを注いでダンブルドアに差し出す。紅茶を飲んだダンブルドアはより一層機嫌の良さそうに微笑んだ。



「これは美味しい」

「ど、どうも……」

「シリウスが羨ましいほどじゃ」

「俺はいつでも代わってほしいもんだがな」



ハッ、と鼻で笑えば、同感だとばかりに女は静かに頷く。いちいち癪に障る態度だ。この、余裕に満ち満ちたすまし顔が憎たらしい。ダンブルドアの手前、内心で噛み付く俺を無視して何の用かと女は問う。



「君の学用品を調達じゃ。君とわし、二人で出かけようと思うてな」

「い──今からですかね?」

「左様」

「急すぎますよ……」

「スケジュールに空きを作るのも一苦労での」

「……準備します。お待ちください」



仕方ない、と女はさっさと朝食をかき込むと立ち上がってキッチンに飛び込んだ。そういえば、昨日、自分の時代とは教科の進み具合が違うとか言ってたもんな。そもそもホグワーツに通うのに杖もローブもないんじゃ生徒として浮きすぎる。買い物に行こうにも、こいつは一人で出歩けないからダンブルドアが付き添いでやってきた、というわけか。

がさがさと、冷蔵庫を漁る音が遠くから聞こえてくる中で、俺は黙々とベーコンを咀嚼する。ベーコンの焼き方一つとっても、ホグワーツで作られたものと、ジェームズのおばさんが作ったものと、あいつが作ったもので異なるのだから料理ってのは魔法薬以上に不思議だ。同じ材料の筈なのに、一体何が違うというのか。焼き目の付いたソーセージにフォークを突き刺しながらそんなことを考えていた時だった。ダンブルドアがこんなことを言ったのは。



「アシュリーとはうまくやっているようじゃな」

「どこが?」



思わず無礼極まりない態度で返してしまった。重ねて言うが、どこが、である。ダンブルドアの指示通りに上手くやれてるなら、俺は今頃あいつと肩組んで歌でも歌いながらメシ食ってる。この爺さんはその眼鏡を通して世界がどう見えてるのか。呆れて物も言えない俺を前にして、ダンブルドアは湖畔のような微笑みを湛えたまま。



「わしは君が思っている以上に、君のことを知っておるよ」



──ぞっとした。柔らかな言葉の中に潜む、刃のような鋭さに。

俺は何も言えないまま、曖昧に頷いた。ダンブルドアがそう言うと、本当に何でもかんでも知ってるんじゃないかって気がしてくる。俺たちの夜の『お散歩』も、仕掛けてきた悪戯の全ても、全部全部。そんなわけないのに、と冷静な俺が自嘲する。

そうだ、そんなわけない。ダンブルドアだって人間だ。生徒の一人一人を全て知りえているわけない。いくら寛大なダンブルドアだって法に触れるような真似をしていると分かればそれなりの措置を取るはずだ。そんなこといくらでもやってきた俺たちだけど、とりわけ一番ヤバいのは夜のお散歩だ。俺たちが夜な夜な何に変化しているのか、誰かに知られたら退学程度じゃすまされない。未登録の《動物もどき》は立派な犯罪だ。バレたらアズカバン行きだってありえると、ピーターが震え上がっていた。だからそう、全てを知っている筈はないのだ。こんなの、ハッタリでしかないはずだ。

するとアシュリーが慌ただしく戻ってきた。



「冷蔵庫にビーフシチューとツォップ入ってるから、好きに食べて」

「あ、ああ」



こんな時まで飯の心配とは、つくづく料理人らしい。そんなことを考えながら最後のクロワッサンを手に取って口に放り込む。少しだけ焦げたバターの芳醇な香りが口いっぱいに広がる。クロワッサンの旨味を噛み締めていると、紅茶を飲み終えたダンブルドアがスーツのポケットから小瓶を取り出してそれを一気に飲み干した。

それが何だったのか、その変化を見れば明白だった。白い髪の毛はどんどん鳶色に変色し、背筋が伸び、皺が無くなる。若返ったダンブルドアは、四十代かそこらだろう。珍しいもん見れたな、と俺も女も目を丸くしている。



「普段の姿では、些かばかり注目を集めてしまうでな」



まあ、魔法界にいる連中でダンブルドアの顔を知らないで過ごすなんてできない。お忍びでの買い物に行くのも一苦労、ってわけか。まあ、お忍びにしては随分ド派手な格好だ。若返ったおかげでさっきまでのちぐはぐ感はなくなったので、まだましかもしれないが。

俺はアシュリーの分の食器を重ねて立ち上がる。皿洗いもまた俺の仕事だ。あいつの料理は美味しいのだが、唯一文句をつけるとしたら洗い物が多すぎるという点か。今日は比較的マシだが、揚げ物なんかされた日にはシンクは山のように洗い物が俺を待ち受ける。それも、嫌がらせかと思うほどに。だが、その対価としてあれだけの食事を用意するのだから、俺は何も言えない。飯は美味いに越したことはないわけだし。そうして二人、姿をくらませるのを黙って見送って食器洗いに専念する。今日は天気がいいし、さっさと洗濯を済ませちまいたい。あとはベッドシーツも変えるか。洗面台もそろそろ掃除しねえとな。こういう時、魔法が使えないのは不便だ。マグルってよくこんなめんどくせーこと手作業でできるよな……。





***





洗濯干した、掃除もした、シーツも変えたし洗面台も掃除した。ヨシ!

家事が片付く頃には昼間になっていた。いつものことだ。あいつが朝食を作り、俺は片付ける。あいつが昼食を作り、俺は掃除洗濯をする。そういうサイクルだ。そんで昼食を片付けたら二人してお勉強タイムの始まりだ。そうして夕食時になるまでリビングで二人、何を語らう訳でもなく、時計の針が進む音と、紙が擦れ、羽根ペンが羊皮紙を走る音だけが二人の間に流れる会話だ。だが、今日は俺一人だ。昨日の夕食の残りの三つ編みのブレッドとビーフシチューを胃に収めて、今日は何から手を付けるかと、本棚に乱雑に押し込まれている文献の山を見渡す。



「はーあ」



あいつがいるとどうにも張り詰めたような空気になるが、一人となるとどうにも気が緩む。あいつの『どうしても帰りたい』という情熱にでも感化されているのだろうか。サボろうとか、昼寝しようとか、別のことしようとか──尤も、俺に趣味なんてものは無いのだが──、そういう邪念がこれっぽっちも浮かばないのだ。ま、あいつにしてみりゃ死活問題だしな、必死で文献を読み漁るあいつの横でグースカ昼寝するのは気が引けると感じる程度には、俺にも優しさってものが備わっているのかもしれない。

しっかし、今日はホント駄目だ。古ラテン語で書かれた本をぱらぱらと捲るも、少しも頭に入ってこない。いいか、今日ぐらいはサボッちまって。俺はソファにごろりと寝転び、ぐっと伸びをする。流石に俺の身長では足がはみ出すが、ベッドまで戻るのもめんどくせえ。日差しは穏やかで、昼寝日和だ。誰に咎められるわけでもないんだし、別にいいか。どうせあいつは楽しくダイアゴン横丁に出かけてるんだし。

どこにも行けないなら、せめて昼寝でも──。



どこにも[・・・・]行けない[・・・・]?」



脳みそに電流が走ったような感覚だ。がばりとソファから飛び起きる。

微睡むような眠気も吹っ飛んだ。どこにも行けない、なんてことあるか。俺がこの家に閉じこもっていたのは、あいつを間接的に監視するためだ。俺が未成年であることを逆手に取り、俺そのものがあいつの檻になる。もしあいつの身に何か起こったり、或いはダンブルドアたちの敵対者だったとしても、魔法を使えば一発でバレて魔法省が飛んでくるからだ。だから俺はあいつの傍に居る必要があった。でも、今は。あいつは、いない。だったら、俺は。



「行けるんだ、どこにでも」



口に出して、ぶるりと震えた。何故かは分からない。本心からそうしたかったかも、今となっては。

だが、その時はどうかしてたんだってぐらい興奮してた。俺は此処に越してきてから一度も外出をしていない。一度だって、だ。せっかくトンクス夫妻が選んでくれたこの街のことを、俺は何一つ知らない。そう考えると、あの鉄の扉の先は酷く魅力的な世界に見えた。なんたってマグルの街だ。魔法なんてものはない。そりゃ、魔法界はマグル達の世界のほんの一部だ。ジェームズたちと歩き回ったことはあるけど、いつも誰かがいた。今日は一人だ。好きな時に好きなところに行ける。

ポケットに押し込んだものは、さほど多くない。部屋の鍵と、テッドが換金してくれたマグルの紙幣をいくつか、それから自分の杖。ドクドクと、全身の血が迸ってるのが分かる。俺、一人で、マグルの街を歩くんだ。そうだ、俺はもうあの屋敷にいる俺じゃない。そりゃあ、変なお荷物は抱えちまってるけど、今は違う。俺はもう、家を出るために窓から脱走する必要はない。家人が寝静まった夜にひっそりと出ていく必要はない。母親の怒鳴り声を背負いながら出ていく必要は、ない。

俺はもう、あの家を捨てたんだ。



「──っと、いけね」



そこで俺は大事なことを思い出し、くるりとリビングに戻る。羊皮紙を適当に千切って、さっとメモを残す。『散歩に行ってくる』。……こんなもんでいいだろ。浮かれすぎてはいけない。俺は檻だ。俺が家にいないことで、いらぬトラブルは呼び込みたくない。ダイアゴン横丁での買い物、どうせ杖も買うはずだ。早けりゃトータルで二時間程度で済むだろうが、杖選びに時間がかかる場合もあるしな。まあ、俺だって何時間もふらふらする予定はないが。

これでいい。俺は意を決して、何週間ぶりとなるドアノブに手をかけたのだった。


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