11.5

それからしばらく日が経った。相変わらず、変わったことは起こらない。

あいつは飯を作って、俺は掃除や洗濯をする。暇な時間は全て文献漁りや時間旅行の為の勉強に充てた。OWLやNEWTの受験並みに本と文字を追う日々だったが、特別苦には思わなかった。俺はあいつに負けじと、何百年も前の研究を紐解き、手に取れば崩れそうなほどボロボロな羊皮紙に目を通す。何だかんだ、誰も知らないことを知る、誰も辿り着いたことのない魔術に手を伸ばす行為は、ジェームズたちにも会えず、外に出かけることもできない俺にとっては、いい暇つぶしになった。



「(次は──『沈思黙考のバーランド』でも読み漁るか)」



元々、読書は嫌いじゃない。幼い頃から、大人でも眠くなるような本を屋敷の奥から引っ張り出してくるのが日課だった。そうしていれば、少なくとも俺はあの屋敷で一人でいられた。読書の邪魔はしてはいけないわよね、と、口煩い親戚たちは俺が読書している間だけは近寄らなかった。そうしなければ、本の内容を質問攻めにされると、奴らはすぐに理解したからだ。古ラテン語やらギリシャ語で書かれたそれらは、血の守りに固執するだけの低俗な連中には、ちょいとばかし難しい話だったようだ。ホグワーツにも足を踏み入れていない子どもに、知識で負けることを恥だと思う程度には、連中にもまともなプライドがあったらしい。だから読書の習慣が増え、必然的に読書に対する抵抗はなくなった。そうすれば俺は一人でいられた。そうすれば俺の周りから雑音が消えた。そうすれば俺は、純血がどうだの、マグル生まれがどうだの、どこそこの家との婚姻がどうだの、そんな下らねえ話題に耳を貸さずに済んだのだ。

自由に遊びに行くこともできず、会う人間は尽くロクでもない。何となく、今の状況と似ている気がした。何のための家出だったのかと後悔をしなかったわけじゃないが、少なくとも目の前で気難しい顔で石碑の写しを睨む女は、純血がどうとか、血筋がどうとか言わない。俺の生活にギャーギャー喧しく口を挟むことはないし、俺がどんな奴とつるんでたって何も言わない。……少しの逡巡の後、今の方がマシと判断した俺は、今度はアルバート・マクファーレン著書の『空間と時空』を読み進めていく。しばらくすると休憩にと、目の前の女が煙草を吸いにテラスへ向かう。毎日毎日飽きもせず、何が面白くてあんな煙たい物を吸い込もうというのか、理解できない。だが少なくとも、あいつにとって喫煙はいい気分転換でもあるのだろう。一日数回、テラスへ向かうのがもはや習慣と化していた。そんな後ろ姿を見て、ふと思う。

俺、屋敷にいた頃、読書以外何して過ごしてたんだっけ。



「(……マジか)」



ホムンクルスであるアシュリー・グレンジャーだって、喫煙だの料理だのという行為に楽しみを見出しているのに、俺には趣味と呼べるような習慣がない事に気付いた。その瞬間、ショックにも似た衝撃が、洪水のようにどどおっと押し寄せる。趣味、趣味嗜好。いや、確かに読書は嫌いじゃない。暇を潰すにはもってこいだ。だがそれを趣味と呼べるほど、俺は本の虫じゃない。暇なら読む、だが他にやることがあるなら読書という選択はしない。その程度の、存在。

冷静に、自分の行動を振り返る。ホグワーツにいる時は、大抵悪戯の計画や、計画の実行に必要な備品の発明のことばかり考えていた──《動物もどき》や忍びの地図の完成の為に、俺たちは輝かしき五年の歳月をまるまる捧げることになったわけだし──。悪戯、悪戯ねえ。今やれってか。無理だろ。どうあがいても魔法が必要になるし、第一、一人で悪戯だのサプライズだのは馬鹿馬鹿しい。誰に仕掛けるんだ。あいつにか。まあ、反応が見たくないと言えば嘘になるが、あの仮面のような無表情で『で?』と一蹴される未来が目に見える。

そもそも趣味ってなんだ。周りの奴らは何を趣味にしていたか。ジェームズは言わずもがな、クィディッチだ。エヴァンズとどっちが大事か聞けば、小一時間悩むレベルのクィディッチ狂だ。リーマスは……魔法生物が好きだ。金銭的事情でペットは飼えないようで、よくふくろう小屋に顔出しているのを見かけるし、魔法生物飼育学の後、あのイカれたケトルバーンと個人的に話し込んでるところを何度も見たことがある。ピーターの趣味はガーデニングだ。物言わぬ植物たちが、手をかけた分すくすくと成長する姿に楽しみを見出しているらしい。あと周りの奴と言えば……アルファード。あいつは音楽が好きだ。マグルだろうが魔法使いだろうが、『良いものは良い』と片っ端からレコードを買い漁っている。自分で弾くのも好きだった。俺にピアノを教えようとして、母親に『自分の手で弾くなど、低俗なマグルの真似事は止めなさい!』とかなんとか言われたっけ。あとは……エリックは──よく知らね。恋人との逢瀬、とか答えそうだな。うへえ、悪趣味。

スポーツか……運動は嫌いじゃねえけど、クィディッチは肌に合わなかった。ああいうチームプレイは、どうも性に合わない。魔法生物ねえ……別に嫌いってわけでもねえけど、ハグリッドみたいにイカれるほど好ましいとも感じたことはない。ガーデニング。正直何が面白いのか分からねえ。音楽も別に……好き嫌いを判別できるほど聞いても弾いてもない。恋人と遊ぶ。別に。面白くはなかった。以上。



「(嘘だろ、俺……!)」



他にも、一般的に趣味と呼ばれるものを脳裏に浮かべる。料理──あいつがキッチンを占拠している以上、難しいだろう──、写真──どこにも行けねえのに何を撮れって言うんだ──、旅行──今は絶対無理──、手芸──無理だ、三秒で飽きる自信がある──。

色々と連ねても、ピンとくるような好ましい物事が見当たらない。それを自覚した途端、自分が途轍もなくつまらない人間のように思えた。人の形しているだけのあの女の方が、よっぽど人間らしいじゃねえか。なんでだ、なんでだよ。もうあの家を出たんだ。俺は何したっていいんだ。誰にも咎められない。誰にも口を出されない。なのに何故、俺の興味は何にも向かないのか。やっと自由になったのに、どうして俺は自由気ままに振る舞おうとしないのか。



「……」



ちらりと、此方に背を向けて煙を吹かす女の後頭部を見て、すぐに視線を逸らす。未来の俺がどうとか聞くつもりはさらさらない。けれど、一瞬でも俺はあいつに訪ねたくなったのだ。趣味とは、何かに打ち込むほどの情熱とは何か、と。馬鹿馬鹿しい。そんなこと聞いて、あいつがロクな回答を寄越すとは思えない。あの冷たい目を一層細めて、鼻で笑うに違いない。容易に想像できる。くそ、想像の中でまで腹立たしい奴だ。

だが、かといってジェームズたちにこんなことを聞くのも憚られた。自分でも子どもじみた下らねえ悩みだと分かってるのに。今更そんな、聞けるかよ。あいつら相手なら尚更だ。却下だ却下。しかしそうなってくると、ますます相談先なんて絞られてくる。あいつら以外に特別親しい間柄の友人はいない──俺の交友関係は深く狭く派だ──。エリック……は、別段親しいわけでもない。と、指折りで数えていって、結局残るのはあいつだけだ。



「(アルファードに、手紙でも書くか)」



アルファード・ブラック。数少ない、あの家でまともな人種。いや、あいつをドロメダと同じカテゴリに入れるのは、彼女に失礼すぎる。確かに純血思想はないし、マグルだろうが魔法使いだろうが隔てない言動は、俺にしてみれば『まとも』と言わざるを得ないのだが……。

まあいい、貴重な夏休みは刻一刻とすり減っていっている。俺は羽根ペンをとってローテーブルに山のように積まれた羊皮紙やら石碑やらをかき分けて、白紙のメモを引っ張り出す。あいつは良くも悪くも深入りはしてこない。用件だけ書いてふくろうを飛ばそう。そう思ってインク瓶を手に取った。その時、積み重ねられた本が肘に当たり、ばさばさっ、と数冊ほど床に散った。特に何を考えるでもなく、その本を拾って元の位置に戻そうとした時、本の間から滑り落ちた羊皮紙の束に俺の思考がぴたりと止まった。



「これは──」



よほど急いで書いたのだろう。ほっそりとした、さっとペンを滑らせたような文字がびっしりと並んでいる。これはあいつの──アシュリー・グレンジャーの字だ。あいつは繊細そうな顔に似合わず、冗談でも綺麗で整っているとは言い難く、自分が読めればいい、といった文字を書く。だが問題はそこじゃない。文字の内容だ。思わずその羊皮紙が落ちた本の表紙を見る。

──古代ルーン語で描かれている。



「“常時”……“流入”……“いくつか”……? ティール、エオー、マン、ペオース、ウル、シゲルだから──『tempus』か。確か──」

「──『時は常に一定の方向に流れる』」



静かな声に、はっと振り返る。そこにはいつにも増して煙臭い女が居た。怪訝そうな顔で、俺と俺の持つ本の表紙を見つめている。だが、驚いたなんてもんじゃない。



「お、お前。読める[・・・]のか」

「……錬金術受講してるんだから、読めて当然でしょ」



いちいち言い方が腹立つんだよ、コイツ!

呆れたように言って、女は俺の手から本と羊皮紙を取り上げた。だが、苛立ちと同じぐらいの驚きがあったことは、認めざるを得なかった。確かに、こいつの言う通り、古代ルーン文字学は錬金術に必要な単位の一つだ。錬金術を受けている以上、こいつも一定以上の成績を修めたに違いない。しかし。しかしだ。そりゃ表紙ぐらいなら俺だって読める。だが、あの羊皮紙にはびっしりと古代ルーン文字の訳が書かれていた。たかだか数行ならまだしも、あの量は恐らく、一冊全てを訳し切っている。それが信じられなかった。古代ルーン文字だぞ。杖による魔法が主流になり、多くの魔法・魔術が傍流に追いやられていく中で、バブリングのバアさんがたった一代で復興させた魔術であり、言語だぞ。本一冊訳すなんざ、NEWTを控えてる連中でさえできる訳がねえ。

俺は急いで自分の部屋に戻り、トランクからルーン語の課題を引っ張り出す。バアさんお手製の冊子には、ルーン語の問題集がみっちり詰まっている。それを手にリビングに戻り、焦ったように適当にページをめくり、絵のように綴られた文章を指差してアシュリー・グレンジャーに見せる。



「じゃあこれは! 何て訳だ!?」

「……『勝利を定める者が、我が友情を断つまで死を待つのみ』」

「これは!」

「『我が持てる黄金の宝物をひとつ、アンドヴァリから強奪せし黄金の腕輪を残した』」

「ここは!」

「『乙女は戦士に知恵を授ける。永久の愛を誓し二人は、再会の約束を取り交わす』」



あっさりと、俺だって辞書を引きながら出なければ訳せないようなルーン文字を、女はいとも簡単にすらすらと訳していく。それが正解かどうか、すぐに判断できない程度の差があるのだと、思い知らされる。

──古代ルーン文字学は、俺の得意科目の一つだ。元々ブラック家はルーン文字学に造詣が深い者が多い。アルファードも、ベラトリックスも、マリウスも、弟も父親も受講している。そんな中で、俺はバアさんから過去随一と呼ばれるほど優秀だった。是非後継者にと、後をつけ回され、ギアスがみっちり書かれた羊皮紙にサインさせられそうになったのも、何も一度や二度じゃない。勿論、こんなこと誰にでもやる訳じゃない。自分が築いた功績をそこらの凡俗に継がせるのは憤懣やるかたなしとばかりに、優秀な奴にだけ唾を付けようと必死だった。自分で言うのもなんだが、寵愛を受ける、と言ってみ過言ではないほど、俺はバアさんに重宝されていた。



『素晴らしい! 見てみよ皆の者、ブラックが成功させおった!』

『多くのブラック家を教えてきたが、主ほどの才覚は他になかった!』

『我が叡智を継げ、ブラック! その才を魔法省如きに奪われるには、あまりに惜しい!』



バアさんの跡目を継ぐ気はサラサラないにしろ、ここまで言われて悪い気はしない。天狗になっているつもりはないが、その地位は俺が卒業するまで確固として揺るがないものであると確信していた。なのに。

こんな、何とも分からない女に俺は、得意科目でさえ劣るっていうのか?



「……じゃあ、なんでここはケン[知恵]で書かれてるんだ? アンスール[知識]でもいいだろ」

「乙女は武器がどこで造られたとか、どのような材質でできていかを教えたわけじゃない。戦士に教えたのは武器の使い方。それがケン[知恵]アンスール[知識]の使い分け、で──」



そこで不意に、女は言葉を切った。自らの唇にそっと指を当て、目を丸くしている。まるで自分が何かとんでもないことを口走ったかのような、そんな表情。まさかそんな顔をされると思わず、先ほどまで胸に渦巻いていた自分への失望やらこいつへの得も言われぬどす黒いモヤも忘れて、俺も言葉を紡げなくなる。



「……」

「……」



黙りこくった女に俺も返す言葉がなく、結果として沈黙が広がる。何をそんなに思うところがあったのか、想像さえできない。こいつほんと何が癇に障るか分かったもんじゃないなと思ったその時。意を決したような顔で女は俺を見た。



「私の時代と君の時代とでは、授業の進行度が異なるのかもしれない」

「……なるほど、そういうことか」



確かに、そう言われれば不思議とストンと腑に落ちた。ホグワーツの教師はほとんど年配者だ、いつ引退したっておかしくない。こいつが何年未来の人間か知らないが、教師が変わればカリキュラムだって変化する。それは防衛術の件で痛いほど身に染みている。つまり、こいつが五年生までの単位を取得していたとしても、俺たちの基礎知識とこいつの基礎知識には大きな隔たりがある可能性がある、ってわけだ。



「悪いけど、夏に出された宿題見せてくれる?」

「あ、ああ……ちょっと待ってろ」



そう言って俺は再び部屋に戻り、課題かき集めて戻る。変身術、呪文学、魔法薬、防衛術、薬草学、魔法史、天文学、ルーン文字学だ。魔法生物飼育学からは課題は出ていない。ケトルバーンは基本的に休暇中の課題は出さないからだ。

テーブルを片付けて、課題の山を乗せる。アシュリーは無言のまま教科書や問題集をぱらぱら捲ってはそのまま閉じて次の教科書に手を伸ばしたり、或いはぴたりと止まってまじまじと教科書を見つめた。これはチャンスと、俺はその様子を観察する。すぐに教科書を閉じったのは変身術、呪文学、薬草学、そして魔法史だ。逆に色んなページを食い入るように見たのは魔法薬、防衛術、そしてルーン語だ。天文学に至っては教科書を開くことさえしなかった。



「おい。天文学はいいのかよ」



親切心半分、天文学だけ避けた理由が気になり、つい俺は口を出した。『上級ルーン文字翻訳法』を読み耽っていた女は顔を上げる。指差した先と、俺の顔を二回交互に見て、ムッと眉を顰めた。それからすぐに本に目を落とす。



「……いい。OWLで落としてる」



ぶっきらぼうに、それだけ告げて女は無心で教科書を読み進めていく姿に、俺は思わず吹き出しそうになったところを寸で堪える羽目になった。だが、女は無表情のままだったが、ますます肩を丸め、縮こまっているように見えた。意外だ、お高く止まっていると思いきや、こいつにも苦手なことはあったようだ。ダンブルドアの言う通りだ。何日も同じ屋根の下で暮らしてきた為か、徐々に隙ができはじめてる。いい傾向だ。こいつの正体を丸裸にできる日も近い。

先ほどまでのぐちゃぐちゃした感情はどこへやら、俺はひどく気分よくソファにどかりと座った。こいつにも弱点があった。それはとびきりの情報だ。ダンブルドアに報告するための材料がまた増えた。それに、報告すべきは天文学だけじゃない。俺に出された課題を見て、アシュリーのとった行動もまた、有益な情報だ。変身術、呪文学、薬草学、そして魔法史は気にした様子はなかった。女の時代と俺の時代で、授業の進行度はさほど変化していなかったという証拠だ。つまり、──これはあくまで俺の想像だが──この四科目は、何十年経過しても教員が変わらないのではないか。これに対し、魔法薬、防衛術、ルーン語は明らかに様子が違った。何ページにも渡って教科書をめくり、鼻先がくっつきそうなほど凝視した。つまり俺の仮説を用いれば、この三科目は教員が変わっている可能性が高い。まあ、防衛術に関しては此処十数年もの間、一年以上同じ教師が続いた実績のない呪われた席だ。別段驚きはしないが。

しかし、ルーン語の教師が変わってる可能性があるのか。意外だ、あのバアさん、後継者を見つけるまで教職にしがみ付く、とか言ってたけどな。俺以外に後継者を見つけたのだろうか。顔も名も知らぬ後継者を哀れに思いながら、俺はダンブルドアへの今日の報告内容を脳裏でまとめたのだった。


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