2.5

「ちょ、何のつもり!? ってか、なんつー恰好してんの!?」

「──〜〜〜〜ォワアアァアアアッ!?」

「なん、なんなの。悪ふざけは、やめて、よ!」



目の前に現れた女が好き勝手喚き散らす。一体何が起こってるんだ。

顔や肌の色からしてアジア人だろうが、流暢な英語で騒ぐ姿が妙にちぐはぐに見えた。それ以外の特記事項などない。黒髪に黒目の、人間。女。明らかに俺のことを知っているような口ぶりだが、当然覚えもなく。ホグワーツにアジア人……上の学年に一人いた気がするが、確か男だ。つまり、俺のことを一方的に知っているホグワーツ生、という線も薄い。では人違いか。この女が、俺と見知らぬ誰かを勘違いしているのか──いや、こいつ俺の名前を知っていた。『シリウス』なんてセンスの欠片もない名前、うちの一族以外につける馬鹿はいない。おこがましくも、『純血主義の王者は名前さえも人の上に立つべき』なのだと、星の名を冠する習慣なんて、誰がマネするだろう。

であれば、この女は俺をシリウス・ブラックと認識した上で、俺の部屋で全裸になってギャアギャア言っているというのか。というか、女と表現すべきかも怪しい。つい先ほどまで、こいつは性別どころか顔さえついていないホムンクルス体だったんだぞ。ただの人形が何故、シリウス・ブラックを知っているのか。いいや、知っているだけならまだいい。



「お、お前こそふざけるな! おかしいだろ、なんで俺の名前を知ってるんだ!?」

「いい加減にしてよ! シリウスの口から、そんな冗談は聞きたくない!!」

「冗談なもんか、不審者め!! 俺の家から出ていけ!!」

「何なのさっきから!! こんな悪質な悪戯、笑って片付けられない!!」

「お前こそなんなんだよさっきから!!」



この女は、まるで俺と親しいかのような口ぶりなのだ。親しいが故に、俺の態度が我慢ならないとばかりに、怒るのだ。なあ、分かるか。この得体の知れない気味悪さが。見知らぬ女が全裸で俺の知人とばかりの顔で怒鳴り散らす、その様がどれほどの恐怖か。命の危険に対するそれ、とはまた違う。同じ『人間』の姿をして、同じ『英語』を話しているにもかかわらず、圧倒的に“何か”が通じない。それが不気味だった。

けれど、それ以上に胸に浮かんでくるのはどうしようもない不快感。この女の言葉一つ一つが、思い出したくもない記憶を揺さぶる。俺をよく知りもしない女が、俺を知ったように語るその姿。払っても払っても、俺にまとわりついてくる毒霧のような記憶が、見知らぬ女の向こうに違う女の影を作る。



『シリウス!! 何故グリフィンドールなぞに組み分けされた!!』

『何故大人しくできない!! 何故、我々の顔に泥を塗るような真似をする!!』

『偉大なるブラック家の面汚し!! 一族の恥!!』



それは呪いだと、誰に指摘されるまでもなく理解していた。耳の奥にこびりついた、ヒステリックな女の叫びは、何年の月日が流れても消えることはなかった。これは呪いだ。俺はきっと生まれつき、あの家族から魔力を伴わないおぞましい呪いをかけられてる。

いつか解けると、誰もが言う。いつかっていつだよ、そんな子どもじみたことは言えず、そうだなと俺は曖昧にその慰みを受け入れた。本当は、俺もその言葉を信じたかった。俺だって、そのいつかを夢見たさ。決まってるだろ。でも、いつかは訪れないまま、もう何年と経っただろう。果ては自らの意思であの家を飛び出したというのに、こんな時だって呪われた俺の身体は、見知った女の呪いを見てしまう。

だから──なんて。言い訳にはならない筈なのに。



「いい加減にしろよ!! 知るわけないだろ、お前みたいな黄色人種[イエロー]!!」



ハッと、言葉が詰まったのは俺だけじゃなかった。女は、まるで鈍器にでも殴られたような顔で後退った。それほどまでの雑言を浴びせたという自覚があったから、俺もまたそれ以上何も言えなくなっていた。

こういう時、俺は心底自分が嫌いになる。普段、他人の生まれがどうだとか知ったこっちゃないのに。寧ろ、そんな連中を見限ってまで俺は家を飛び出してきたのに。なのに俺の口は今、他人の生まれを否定するような言葉を投げかけたのだ。どんなに腹が立って怒り狂ってても、ジェームズやリーマスなら言わないであろう言葉を、俺は容易く口にする。そんな自分が嫌いだった。こんな時、嫌でも俺はあいつらと同じ家で育った、血の繋がった家族であることを痛感するからだ。そんなつもりはなかったと取り繕っても、俺の口からあんな言葉が出る時点で、どこまでいっても俺は奴らと同類なんだ、と。



「──そんな、ばかなこと」



そんな、絶望に似た呟きに意識が現実に引き戻された。女が、幽霊でも見たような顔でガラスに映る自分の顔を凝視していた。……なんだ、こいつ。意味、分からなかったのか。そんな期待を寄せて、少しだけ肩の力が抜けた。そりゃ、だったらいい、というわけではないが。

けれど、女の様子は明らかにおかしい。傷ついているように見えないことにはほっとしたが、ショックを受けているように見えるのはなぜなのか。やはり俺のせいなのか。そう思えば、見ず知らずの女とはいえ同情心の一つでも芽生えた。そもそも、この状況は一体何なんだ。なんだってホムンクルスが人間の女になるんだ。それも唐突に、何の前触れもなく。フラメルだってそんなこと一言だって──あ。



「(魂を持たない、ホムンクルス体……!)」



そうだ、器だけの肉体に、引き寄せられる魂が数多くいると、フラメルは言っていた。霊魂だのゴーストだのは神秘部の連中専門だが、この世には現世に留まってる得体の知れない“モノ”が多いと聞く。それが魔法使いだろうと、マグルであろうとも、だ。だとしたら、こいつもそうなのか。そこら辺を彷徨っていた魂が、たまたまこのホムンクルス体に入り込んだ──とか。だとしたら、ホムンクルス体が女の姿に変化したことにも説明がつく。肉体は魂のカタチに引き摺られる。女の魂が入り込んだことで、その肉体が女の生前の姿に変化した、と。

じゃあ、この女は──。



「お前──死者か」

「……え、」



女の声は肯定でも否定でもなかったが、確信を突かれたとばかりに茫然としたのが分かった。やはりそうか。あー、こういう場合、ドルイドを呼ぶべきなのか。祓ってもらえばそれで十分、とはならないよなあやっぱ。それとも神秘部の連中か。いや、前例を考えたらフラメルの方が適任なのか。あのクソ教師、管理さえ怠らなきゃ大丈夫っつってたのに。いや、俺の管理方法が甘かったのか。でもそんな兆候はなかったし……。

しかし考えれば考えるほど、嫌悪感と同じぐらいの危機感が沸き上がってきた。もし本当にこいつが死者なら、死者の魂をホムンクルス体に定着させてしまった。大問題だ。そりゃ、そういう危険性もあるとは聞いていたが、だとしてもこんな偶然、起こりえるのか。魂と肉体の適合率だって、緻密に計算してようやくってレベルだとフラメルも言ってた。だというのに、そこいらの魂が、たまたまマグルの街のリンデン・ガーデンズに持ち込まれたホムンクルス体と奇跡的に融合して見せた──確率はゼロではない。だとしても、あまりに天文学的確率すぎないか。そもそもこいつは俺を知っている。一方的に俺を知っているのが嘘じゃないのだとしたら、仮にも魔法使いたる俺を、マグルの家に住み着くようなゴーストが知っているわけが、ない。こいつは決して、『そこいらの魂』じゃない。では、全て偶然じゃないのか。これは、この目の前の現象は、故意だとでも──。

しかし、俺の思考なんか吹っ飛ばすような出来事が、今日は何度も訪れる。



「は!?」

「え?!」



次の瞬間、女は地べたに這い蹲っていた。絨毯ごと、光る輪のような拘束具が身体を幾重にも縛り付けていたからだ。なんだこりゃと思う間もなく、今度は俺の身体にも同じ輪が発生し、ヤバいと思うよりも先に、俺の身体もまたドッターンッと音を立てて床にを転がされる羽目になった。そしてバシッバシッという耳慣れた音と共に、何人もの魔法使いが俺の部屋に現れた。何事だと顔をあげてみれば、見覚えのある顔がいくつも混じっていて舌打ちした。特にあの偉そうな男には見覚えしかない。息子の方はよく知らないが、似てない面構えだと心底思った。



「動くな! 魔法法執行部隊だ!」



そう言いながら、俺と女に杖を突きつける男の名は、バーテミウス・クラウチ。クラウチ家の当主。聖二十八一族にも数えられる、ご立派すぎる名家。うちの悪趣味なパーティにも何度か顔を出していたから、嫌でも知っている。権力主義の塊のような男だ。魔法省で上へ行くために、どんな手をも使うような男だったと、記憶している。生憎うちは男兄弟だったから直接の交流はなかったが、いとこのアンドロメダのとこは三姉妹だったし、随分強引な縁談話もあったと聞く。純血主義者というよりは、魔法省そのものが純血主義のきらいがあるから、それに倣って息子の縁組にも尽力している、といったところか。いけ好かない野郎だ。だが、一体なんでここに?



「まだ子どもじゃないですか。本当に彼らが……?」

「神秘部からの通報だ。間違いはない」

「だからって、一体何十年分だ? こんなの前例がない!」

「前例がなかったからと、貴様は大量虐殺が起こったとして、家でブレイク・タイムを楽しむとでも?」

「バーティ。こっちはブラック家の跡取りじゃないの。やっぱり、連中の気が逸ったのよ」

「何……?」



淡々としていた大人たちは、俺を見るなりさっと顔色を変えた。まるで糞爆弾をローブの中で誤爆させてしまったかのような、そんな顔。ただ一人、クラウチだけが表情一つ動かさず、俺を見下ろす。



「驚きには値しない。どうせ、ちょっとした出来心だったのだろう。悪戯感覚で、何十年分の時を操作したに違いない。そういった魔法道具を隠し持っていたとして、何ら不思議のない一族だ」

「けど、ブラック家の嫡男ですよ。流石に[]が黙っては──」

「構わん。どうせ一族の異端児だ、見向きもされまい」

「執行部長……ですが!」

「私の命令に従えないと言うのか!!」



吼えるクラウチに、誰もが萎縮したように口を噤んだ。逆らえないんだ、誰も。家柄も役職も、誰一人クラウチに勝る者がいない。だから、こんな馬鹿げたことができるんだ。



「言い訳は牢の中で聞いてやろう。二人をアズカバンへ連行しろ!」



頭が、真っ白になった。

なんだよ、それ。なんだ、それ。なんで俺が、そんな目に。アズカバンが本当の意味でどんな場所か知らない俺だって、それが理不尽で馬鹿げた発言だって理解できる。ふざけるなふざけるな。俺が何をした。俺が一体、何をした。



「ふざっ、けんなよ、オッサン!!」



そんな怒りが体内から爆発し、俺は我も忘れて叫び、暴れた。杖がなくても魔法をと、思ったのに何も起こらないのは、きっとこの輪のせいだ。これで魔法を封じている。そんな冷静な判断ができる傍らで、俺はただ叫んだ。



「納得できるか! 納得できるかよこんななこと! 何で俺がアズカバンに連れてかれなきゃなんないんだよ! お前らなんなんだよ! 何の権利があって俺を連行できるんだ! 俺が一体、何をしたって言うんだ!!」

「……ほう。これほどの大罪を犯して尚、素知らぬ顔か。随分な役者だ」

「っはあ!? 大罪!? なんのことだよ!!」

「惚けるな!! 『機密保持法』及び『時世維持法』の違反者め! 特に『時世維持法』を破った者は一議にも及ばずアズカバン行きと決まっている! まだ子どもと侮ったか? 愚かな、魔法省はダンブルドアのように甘くはないぞ!」



『機密保持法』及び『時世維持法』──だと。

『機密保持法』は分かる。未成年のうちに魔法を使ってはいけないという法律だ。一度目は警告、二度目は杖を折られて退学。二年ほど前、夏休みに物は試しにとジェームズたちち魔法を使い、警告文を受け取った。その時、ジェームズの父さんに息子共々馬鹿みたいに怒られたからよく覚えている。だが、二つ目は初耳だ。『時世維持法』ってなんだ。魔法省はよほどのことがない限り法律改正は行わない。だから、魔法史をある程度勉強してりゃ、ある程度の法律は記憶に残るはずだが、『時世維持法』なんざ聞いたこともない。



「なんだ、そりゃ……聞いたこともないぞ、そんな法律……」

「だろうな。そもそも違反者が少ない。『時間旅行』なんて馬鹿げた真似をする魔法使いは、そういまい」



クラウチはきびきびとそう言って杖を振り、俺を無理やり立ち上がらせた。



「何しやがるっ!」

「連中はどうやって『壁』を越えたかと煩かったが、そんなものは牢の中で聞き出せばいい。こいつらは危険だ。いつまた災害が起こるとも限らん。オグデン、ロイス、念のため周囲の警戒に当たれ。マグルに気取らせるな。連中はあれで、変化に敏感な生き物だ」



オグデン、ロイスと呼ばれた男たちが、おどおどと俺の部屋から出ていく。クラウチは警戒を解かないまま、凍てつくような目つきで俺と女をじっと監視している。クラウチが黙ったいくばくかの時間のおかげで、できのいい頭は瞬時に状況を把握せんとフル稼働していた。

時間旅行──未来の人間が、過去にやってくることだ。だが、歴史上どれも成功していない。いや、未来から過去にやってきたところまでは成功している。《逆転時計》なんて道具も発明されているほどだしな。問題は、『長い時間を遡れないこと』と『遡った代償が大きすぎること』だ。《逆転時計》なんて悪戯に最適な道具、何としてでも欲しいと仕掛け人四人で禁書のある棚に潜り込んで調べたから、よく知ってる。歴史上、何年もの時を遡ってきた時間旅行者たちがいたのだ。しかし、その九割以上が過去の時代に到達した瞬間に肉体が弾け飛んだという。時間旅行というこの世の理を捻じ曲げる魔法の負荷に、肉体が耐え切れないからだ。運よく生き残ったとしても、過去に到達しただけで時間旅行者は天変地異を引き起こした。未来の自分を殺すだけならまだしも、自分の家系丸ごと消滅させた奴もいたし、到達した土地を地図から消した奴もいた。『時代という球体に、無理やり異物をねじ込んだが故の影響力だ』と、ジェームズは冷静に分析していた。だからこそ、安全に時空間移動が可能になった《逆転時計》がどれほどの発明だったか。それでも、何年もの時間に耐えられるなど、聞いたことがない。

《逆転時計》で遡れるのは、精々数分[・・]の筈だろ。それが、なんだ。何十年と、連中は何度も口にしていた。数時間、数日でも奇跡だというのに──連中はさっきなんて言っていた。何十年?



「バーティ、少し冷静になってちょうだい。まだ子どもよ、何ができるっていうの?」

「ギロリー。疑わしきは全て罰せねばならん。それとも、神秘部の連中の通報は冗談だったと?」

「まさか。でも──」

「であれば、子どもだろうと何の関係がある。生まれたばかりのお前の息子が、こいつらの所為でこの世から消滅したとして、それでも寛大に『子どもだから』なんて庇うのか?」

「──ッ!」



温和そうな魔女が悲しげに唇を噛み締め、反論をやめた。クラウチが冷たく鼻を鳴らすのが、現実味を帯びない光景のように見えた。こいつは、俺を時間旅行者──それに関与したと確信しているらしい。違う、俺はそんなことやってない。だというのに、否定の声が出なかった。それぐらい、クラウチが聞く耳を持たないことを、俺自身が理解してしまったからだ。どれだけ否定の言葉を荒げようと、こいつは俺の話なんかワラジムシの戯言ぐらいにしか思わない、そんな顔をしていて。

このままアズカバンに連行されるのかと、初めて恐怖らしい恐怖が襲った。どんな場所か知らない。だが、防衛術の一環で《吸魂鬼》と戦ったことがある。今思い出しても、肺が凍るような記憶だ。あんな恐ろしい怪物がいるような場所に、俺が。



「まあいい。こいつらを──」

「待て!!」



そんな時だった。場の空気を引き裂くような凛々しい声が、クラウチの台詞を遮った。今まで一言だって口を開かなかった全裸の女だ。こんな状況だってのに、苦渋の決断をしたかのような顔で、クラウチを睨み付けている。



「この子は──シリウス・ブラックは関係ない。解放しろ!!」

「……なに?」



ぎろりと、視線だけで人が殺せそうなほど鋭い目つきで、クラウチは女を睨む。だが、女は一瞬だって怯まない。真っ直ぐに、堂々とした面持ちで、クラウチを迎え撃つ。



「全て私の独断。たまたま、この子の部屋に出現してしまっただけだ。魔法省は無実の子どもをアズカバンへ放るほど、判断力が腐り、落ちぶれたか?」

「ほう。言うではないか、罪人風情が」

「罪人風情に腐った眼を見透かされた気分はどうだ、クラウチ・シニア」



女は毅然と、クラウチの名を呼んだ。初めてクラウチに動揺が走った。この場で誰も、クラウチの姓は口にしていないからだ。やはり──この女は、本当に?



「ここが西暦何年か知らないけど、あんたの顔見たらどれほどの時を遡ったかよーく分かったよ。聞きたい? あんたの未来。正直、あんまり胸を張れるようなもんじゃないけどね。ねえ、ウィンキーは元気? 高所恐怖症はまだ治ってない? 病弱な奥様は? 優秀な息子さんは? 全部知ってるよ。ぜーんぶ見てきたよ。だって私は──」

「黙れ小娘!!」

「だったらその子を解放しろ! 腐れ役人が、罪科を問うべき人間を違えるな!!」



女は吼える。さっきまで、馬鹿みたいにキャンキャン叫んでいたのが嘘のように。大の大人に一切ひるむことなく、女は戦っていた。なんで。お前、死人じゃないのかよ。お前、さっきまであんな、訳の分からないってばかりの顔だったのに。

なんで、なんでお前が。



「その子を解放したら、何だって話してやる。さあ、どうする!」



なんで見ず知らずのお前が、俺を守ろうとするんだよ。


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