18


それからのことは、正直あまり覚えていない。豪華な朝食を食べて、ウィーズリー四兄弟と遊んでから、また夕食を食べた。ダーズリー家にいたころは、おじさんの接待を手伝う為に、綺麗に着飾って、笑顔をはっ付けて、おべっか使っているだけの日だったから、確かにホグワーツでのクリスマスはとても素晴らしい物だった。

だけど私の心は、ママのヘアピンとか、パパの透明マントとか、百合の花とかが占めていた。ぐるぐると思考が交錯し、胸に何か痞えているような気分でロンたちと過ごしてから、ベッドに戻った。ベッドに戻っても、私の気分は落ち着くことはなかった。まるで、悪い病魔に蝕まれているかのような気分だったのだ。



「──くそ」



小さく悪態をついて、ベッドに倒れ込んだ。すると、ちくりと頭に何か刺さった。頭に触れると、ママのヘアピンが指に当たった。髪から抜いて、光にかざしてみた。



「……ママ」



十年も前のこと、もう声も覚えていない。顔も、おぼろげになっていく。あの優しい笑顔と、腕の中のぬくもりも、成長と共に忘れて行ってしまう。どんなに忘れたく無くとも、記憶はどんどん忘却されて行く。私の意思とは関係なしに。死んだ人はもう戻らないように、死んだ人の記憶も、どんどん死んでいく。そう考えると……そうだね、スネイプは確かにすごいよ。きっとあの男の中では、ママはまだ生きてるんだ。それと同じぐらい、記憶が鮮明なのだ。だからあんなにも、純粋な愛を貫いていられる。例えもう二度と会えなくとも、肉体が滅んだとしても、スネイプにとってママの記憶は何一つ失われてはいないんだ。私には無理だ。だって、ママは死んだんだ。私の目の前で、ヴォルデモートに殺された。

ああ、そうか。どうりで忘れて行くわけだ。だって、私自身が思い出さないように過ごしていたんだ。家族が死んだ現実に目を背けていたから、前を向こうとしていたから。辛いことを受け止めた、そんな大人になったつもりだったんだ。思い出が過去になって、過去はやがて忘却の彼方へと霧散する。ああそんなこと、どうして今になって気付いてしまったのだろう。どうして、忘れてしまってから思い出したのだろう。



「いや──まだ、遅くない」



綺麗な緑が、闇の中で静かに光った。

私は居てもたってもいられず、透明マントを掴んで立ち上がった。このマントがあれば、みぞの鏡がある部屋に行ける。ママの顔を、パパの顔を、見に行ける。思い出しに行ける。こんなことが何になるかなんて、分からない。きっと何にもならない。だけど、行かずにはいられなかった。ママのヘアピンを握り締めて、パパの透明マントを頭からかぶって、消灯時間が過ぎた談話室を突っ切り、寮を飛び出した。



「……さむ、」



鏡がどこにあるかなんて知らない。暗く寒い廊下を、私は一人で歩き続けた。階段を上って下りて、一室一室を探して回った。あの大きな鏡を。ああ、寒い。せめてもう一枚何か着てくればよかっただろうか。ガチガチ鳴りそうな歯を噛み締め、肌を突き刺す風に身体を震わせても、私は歩いた。途中、血みどろ男爵が曲がり角からフッと現れたり、ミセス・ノリスがこっちを見ている、ような気がしたりしたが、私はひたすら歩き続けた。どのくらい歩いただろう。寒い、凍えそうだ。指の感覚がもうない。辛うじて、マントを掴んでいられるような状態だ。もう寮に戻ろうか……いや、そんなことはしたくない。まだ歩ける。そういえば、ここは何階だろう。分からなくなってきた。また教室があった。扉を開いた。

昔使われていたのか、机と椅子が壁際に積み上げられている。とても埃っぽい。そして──私は見つけた、天井まで届く、背の高い鏡を。私は透明マントをかなぐり捨てて、鏡に駆け寄った。立派な鏡だった。金の装飾豊かな枠には、二本のかぎづめ上の脚がついている。



「Erised stra ehru oyt ube cafru oyt on wohsi──」



ならば、私の心の望みを、見せて欲しい。一歩、鏡に近づいた。鏡には、私は映っていなかった。代わりに、たくさんの人間が映っていた。ただそこに、パパとママも、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんもいなかった。

優しい笑顔で寄り添い合っている、少し老けた東洋人の男女。(うそだ)。その隣には、東洋人の女の子。まだ幼く、男女にくっついている。(なんで)。その周りにいるのも、全て東洋人。女性が多いが男性も少なくない。(悪い夢だ)。みんな二十代そこらで、穏やかな顔で笑っている。(ああどうして、どうして。吐き気が込み上げてきたのをぐっとこらえた)。その中心に居るのは、二十代ぐらいの東洋人の女。黒髪黒目で背が高く、幸せそうに笑っている。(やめろ)。その隣には、二十代くらいの背の高い男。女の肩を抱いて、(これは)、これは、これは──。



「うそ、だ」



じわりと視界が滲んだ。それが溢れて、頬に零れる。

どうして、どうしてこれが、なぜ、こんなものが、私の望みだと言うのか。こんな、こんなどうしようもないものが、なぜ私が、望むと言うのか。鏡の中の住人は、幸せそうに笑っている。ああ、見間違える筈がない。生前の友人が、家族が恋人が、そこにいて。そこに私がいて。違う、私だった人がいて。膝に力が入らず、冷たい床にへたり込む。鏡を見上げる。変わらず、愛しい世界がそこに広がっている。



「どう、して──……」



溢れた物が止まらず、床に染みを作っていく。視界も思考もぐちゃぐちゃで、声は掠れていた。それでもその世界からは、目を離せなかった。



「どうして──忘却[ころ]していたんだ」



あんなに、愛した世界を。あんなに愛した人を。あんなに愛してくれた人たちを。どうして今の今まで、私は忘れていたんだ。覚えている、あの人たちと過ごした季節を。怒りも喜びも悲しみを。私は、覚えている。だって私は、私は“私”だった。“私”なんだ。失ってしまった、無くしてしまった世界を、どうして“仕方が無い”と諦めたフリをしていたんだろう。どうして、終わってしまったんだと、冷静なつもりでいたんだろう。どうして冷静なつもりで、大事な記憶を殺してしまっていたのだろう。

私はただ、逃げていただけだ。二度と家族に、友人に、恋人に会えない悲しみから。二度と、私を"私"だと言ってくれる人に会えないという現実から。二度と、あの世界に帰れない真実に。だって私の名前はアシュリー・ポッター。闇を討ち払う、正義の主人公。逃げられないと、考える前に悟ってしまったんだ。だから、冷静になれた。大人になれた。運命を、現実を受け入れたフリをして、私は心を守った。防衛本能が、自我を護ろうと、全てに蓋をしたんだ。



「あ、あ──ぅッ、ぁ、かあ、さ……、と、うさっ……ッ!!」



鏡に縋りついて、私は泣き崩れた。今まで蓋をしていた物が、全て流れ出てきた。ごめんなさい、ごめんなさい。声を上げて、泣き叫んだ。ようやく、私は気付いてしまった。私はもう、愛した人たちには会えないのだと。くるしかった。かなしかった。

ごめんなさい。ごめんなさい。愛していたのに、大好きで、大切で、失いたく無かったのに。鏡は冷たかった。手を伸ばしても、そこには届かなかった。涙がまた溢れた。あの暖かい世界は、もうどこにもない。あるのは、ここだけ。ごめんなさい。ごめんなさい。あんなにも、あんなにも愛していた場所だったのに──。



「もう、声も──思い出せ、ない……ッ!!」



声を、ぬくもりを、忘れてしまった。あるいは、最初からなかったのかもしれない。だってこの身体はアシュリーなんだ。鏡の中に居る、“私”じゃない。アシュリーが、私が、“私”じゃない物を、排除したんだ。きっとこれから時間をかけて、私は失っていくんだろう。“私”としての人生を、記憶を、思い出を。そしてきっとその時、初めて“私”は死ぬのだろう。アシュリーが生き残って、“私”が死ぬ。きっと、そんな日がいつかやってくる。だって私は、アシュリーのママですら、忘れているじゃないか。

ふと、鏡を見上げた。愛した世界は、そこにあった。手を伸ばしても届きはしないが、そこにあるのだ。溢れた涙は止まらないけれど、そこで幸せそうに笑っている人たちを見ていると、見ていると……ああ、見ていたい。そうだ、家族と、友人と、恋人と、一緒に居たい、その姿を眺めていたいと思うのは、何がおかしい? この鏡は、アシュリーは映さない。鏡を見ているだけで、私は“私”になったような、気さえしてくる。いや、元々“私”とはなんだったか。どうでもいいや、私は、ここにいたい──……。



「鏡の虜になってはいけないよ、アシュリー」



声が、した。その瞬間、自分がベッドを抜け出していることにようやく気付き、更には大声を上げて泣いていたことにも気付き、腕で涙を拭ってバッと振り返った。暗闇の中で、白いローブをまとったアルバス・ダンブルドアがそこにいた。服の所為で発光した幽霊みたいでびっくりした。ダンブルドアは、穏やかに微笑んでいる。

年甲斐もなく泣いていたことに、それを一瞬でも見られてしまったことに羞恥が襲い、顔がボッと熱くなった。ダンブルドアは、笑ったままだ。



「君だけじゃない。同じように、何百人の魔法使いが鏡の虜になった」

「……この鏡は、卑怯です」

「そうとも。だからこそ、その誘惑を断ち切らねばならない。その『のぞみ』が未来ではなく過去にあるなら尚更なのじゃよ、アシュリー」

「やめてください……今は……その名前で、呼ばないで」



現実を押しつけられたようで、苦しくなる。そりゃあ、それは私だけの唯一無二の名前だけれど。今は、私は、アシュリーでいることを放棄したかった。無意識のうちに耳を塞ぎ、蹲る私に、ダンブルドアは無情にも現実を突きつける。



「過去はやり直せん。死んだ者も、甦りはしないのじゃよ、アシュリー」

「……先生は、私のことを、なんだと思っているんですか」



こんな穏やかな顔をして、本当は気付いているのだろうか。私が、“私”という存在が、あからさまに特異であることを。ただ両親を失った子供ではなく、二度も家族を失っていることを。未来を知り、目的のためならどんな敵でさえ殺す決意をした、小娘の皮を被った悪鬼だと、いうことを。

ダンブルドアは、にっこり笑った。



「天文学以外は成績優秀で、優しく、しっかりとした女の子、かのう?」

「真面目に答えて下さい」

「人の子じゃよ。帰らぬ人に思いを馳せる、そんな普通の、人の子じゃ」



よく分からない、答えだった。なるほど、食えないジジィなどと言われるわけだ。闇の中で、薄いブルーの目が、煌きながらもこちらを射抜いて離さない。ああ、やはりこの目は、苦手だ。オリバンダー老人と同じで、全てを見透かしてくるような、そんな目だ。

……嫌だな、全く、嫌な目だ。早く、閉心術を身につけねば。



「アシュリー、この鏡は明日余所へ移す。もうこの鏡を探してはいけないし、鏡の虜になってはいけない。夢に耽って、生きることを忘れてはいけない」

「……」

「でなければ、命をかけて君を護ったリリー・ポッターが、悲しむ」



ああ、くそ、ママの名前は、反則だ。そうだ、私は“私”であり、アシュリーなのだ。ジェームズ・ポッターと、リリー・ポッターの一人娘。その事実は、現実は、今は、揺らぐことが無い。私にどんな過去があった所で、私の現在はアシュリー・ポッターなのだ。ママが命に代えてまで守ってくれた、たった一つの命なんだ。この命が無ければ、今此処で過去を想い返し、涙することもなかったんだから。

だけど……。



「そう簡単に割り切れる程……私はまだ、成熟していません」

「そうとも。永遠の別離を受け入れることは、大の魔法使いであろうと、難しい事じゃ。まだ経験の無い、年若い君が、そう思い悩むのも無理はなかろう」

「……先生も、ですか」



私は、真っ直ぐにダンブルドアを見た。初めて、その目に向き合った。鏡に背を向けて、ダンブルドアに向かった。ブルーの瞳が、一瞬揺れた。



「先生でさえ、失った命を現実として受け入れることは、難しいのですか」



例えば、妹を護ろうとアズカバンへ送られた父。例えば、妹を愛して死んだ母。例えば、自分の愚かさで殺してしまった妹。例えば、妹との別れで引き裂かれた弟との、絆。あなたもまた、それが出来ない人でしょう。あなたが鏡を見ても、私と同じように届かない過去が映るでしょうに。だってあなたは、賢者でも、偉人でも、神でもない。だってあなただって、人の子だもの。

ダンブルドアは、何も言わなかった。目を細めて、微笑むだけだった。答えるつもりは、ないらしい。私は、床に落ちている透明マントを拾い上げた。



「これ、先生が送ってくださったんでしょう。ありがとうございます、助言通りに、上手に使います。残してくれた、パパのためにも」

「それがよかろう。さぁ、今日はもう寒い。早くベッドに戻るとよい」

「はい。失礼します」



パパとママの姿が映らなかったのはなぜだろう、と寮に戻り、ベッドに入りながら思った。パパとママに会いたいと思って、ベッドを抜け出した筈なのに。過ごした時間が短いとは言え、パパもママも大切だと思っている。いや、心の奥底の望みを映すんだっけ。ってことは、私は私の為に死んでくれたパパやママよりも、“私”が死んだ世界の方が、大切だったってことか。なんとも、パパにもママにも顔向けできない娘になってしまった。



「──スネイプのこと、笑えないな」



どうすれば、“私”とアシュリーは両立できるんだろう。こんなことに立ち止まっている暇などないのに。私は戦わねば、ならないのだから。そうだ、私はヴォルデモートを倒す。それが、アシュリー・ポッターとしての役目だ。そうだ、全てが終わったその後に、自分として生きようと決めたではないか。ならば、今は蓋をしておこう。例え色んな事を忘れてしまうことになろうとも、この命が尽きてしまえば、忘れることすら出来なくなるのだから。

ただ、しばらくは良い夢は見れないだろうと、思った。


*PREV | TOP | NEXT#

- ナノ -