授業を終えて部室に入ってすぐ、木葉さんと小見さんが入ってきた。挨拶をしつつ、朝練同様、名字先輩とのことについてしつこく聞かれるのだろうと身構えたものの、意外にも彼らは触れることがなく、ここに来るまでの道すがらに考えていた交わし方を捨てることになる。
触れられなかった理由として、彼らが飽き性というのもあるが、午前中にSNSにて大々的に発表された、有名女優と駆け出し芸人の結婚報告もひとつの要因と推測できる。俺のクラスだって結婚の話題で持ち切りだったし、現に、木葉さんと小見さんもその話をしているのだ。
まあ、触れられないに越したことはないし、こんなにも、芸能人の結婚報道に感謝しなかった日はない。
「赤葦はこの結婚どう思う? って、着替えるの早!」
「別にいいんじゃないですかね」
「えー、もっと良い人いそうじゃね? いやでも夢は広がるよな。こんなに可愛くて美人な女優でも芸人を好きになるってことは、チア部2年のあの超可愛い子もこっち側に振り向いてくれる可能性があるってことだ」
「木葉甘いな! あのチア部の子の前の彼氏を覚えているか? 俺たちの1つ上のイケメン元サッカー部キャプテンだよ」
「はー、そうでした! 所詮面がいいに超したことはないってことですか!」
木葉さんがわしゃわしゃと髪を掻き混ぜ、小見さんが「どんまいです」と肩を叩く。この間に、俺はおにぎりを食べることにした。
どうして学年が違うチア部の子の元カレ事情を知っているのか俺には理解できない。そもそも、木葉さんたちが言っている人物が誰なのかすらも分からない。まあ、チア部は大会で応援してくれることが多いし、今後の木兎さんのモチベーションのためにも、どの子か把握しておきたい気持ちはあるが。
「でもやっぱり俺らの学年の憧れと言えば名字ちゃん先輩だったよなー」
「バレー部ずるい!! みたいなのも多かったし」
「名字ちゃん先輩の卒業式とかえぐくなかった? アイドルの引退式かよみたいな」
「それな。でも高嶺の花すぎてみんな声掛けらんねーの」
突然出てきた名字先輩の話題におにぎりが喉に詰まりそうになるものの、幸いにも昨日の話に触れられることは無かったので、2個目のおにぎりに手を出す。アルミホイルを剥がしている間も、木葉さんと小見さんの話は続いた。
「俺が来たー!!」
「木兎は今日もうるさい」
すると、劈くようなドアの開閉音が鳴って、木兎さんと猿杙さんが入ってきた。昨晩について触れられるかと懸念したが、木兎さんの意識も女優結婚の話に向いているようだ。「聞いて聞いて! 俺が見ていたドラマの女優が結婚したんだよ!」と木葉さんと小見さんに言っている。
「今ちょうどその話してたんだよ」
「美人な女優が芸人と結婚するのって夢があるよなって」
「夢?」
「俺にもチャンス来そうじゃん」
「木葉には来ないだろー」
「う゛っ」
木兎さんの言葉の一撃に、木葉さんは態とらしく胸を押えて蹲った。基本的に人を傷つけるようなことは言わない木兎さんだが、素直な性格も相俟って、スパイクみたいな鋭い言葉を選ぶことがある。
ケラケラ笑った木兎さんは、木葉さんを放置すると、俺の隣に来た。「赤葦ちーす!」という挨拶にはぺこりと頭を下げる。如何せん俺の口にはおにぎりが入っていて挨拶を返せない。
「今日の自主練スパイク練付き合って! あ、監督にオーバーワークし過ぎるなって言われから自主練できねーんだった。つーかそのおにぎり何個目?」
「……」
「え、なにピース? あ、違う? 2個目ってこと!? さすが赤葦、よく食うなー」
口が塞がっているので、指で『2』と形作る。何とか伝わったようで良かった。
どうやら監督直々に自主練禁止令が出されているようだ。ただ、練習が終わったら絶対に駄々をこねると思うので、それまでに対策を考えておかなければいけない。
「ところでさー」
「木兎! いた!」
木兎さんが何かを言いかけたところで、部室のドアが勢いよく開いた。揃いつつあったレギュラー陣が、体をびくりとさせてドアの方を見やると、鬼の形相をした雀田さんが立っている。大方、木兎さんがなにかしたのだろう。
「一昨日貸したノートは!? 明日には返すって言ったよね!?」
「え! あ、ド忘れした……」
「また!?」
あれ、前にもこんな会話を聞いたことがある。まあ、木兎さんが借り物を忘れるなんて日常茶飯事だし、全面的に木兎さんが悪いので擁護とかは一切しないんだけれど。
雀田さんの一撃が木兎さんの頭を直撃し、木兎さんは床に伏せた。レギュラー陣の『ご愁傷様です』という視線を一身に浴びている木兎さんは、なかなか起き上がらない。
「ったく……。あ、赤葦。昨日はありがとう。すごく助かった」
雀田さんがこちらを向いたので、おにぎりを咀嚼し、嚥下した後に「いえ」と返す。あまり触れられたくない話題だったが、彼女に悪意や揶揄は一切感じられないので、無下にするわけにもいかなかった。
「名前さんが、赤葦のこと良い子だねって言ってたよ」
「それはよかったです」
それに、褒められて悪い気はしない。
雀田さんの言葉によって、昨日の、名字さんが頭を撫でてくれた時の体温を思い出して、頬が一瞬熱くなった。
「で、名前さんからの伝言。ちゃんとご飯食べたし大学にも行ったよって」
「……そうですか」
「あと名前さんが連絡先教えてって言ってたんだけど、教えても良い?」
「おっと〜?」
木葉さんたちの、おもちゃを見つけたような視線が煩わしい。先程まで床に伏せていた木兎さんも「おやおやおや」と復活している。これが嫌だったのだが、それを顔に出したら負けだと思って、平然を保ちながら頷いた。
「ありがとう。じゃあ教えておく」
言うや否や、雀田さんは退出した。
絡んでくる先輩を振りほどいて、俺も体育館に向かうべく廊下へと出る。着替えるのが早かったからか、幸いにも着いてくる人はいなかった。
体育館までの廊下を歩いていると、ポケットの中が震えたので、スマートフォンを取り出す。画面に映るメッセージに、どくんと心臓が鳴った。
『赤葦くんだよね?』
連絡は想像以上に早く来たようだ。メールじゃなくて、最近浸透しつつあるメッセージアプリの方に来たということは彼女も既にスマホに変えているのだろう。一先ず友人に追加して、さて、なんて送ろうか、まずは肯定と挨拶だろうか――と考えていたところでもう一度振動するスマホ。
『赤葦くん昨日はありがとう』
文章は極めてシンプルで、昨日のゆるりとした声が脳内で再生される。
『こちらこそありがとうございました』
返すと同時に既読がついた。そしてすぐに返信が来る。アプリ特有の吹き出しと、一枚の写真。
「っ!? あー……ずるいだろ……」
俺はそれを見て、その場に座り込んだ。
『ご飯ちゃんと食べたよ。チャーハン作った。だからまた家に遊びに来てね』
チャーハンの写真付き。これはずるい。
とりあえず『行きます』と答えても引かれないでくれるだろうか。