先輩、無気力って本当ですか?

 インターハイ東京予選真っ只中の6月初め。我らが梟谷は順調に勝ち進んでおり、来週の日曜日には3回戦を迎える。平日の練習では、オーバーワークにならないよう調整しつつ、苦手分野をしっかりと鍛えるようにと監督から通達を受けているにも拘わらず、木兎さんはオーバーワークギリギリまで残り、得意なスパイク練を中心に行っていた。

「あかーし! もう一本!」
「そろそろオーバーワークですよ、木兎さん」
「まだできーる!」

 腕をぶんぶんと振り回して『まだできる』アピールをする木兎さんだが、オーバーワーク予備軍である以上、セッターとしてトスを上げるわけにはいかない。
 さてどうやって木兎さんを落ち着かせようかと嘆息していると、ふと目に入ったのは、困った顔をしているマネージャーの雀田さんと白福さんだった。
 いつもならば練習と片付けが終わり次第すぐに帰る2人なので、こんな時間まで残っているのは珍しい。雀田さんが木葉さんに何か話しているようなので、忘れ物をしたのかもしれないけれど。
 俺がそちら側を見ていたからか、木兎さんもマネージャー陣に気づいたようで「あれ!? ゆきっぺ達じゃん!」と駆け寄った。一先ず木兎さんの意識がスパイク練から反らせそうで良かった。

「は!? 名字ちゃん先輩が?」

 3年生の輪に混ざった木兎さんは、さっそくマネージャーから何かを聞いたようで、彼の驚愕した声が体育館内に響いていた。
 名字ちゃん先輩――。確か、木兎さんたちが1年の時に3年だったマネージャーさんで、要は、俺とはすれ違いで梟谷を卒業した先輩のはずだ。
 昨年の夏合宿で他のOBと共に顔を出した時に、木兎さんたちから名字ちゃん先輩と呼ばれていた気がする。背丈とか性格とかはあまり覚えていないけれど、とても綺麗な先輩だったことは記憶にある。会話をしたのは一度きりで「君が木兎のお気に入りくん?」だったか。
 そんな、会話と呼ぶには足らない関わりしかない人の話題なので、特に口を挟むことなく3年生達の動向を静観している時だった。

「赤葦どうしよ! 名字ちゃん先輩のピンチなんだけど!」
「はあ」
 
 木兎さんが泡を食いながら俺の元へと駆け寄ってきた。3年生陣の表情からあまり良くない話題だとは思っていたが、だからと言って俺のところに来られても困る。

「このままだと名字ちゃん先輩死んじゃうかもだって」
「は?」
「ちょ、木兎!」

 しかし、顔を真っ青にしながらそんなことを言われてしまえば、俺だって反応せざるを得ない。更に、雀田さんの木兎さんを咎める声がリアリティを生む。

「これは俺が聞いても大丈夫な話っすか? 席外しますけど……」
「……いや、大丈夫。赤葦も名前さんのこと知ってるもんね?」
「ええ、まあ……去年の夏に一度だけ会ったことがあります」

 俺の答えに、雀田さんと白福さんが頷きあって、実は……と名字先輩について教えてくれた。
 曰く、名字先輩は重度な無気力人間のようで、放っておけば平気で食事を抜くし大学にも通わなくなると言う。風呂好きで風呂は自主的に入るが、一度入ると呼びに行くまで入りっぱなしだったりと、中々の体たらく具合だそうだ。
 昨年までは両親と一緒に住んでいたようだが、今年になって父親が地方勤務となってしまい、母親が着いて行ってしまったことから、名字先輩は一人で実家に住まざるを得なくなってしまったという。案の定、親の監視が無くなった名字先輩は、絶賛無気力を発動しているようだ。
 因みに、木兎さんが「死ぬ」と騒いでいた部分は、食事を抜いたり長風呂したりという部分を大袈裟に例えたものだと推測できる。

「それで、名前さんを定期的に監視して欲しいって先輩から頼まれたんだけど私と雪絵の家は名前さんの家と正反対にあるから難しくて」
「そー。連絡してきた先輩も地方の大学通ってるから行けないってー」
「なるほど……」

 名字先輩世代のOBたちの中で、彼女の無気力から来る生活力皆無の件は問題になっており、この度東京に住んでいる現役梟谷部員にお鉢が回ってきたようだ。
 何故同年代ではなく後輩に頼むのかという疑問は、彼女を気にかけているOBたちがこぞって地方の大学に通ってるとか、彼女持ちだとか、マネージャー2人の口から出てきた様々な理由により払拭される。どうやら、OB達も苦渋の決断らしい。
 そこで白羽の矢が立った白福さんと雀田さんだが、名字先輩と家が逆方面ということで、なかなか厳しいようだ。

「それで木葉達が行ってくれないかなって話していたところ」
「いやあ……まあ、な?」

 雀田さんの打診に、木葉さんが尻すぼみで曖昧な返答をした。意外だった。木葉さんたちも名字先輩に憧れやら下心やらを抱いているように見えたからだ。
 というか、昨年の夏、名字先輩の登場に、俺達旧1年含めて部員のほとんどが浮き足立っていたように思える。それくらい綺麗な人だったし、挨拶に行った木葉さんたちもデレデレしていたはずだ。

「意外ですね。名字先輩ってあのすげえ綺麗な人ですよね? 木葉さんたちなら下心で是が非でも行きそうな気がしますが」
「サラッと失礼だな、赤葦。いやまあたしかに名字ちゃん先輩は綺麗だけど、な? 小見やん」
「おう。あの人はあくまで観賞用で良いというか彼女にするのはちょっと……な? サル」
「うーん……俺は名字ちゃん先輩良いと思うけど俺も逆方向なんだよね」
「はいはーい! 俺行きたーい!」
「アンタも逆方向でしょうが! それにアンタが行ったところで解決しないのよ!」
「なぬ!?」
「鷲尾はー?」
「名字先輩の家は杜中の方だったか? だったら俺も逆方向だ」

 右から左へと伝言ゲームの如く3年生達が確認し合うが、そう上手く都合がつく人はいないようだ。小学中学の先輩ならば大抵同じ地区に住んでいるが、高校の先輩となると家が正反対にあるなんてことはざらにある。
 やはりここは、彼女の両親とOBたちが相談し合う方がいいのでは無いかと考えていたところで、木兎さんが「あれ?」と首を傾げた。

「名字ちゃん先輩の家って杜中の方? だったら赤葦近くね?」

 木兎さんの言葉に、先輩方の視線が一斉に俺に向けられた。いやいや、俺は関係ないだろ、普通に。

「え? 名字ちゃん先輩って杜中なの? 赤葦知り合い?」

 小見さんが訊くが、如何せん名字先輩とは知り合いでもなんでもない。強いて言えば顔見知り程度だし、名字先輩の記憶の中に俺がいるかも怪しいだろう。

「いや、知らないです。つーか仮に杜中でも俺とはすれ違いなので。それにあんな綺麗な人がいたなんて噂すらなかったすよ」
「……つーかさ、さっきから赤葦、やけに名字ちゃん先輩のこと綺麗な人って言ってるよね」

 猿杙さんが言った。次いで木葉さんが「たしかに! もしかしてホの字?」と口元を緩めながら揶揄してくるが、俺としては、それと言って関わりがないので、『綺麗な人』という印象しかないだけだ。
 だからこそ、無気力と言われたところであまりピンと来ていない。実際、昨年の夏に顔を出した彼女は、白福さんと雀田さんの仕事を手伝っていたようだが、マネージャー業務をする彼女は普通にできる人だった。

「残念ながら違います。綺麗な人という印象しかないだけです」

 それを正直に言ったのに、この先輩たちは「本当かなあ」なんてニヤニヤとし始めた。木兎さんに至っては「え!? あかーし名字ちゃん先輩のこと好きなの!?」なんて勘違いをし始めている。

「私達としても正直3年連中よりも赤葦に行ってもらった方が安心はできるんだけどね」
「あれ? 今俺たちさりげなくディスられた?」
「でもさすがに関わりないOGの家に行けってきつくなーい?」
「だよね。やっぱり他の人に頼むか」

 さすがは梟谷の良心、マネージャーの2人だ。俺の事情も考慮してくれている。諦めた雀田さんが携帯を取りだしてどこかへと電話をかけようとしたところで――

「あー! 思い出した! 名字ちゃん先輩、あかーしのこと可愛いって言ってた!」
 

――は?
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