黒バス | ナノ




貧乏になった黒子君が黄瀬君にお金で買われる

 父親が事業に失敗した。祖父の代から始まった会社は手堅く事業展開をしていたのだが、不景気の煽りを思いっきり受けてしまったのだと言う。従業員の保障の為に日々かけずり回って、結果社員の受け入れ先もしくは退職金を提供することは出来たのだが、自分たちの生活資金はすっかりそこをついてしまい、借金を返し終えると残ったのは生活費を捻出する術と住居、それに家財道具一式を失ったボク達一家の途方に暮れた日々だけだった。
 経営が傾いた時に真っ先に従業員のことを考えて動き出した父のことは尊敬している。だからそのことで父のことを恨んだりはしない。母だってそうだ。辛い思いはボクよりもずっとしているはずなのに、始終笑顔で「どうにかなるわよ」と頭を撫でてくれる。そんな両親が誇らしかった。だからボクは、現状を恨むことなく前向きに生きて行きたい。 現状を恨むことなく前向きに生きて行きたいとは思うのだが、現実問題前向きに生きるだけで全てが解決されるかと言えば答えはもちろん「ノー」である。ボクの通う高校は幼稚舎からのエスカレーター式で、良家の子女や大手企業の社長、役員の子どもがごろごろ通っている超がつくレベルの名門校である。そんな名門私立校の学費を支払う能力は、今の黒子家には残っていない。
 他の多くの生徒たちと同様、幼稚舎から持ちあがりで高校まであがったボクには、離れたくないほど大切に思っている友人と、大好きな部活動があった。バスケが好きで、だけどどうあがいたって才能の壁には勝てなくて、部活を辞めようと思っていた時に励まして引き止めてくれた相棒と、一癖も二癖もあるが真剣にバスケに取り組んでいるチームメイト。彼等と離れるのは正直辛い。無論、どこでだってバスケは出来る。バスケ部はメジャーな部活動だから、どこの公立校に転校したっておそらくバスケ部自体がないことはないだろう。その気になれば地域のチームに参加することだって出来るし、いざとなれば公園のストバスコートで一人でプレイすることだって出来る。
だけど、この学校で彼等とプレイするバスケは、ここ以外ではどうしたって有り得ないのだ。
どうしたものか。両親は身を粉にして働いてくれている。これ以上迷惑を掛けたくはない。ボク自身もアルバイトをしようとあちこち当たってみたのだが、両親に大反対をされてしまった。

「あなたは何の心配もせずに学校に通って勉強と部活に専念しなさい。学生の本分は家計の心配ではなくて、学業だわ」

 母親にそう言われた夜は、隣で眠る両親にばれないよう布団を頭まで被って声を殺して泣いた。この人達の子どもで本当に良かったと思う。
 そんな訳で、表立ってバイトをすることは出来ないのだが、内職か何かで少しでも両親の役に立ちたい。そんな時、弱り困りきっていたボクに声を掛けてきたのが、最近バスケ部に入部してきた黄瀬涼太であった。

「黒子クン家って、会社潰れたんでしょ? 大変だねー」

 バスケ部一軍の面々は個性も我も強いが、皆それぞれがこの超名門校でも屈指のお金持ちの子息たちだった。誕生日プレゼントにビルを貰うレベルの資産家の子息で、しかも並はずれた才能を持っている。そんなどこぞの少女漫画の登場人物みたいな人間達である。 つい一か月前に入部して、あっという間に一軍まで上り詰めたこの黄瀬涼太も例にもれず、ここ数年で急成長を遂げたIT関連の会社のトップの息子であった。しかも黄瀬君は才能と財産に加えて滅多にお目にかかれないレベルの美形だ。どうやらスカウトされてモデルのバイトもしているらしい。本当に、どこの少女漫画の登場人物だと思うが、彼は実際に存在して愉悦に口元を歪めて楽しげにボクのことを見下ろしている。

「いえ。家族全員がんばっているので、君が思っているより大変ではないです」
「そんな訳ないっスよね。だってここの学費だけでも一般の会社員の平均年収以上でしょ? ねぇ、黒子クン部活辞めて転校するの?」
「辞めませんし転校しません」

 ボクも黄瀬君も同じバスケ部一軍ではあるのが、彼のプレイスタイルとボクのそれは大きく異なる。主将が見出して指導してくれたボクのプレイスタイルは、他人には理解されにくい。普通に見ればノーマークでゴールを外すわ、ドリブルすればボールに逃げられるわで、ただの下手くそな二軍以下の選手なのだ。才能に溢れる故に、自分が認めた人間以外にははっきりと線引きをする黄瀬君の線の中に、どうやらボクは入れなかったらしい。

「何、アルバイトでもして家計を支えるつもりっスか? 勤労少年って昭和の匂いがするっスよね」
「忙しいので帰っても良いですか」

 悪意を隠そうともしない態度は、怒りを通り越して清々しいほどだ。ボクにこんな風に絡んでくるなんて、部活もモデルの仕事もあるのに、この人案外暇なのだろうか。生憎とボクは黄瀬君と違って忙しい身だ。貧乏暇なしである。ここは早めに切り上げようと頭を下げて彼の横を通り過ぎようとしたら、すれ違い様に二の腕を強く掴まれた。「……っ、何するんですか」
「ねぇ、黒子クン。お金、あげようか」
「バカにしないでください」
「バカになんてしてないっスよ。大切なオトモダチが困ってたら助けたいと思うのが普通でしょ」

 綺麗なはずのその台詞が、黄瀬君のからかいを孕んだ声色と張り付いた薄笑いのせいで嫌味にしか聞こえないのが凄い。これもある種の才能かもしれない。

「結構です。オトモダチと金銭の貸し借りをするつもりはありません」
「オレ達、オトモダチじゃないから大丈夫だって」
「さっきと言ってることが違いませんか」
「だからさ、利子なしで貸してあげるっスよ。オトモダチには借りにくいんでしょ? 黒子クン、プライド高いもんねー」

 二の腕を掴む力が強くなり、鈍い痛みに顔を顰める。黄瀬君は気付いているのかいないのか、ボクの様子を見ながらにやにやと楽しそうに笑っていた。払いのけようと腕を動かした瞬間、逆に引き寄せられて、目の前に端正な黄色が広がった。

「だからこれは契約。無利子でお金を貸す代わりに、オレの言うことなんでも聞いてよ」

 彼の吐いた息が唇に触れる。甘ったるいそれに眩暈がしそうだった。
 友人たちにはこれ以上心配も迷惑も掛けたくない。でも、黄瀬君は友人じゃない。甘い誘惑にボクが首を縦に振るのは、時間の問題だった。



「黒子クン、このプリント職員室まで運んでおいてくれないっスか」
「黒子クン、屋上にいるから購買で食べるもの買ってきて」
「おにぎり? オレ、サンドイッチがいいんスけどー」
「黒子クン、ユニフォーム洗っといてね」
「黒子クン」
「ねぇちょっと、黒子クン」

 腹の底から生温い息を吐き出して、苛立ちを遣り過ごす。そうだ、これは契約なのだ。主従契約だ、購買契約だ、賃借契約だ。だからいちいち腹を立てる必要はない。ボクはただ、言われたとおりに彼の要望に答えれば良いのだ。

「なぁテツ、お前最近なんか疲れてねぇか?」

 部活中、精神的疲労からここ数週間ですっかり癖になってしまっていたため息が意識せずに出てしまった時隣にいたのは、ボクが心配をかけたくない筆頭である青峰君だった。出会った頃に比べて大分擦れてしまったが、それでもずっとボクと一緒にバスケを続けて相棒でいてくれる、大切な友人である。そんな友人に余計な心配は掛けられない。
 普段から何を考えているのかわからないと評されるポーカーフェイスをフル稼働させ、眉一つ動かさないよう細心の注意を払いながらとぼけるために小首を傾げた。

「最近、練習がハードですから。ボクは君と違って体力バカではないので」
「テツてめぇ、心配してる友達に向かってその態度か」
「友達に向かって真実を述べるのは悪いことではありません」

 言った途端、がっちりと首をホールドされてぎりぎりと徐々に力を込められる。ギブですギブです、と言いながら首に回された腕を叩くと、すぐに力が抜かれてそのまま頭を撫でられた。

「なんかあったらすぐにオレ達に言うんだぞ。友達なんだからな」

 背が高くて人相悪くてオレに勝てるのはオレだけだとか言っちゃっておバカさんのくせに、どうして欲しい時に欲しい言葉をくれるのか。以前から野生的な勘の良さは凄いなぁと思っていたが、殊ボクとバスケに関してそれが発動されることが多い。
 緊張させていた表情筋が緩みそうになるのを必死で堪えて、ありがとうございます、と小声で呟けば、おう、と返される。青峰君と友達で本当に良かった。

「黒子クン、ちょっとこっち来てよ」

 幸せに浸っていたのに、甘やかで棘のあるその声で呼ばれた瞬間、ボクの心地は底の底まで落ちた。
 声がした方を見れば、いつものように張り付いたような薄ら笑いで口元を歪めている黄瀬君がこちらをまっすぐに見ている。今は無理です、とよっぽど断りたかったが、ボクと彼の間には書面に認めているわけではないが賃借契約が結ばれている。
 普段ボクのことを露骨に見下している黄瀬君がボクの名前を呼んだことに不審そうな眼を向ける青峰君に断りを入れて、体育館から出て行く黄瀬君の後を付いていく。

「明日、新しいバッシュが発売になるから買い物に付き合ってよ」

 人気のない焼却炉の前まで来たところで歩くことをやめ、くるりとこちらを振り返った黄瀬君は表情を変えないままそう言った。明日は日曜日で、珍しく部活もない。月に一度あるかないかの完全なオフである。そんな日にまで、何が哀しくて黄瀬君の顔を見なくてはならないのだとは思うのだが、生憎とボクに断わる権利はない。

「……他のバスケ部の人と行けばいいんじゃないですか」
「みんな忙しそうっスから」
「では女の子と行けば」
「女の子に荷物持ちさせる訳にはいかないっス」

 なるほど、ボクは荷物持ちか。召使いくらいいくらだってやってやる。このくらい手酷く扱われた方が却って割り切れる。彼とボクはオトモダチでもチームメイトでもなく、お金を貸す側と貸して貰う側の関係でしかないのだ。
 無言でこくりと頷くと、黄瀬君はどこか安心したように小さく息を吐いた。



 翌日。午前十時に家まで来い、と言われるままに彼の家まで行くと、茶色のマフラーを巻いた彼は既に車に乗ってボクを待っていた。約束の時間まではまだ十分あるが、ボクの方が立場は弱い。一応、お待たせしました、と謝ると「別に暇だったからここにいただけで待ってないっスから」とそっぽを向かれた。なんなんだ。 招かれて後部座席に乗り込むと、柔らかい座席に身体が沈む。運転手がドアを閉めてくれるのも、音もなく走り出す車の震動も久しぶりだ。小さな密室での無言は居心地が悪い。こっそりと横に座る黄瀬君を盗み見ようと視線だけを動かすと、同じく目線だけでこちらを見ていた黄瀬君と目があってしまった。と、弾かれたように黄瀬君がそっぽを向く。なんなんだ。

「どっちの色が良いと思うっスか?」

 到着したスポーツ用品店で店員に出迎えられた黄瀬君は、あらかじめ用意されていた新作バッシュの黄色と赤色バッシュを並べ、ボクに意見を求めた。別にどっちでも構わないと言うのが本音なのだが、そう答える訳にもいかない。並べられたそれらをしばらく眺めてから、口を開いた。

「黄瀬君は存在が派手なので、赤の方が良いと思います」
「えー、そうっスか? 黒子クンって地味だしセンスないよね」
「なら聞かないでください」
「あ、店員さん、これ二つともちょうだい」

 結局二つ買うならいちいち意見を求めないで欲しい。真剣に考えたのにセンスを鼻で笑われ悪口まで言われ、釈然としない気持ちのまま、それでも表情は変えないよう努力しながら会計を済ませる黄瀬君の背中を呪詛を吐きながら睨みつけた。一方の黄瀬君は、嫌がらせが成功したことに機嫌を良くしたのか、呑気に鼻歌なんか歌っている。非常に腹立たしい。

「ありがとうございました!」

 九十度に頭を下げて見送ってくれた店員が出口で差し出した二つの袋を受け取ろうと手を伸ばす。ボクは今日、荷物持ちとして選ばれたからここにいる。黙々と自分の任務を遂行してとっとと解放してもらいたい。今日も働いてくれている両親に代わって家のこともやりたいし、明日までの宿題だってまだ終わっていないのだ。 二つの紙袋を受け取り、ここに来るまで乗ってきた車を探して辺りを見渡したが、妙に胴の長い黒塗りの高級車はどこにも見当たらない。どうみてもこの商店街に似合わない仰々しい車だ、見落とす訳がない。どこか駐車場にでも停めているのかと首を傾げていると、持っていた紙袋を横からひったくられた。

「ボク、荷物持ちなんですけど」
「そっちだけ持ってて」
「あと、車がいません」
「車は帰したっス。この辺見て回るのに車だとかえって面倒っスから」
「え、バッシュ買って終わりじゃないんですか」
「……オレの言うこと何でも聞くって約束でしょ」

 黄瀬君の言葉に反論をぐっと飲み込んだ。じろりとこちらを睨む彼の横顔はため息をつきたくなるほど美しい。せっかく綺麗な顔をしているのだから、もっと笑ってくれればいいのに、などと余計なことを考えていると、紙袋を持っていない方の手を掴まれて引っ張られた。

「わっ」

 急に引っ張るものだから、身体が反応出来ずに足がもつれる。傾きかけた身体に反射的に目を瞑るが、予想した衝撃は訪れなかった。代わりにふわりと優しい感触があって、ゆっくりと目を開けると目の前に茶色のマフラーが見える。見覚えのあるそれにゆっくりと視線を上げて行くと、至近距離に黄瀬君の整った顔があった。
 切れ長の目とそれを縁取る長い睫毛。肌は白くはないが透けるようで、高く通った鼻筋も薄い唇も、完璧なバランスで配置されている。遠目で見るとかっこよく見えても、近くで見るとそうでもないということはよくあるが、彼の場合はドアップにも余裕で耐えられる。本物の美形とはこういうものなのかと妙に感心してしまって、無遠慮にまじまじと凝視した。

「あ、あの、黒子クン……?」
「あ、すみません」

 無言のままあまりにも凝視しすぎて、黄瀬君が気まずそうにしているのにさえ気が付けなかった。彼がほんのりと頬を上気させて視線を逸らしながら居心地悪そうにしているのに気が付いたのは、彼に名前を呼ばれてようやくだった。

「君があんまり綺麗だったので、つい見とれてしまいました。不愉快にさせたのでしたらすみません」

 表情こそ読みにくく何を考えているのか分からないと言われるが、本質的に嘘が苦手で思ったことははっきりと口にする性質である。深く考えていなかったせいもあるし、大体が悪口でもなくどちらかと言えば褒めているのだから隠す必要がないとするりと口から零した言葉に、だがしかし、黄瀬君は想像以上の反応を示して見せた。

「はっ!? き、きれいって、は、な、いきなり何言ってるんスかあんた!」

 未だ間近にある端正な顔が、いよいよ赤く染まっていく。見慣れない反応におや、と興味深く観察を続けていると、転びかけたボクを支えてくれた時から背中に回されたままだった腕でもって、ぐいっと肩を掴まれて距離を取られた。
 残念な気持ちで、それでも彼のことをまっすぐに見つめ続けていると、黄瀬君は顔を真っ赤にしながら両手で顔面を隠して蚊の鳴く様な声で「あんまり見ないで欲しいっス……」と呟いた。
 あれ、なんだろう。百八十九センチの男がやって許される仕草でないことは確かなはずなのに、ちょっと、本当にちょっとだけだが、可愛く見えてきた。 モデルをやっているし、常に女の子達に囲まれている彼が、容姿を褒められることにここまで慣れていないとは思わなかった。こみ上げる笑いを頬の内側の肉を噛みしめることで堪えて黄瀬君、と名前を呼ぶと、黄瀬君は両手の隙間からそろりと目を覗かせた。

「すみません、もう見ませんから」
「ほ、本当に勘弁してくれないっスか! 黒子クンに見られても気持ち悪いだけなんスから」

 悪態をつかれても顔はまだ赤いままだから今までみたいに苛立ちを覚えたりはしない。生ぬるい気持ちでそれを見守り、笑いを堪えながらはいはい、と生返事で答えた。

「ほら、もう行くっスよ! 黒子クンはオレに買われてるんだから、今日一日奉仕してもらうんスから」

 そう言って先にずんずん歩き出した彼の後ろを早足でついて行く。高圧的な態度はとるが、もしかしたら思っているよりも可愛い人なのかもしれない。もっと素直になってくれればこの契約関係だって楽しくなるのに、自ら気まずくしてそれを壊すなんて、どれだけ不器用さんなのだ。ツンデレ要員は緑間君一人で足りているから、君はすぐにでもキャラを方向転換するべきですよ、と助言してやりたい。

「はい、頑張ります」
「せいぜいそうして」
「頑張って早くお金返しますから」
「……早くしなくていい」
「え、」

 前を歩いていた黄瀬君が急に立ち止まる。急いで彼の後をついて行っていたから、急に立ち止まれなくて彼の背中に思いっきり顔面を打ち付けた。「急がなくて良いから、何年かかってもいいっスから。早くしなくていい」

 振り向かずにそう言った彼の表情は見えなかったが、見れば耳まで真っ赤になっている。
 なんだ、この人、結構いい人じゃないか。

「ありがとうございます」

 そう返すと、彼はまた歩みを進めだした。



 結局この日は黄瀬君の買い物に付き合ったり、彼が好きだというカラオケに行ったりと充実した一日を過ごすことが出来た。驚いたのは、行く前は憂鬱で面倒だった彼との外出が、帰宅時にはまた出かけても良いかなと思い始めていた自分である。

「あ、バッシュ渡すの忘れてた」

 最初に立ち寄ったスポーツ用品店から預かっていた紙袋の一つを、黄瀬君に返すのを忘れたまま家に持ち帰ってしまった。外箱には黄色、と表示されている。ボクが赤をすすめたら散々文句を言われたから、黄瀬君はこちらの方が欲しかったのではないだろうか。 またツンデレを発揮されて色々と嫌味を言われる前に渡してしまおうと、学校に着いてすぐに黄瀬君の姿を探したが、教室に彼の姿はなかった。カバンはあるから、どこかには居るはずだ。そういえば、と昼食を買いに使いっぱしられた際にはいつも屋上まで届けさせられていたことを思い出す。もしかしたら、今もあそこにいるかもしれない。
 そう思い屋上に続く階段を上ると、外へと繋がるドアが少しだけ開いている。彼がいるのかな、と静かにドアを開けると、風に乗って囁くような声が聞こえてきた。黄瀬君が誰かと話しているようで、邪魔するのも悪いと思ったのだが、早くバッシュを渡してしまいたくて声のする方へと近付く。次第にはっきりと聞き取れるようになるその声は、黄瀬君と女の子のものだった。

「涼太、最近全然遊んでくれないからつまんない」
「オレも色々忙しいんスよ、ごめんね」
「えー、そんなこと言って私昨日見たんだからね。地味な人と一緒に遊んでたでしょ」
「は、見てたんスか?」

 唐突に聞こえた自分のことであろう話題に、つい足が止まる。このまま立ち止まっては盗み聞きになってしまうから、とっととバッシュを渡してこの場から去るべきだと頭では分かっているのだが、足に根が生えたように動かなくなった。

「あんなのと遊ぶなら私と遊んでよ」
「いや、そうは言われても……」
「なによ、涼太。私よりあんな地味な友達の方が好きなの?」
「は、何言って……、あんなの好きな訳ないだろ、誰があんな地味で何考えてる分かんない貧乏人なんか……!」

 自分が地味で何を考えているか分からないと思われていることなんてとっくに知っている。父親の事業が失敗して、家が貧乏なのだって間違いようが無く真実だ。だけど、なぜだか無性に腹が立った。
 案外いい人なのかもしれないと、この契約関係もそれほど悲観することはないのかなと思った矢先のことだったからかもしれない。簡単に期待したボクが悪いのだ。
 だけど、気が付いた時には持っていたバッシュを思い切り黄瀬君の後頭部めがけて投げつけていた。

「いっだ! くっそ、おい、誰だ……」

 さすがの黄瀬君も背後からの思いがけない攻撃には反応出来ずに、それは見事後頭部に命中した。声を荒げながら振り向いた彼が、ボクの姿を確認した途端に目をまるくして言葉を切る。

「昨日間違えて持って帰ってしまったバッシュ、お返しします」
「ちょ、ちが、黒子クン、」
「また何か命令があったら呼んでください。では、ボクはこれで失礼します」

 何か言いたげな彼を無視して言いたいことだけを言ってくるりと踵を返す。足早にその場から立ち去り、階段を下り始めたところで、ものすごい勢いで黄瀬君がボクの名前を呼びながら追いかけてきていることに気が付いた。

「黒子クン、待って! 待てって!」

 鬼気迫る形相に身の危険を感じ、ボクは全力で逃げた。校舎内にまだ人は少ないが、それでも全力で走り抜けていくボク達に生徒達は何事かと驚きを露わにしている。身体的能力は圧倒的に負けているが、一ヶ月前からバスケを始めた黄瀬君と小学校から日々バスケの練習を続けていた自分の経験値の差でどうにか逃げ切ってみせる。 息が切れるし足はもつれるが、ここで止まれば捕まってしまう。気力だけで足を動かし続け、後ろでボクの名前を呼び続ける声に耳を傾けないように必死で走り続けた。階段を上り、角を曲がり、空き教室の一つに入って教卓の影に隠れたところで息を殺す。かくれんぼになればボクに勝てる人間なんていない。
 教室の前を声が通りすぎていくのを確認してから、はぁっと息を吐いた。

「全く、なんて運動神経ですか……これ以上走っていたら確実に捕まっていました」
「そりゃ、黒子クンとは元が違うっスもん」
「本当に君は嫌味……、なんでここにいるんですか」

 ほっと安堵したのも束の間、教卓に上半身を預けて肩で息をするボクの目の前に、いつの間にか黄瀬君が立っていた。驚かせるのは得意でも、驚かされるのには慣れていない。ただでさえ呼吸が上がって脈が速くなっているのに、全く心臓に悪い。

「黒子クンが逃げるからでしょ」
「逃げるものは全部追いかけるんですか、君は」
「時と場合によるっスね」

 観念して上半身を起こし、ボクとは対照的に息一つ乱していない黄瀬君と真っ正面に向かいあう。

「あのさ、さっきのは違うっていうか……、いや地味で何考えてるのか分かんないってのは違わないけど」
「君何しに追っかけてきたんですか」
「いや、だから! 好きじゃないって言ったのは言葉のあやっていうか!」
「別に君に好かれているなんて思ったことありません。念を押しに来たんでしたら不要です」
「あー、もう! だから!」

 声を荒げたかと思うと、強引に肩を掴まれ、後頭部を固定される。眼前に広がるのは端正な黄色で、デジャヴ、と考えた瞬間に彼の顔がぼやける程に近付いた。

「……?」

 何が起きているのか分からなかったし、出来るものならばそのまま分からないでいたかった。だが、唇に押しつけられた柔らかい感触と離れて行くことで焦点が合いはっきりと見える様になった黄瀬君の顔面に、自分が今何をされたのかを嫌でも思い知る。

「……あの、」
「……」
「黄瀬君?」
「う、うわあああああ」

 黄瀬君は一瞬呆けた後、ボクが名前を呼んだのを合図に絶叫しながら後ずさる。こっちが心配になるくらい真っ赤な顔に、瞳には涙まで浮かべていた。いや、泣きたいのも被害者もボクなんですけど。

「ちょっと、黄瀬君? 君、一体どうしたんですか」
「ちが、ちが……!」
「落ち着いてくださいよ……」
「黒子クンのことなんか全然好きじゃないんスからね! 勘違いしないで欲しいっス!」
「はい?」
「え、えーと……あ、バ、バーカ!」
「えええ……」

 どこの小学生ですか。どん引きです。
 捨て台詞らしきものを吐き捨てた黄瀬君は、足をもつれさせながら転がるように教室から出て行った。被害者のはずなのに加害者の慌てっぷりに彼を非難する暇さえ与えられなかったボクは、ただ呆然とその場に立ちつくす。

「えええ……」

 もしかしなくても、ボクは相当面倒くさいのに好かれてしまったのではないだろうか。ここ数分の出来事を思い返してたどり着いた結論に、酷く頭が痛んだ。
 唐突に降りかかった貧乏よりもよっぽど厄介な事案に、ボクは頭を抱えることしか出来なかった。

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