黒バス | ナノ




天使パラレル

 天使になるためには千人の人間を幸せにしなくてはいけない。
 オレは気が付いた時にはもう天使見習いで、よく分からないが言われるままにひたすら人助け? ってやつを繰り返してきた。金が欲しいってやつには頭上から札束を降らせてやったし、女が欲しいと騒いでいた男の近くにいた女の心をちょっとだけいじって童貞を卒業させてやったこともある。奴らは決まって鼻息を荒くして喜び、オレの存在なんかには気付きゃしない。でもそれで構わない。オレは別にあいつらに気付かれたくてやっているのではなくて、自分が天使見習いで天使見習いはいつか天使にならなくてはいけないから人間を喜ばせているだけなのだから。そう、これはギブアンドテイクなのだ。

「タイガ、それじゃぁいけないよ」

 辺り一面真っ白な世界で、オレの隣に腰掛けているタツヤがそう言った。
 それは、あと一人の願いを叶えればオレは晴れて正天使に昇格出来ると息巻いていたある日の昼下がりのことだった。オレが天使見習いとして存在していた最初からそばにいて、先に天使に昇格していた友人兼兄貴分は諭すような口調と妙に優しい目つきでオレに語りかけてきた。

「タイガの人助けは本当の人助けじゃないんだ。人間の欲望を満たすだけなら、それは悪魔にだって出来る」
「でもあいつら喜んでたぜ? 問題ないだろ。オレはあと一人を喜ばせれば天使になれるんだ」
「タイガはどうして天使になりたいんだ?」
「変なことを聞くなよ。天使見習いは天使にならなくちゃいけない、そういうもんだろ」
「タイガ、違うよ。それじゃだめなんだ」

 タツヤは時々オレには理解出来ないことを言う。天使見習いが人助けをして天使になることは、人間が食事をして排泄するのと同じくらい普通のことなのに、今のタツヤはまるでオレのことを哀れな人間を見るような目で見ている。

「お前はこのままじゃ天使になれない」
「なんでだよ。千人幸せにすれば天使になれる決まりだろ」
「タイガが幸せにしてきた九百九十九人の人間は、本当に幸せになれたと思うか?」
「みんな喜んでたぜ」
「タイガ。君は愛を知らないからそう思うんだ」

 愛。神様や天使が人間に与えるもの。慈しむ心。それならオレだって知っている。大天使の講義で何回も耳にした。天使見習いとして活動するに当たって、真っ先に叩きこまれる概念だ。

「ああ、やっぱり分かっていなかった」

 なのに、タツヤはやっぱり少しだけ困ったように笑ってオレを見ることを止めない。その視線に居心地の悪さを感じて頭を掻いていると、彼はふっと息を吐き出した。

「千人を幸せにしても、愛を知らない見習いは天使になれないんだ」
「だから、オレは知ってるって」
「タイガ、よく聞いて。あと一人だけ猶予がある。残り一人を幸せにする時はお前の姿を見せて、言葉を交わして、その人が本当に欲しいものを知ってから叶えるんだ」

 天使ってのは人間の心が大体把握できる。見習いだって、天使ほどではないがある程度の願望を感情の色で見分けることができるのだ。なのに、なんでそんな面倒なことをわざわざしなくてはいけないのか。
 抗議の為に口を開きかけたところで、ふっと身体を押される。そうして気が付いた時、オレは公園のベンチで寝転がっていた。

「わ」

 ぱちりと目を開けた瞬間、空色が目に飛び込んできた。それでオレは自分が仰向けになっていたことに気が付く。指先と鼻の頭がひどく冷たくて痺れている。吐く息が白くて、それでようやく今この世界が冬であることを知った。
 起き上がってベンチに浅く腰かけて、周囲を見渡す。まばらに生えた枯れ木に、子どもがいない公園。遊具はブランコと滑り台だけだが、フェンスを挟んで隣にはバスケットのコートが設置されていた。太陽は沈みかけているが、まだ夜と呼ぶには早い。この時間に誰一人もいないということは、あまり利用されていない場所なんだろうなと検討をつけながら両手を擦り合わせて息を吐きかけた。

「寒いでしょう」
「ああ、寒いな」
「なんでこんな所で寝ていたんですか。死にますよ」
「死なねぇよ、オレ天使だし」
「……は?」

 そこまで会話を交わして初めて気が付いた。オレは一体誰と話しをしているのだ。
 目が覚めた時には周囲に人間の気配はなかった。腐っても天使見習いだ。人間よりもずっと嗅覚も感覚も鋭い。なのに、今オレの右隣には確かに人間が座っていて、彼はまるい空色の目でオレのことをじぃと見上げている。

「……寝ぼけているんですか、電波さんなんですか」
「おま、いつからそこにいた!」
「君が目を覚ました瞬間から目の前にいました」

 感情が読めない瞳は真っ直ぐにこちらを見つめている。確かに目を開いた瞬間に見えたのは眼前いっぱいの空色だったが、人間が目の前にいたなんて全く気が付かなかった。空色の頭髪と同色の瞳は、まるで死んだ魚のように感情が読めない。大きくまるい目のせいで少しばかり幼く見えるが、手を見ればさほど小さくはない。中学生くらいだろうか。オレを見上げる目は痛いくらいに真っ直ぐだ。
 
「ああ、寝ぼけているんですね」

 気配のないところから突如現れた人間に驚き呆けてまともに言葉を吐き出せずにいるうちに、相手は抱いた疑問を自分の中だけで解決してくれたようだ。うんうんと頷くと、それでオレへの興味を失くしてしまったのか真っ直ぐに前を向いて手元の茶色いボールを手でくるりと回す。その途端、てのひらからボールが落ちてテンテンと音を立てて転がっていった。
 水色の髪の毛をふわふわとなびかせながらボールをとてとてと追いかけて行く。その後姿をぼんやりと見ているうちに、自分がここにいる理由を唐突に思い出した。
 そうだ、オレは残り一人の願いを叶えて正式な天使にならなくてはいけないのだ。やけに存在感が薄くて気を抜けばすぐに見失ってしまいそうではあるが、こいつは間違いなく人間である。普段、人間の願いを叶える時、オレ達は彼等に存在を悟らせないよう姿を見せないまま活動を行っている。間違いなく人間であるこいつにオレの姿が見えているのは、恐らく目が覚める前のタツヤの言葉と関係があるのだろう。
 タツヤは、最後の一人には姿を見せて言葉を交わして願いを叶えろとオレに言った。なんでそんな面倒なことをしなければいけないのか理解できないが、あいつはあれでも位の高い天使だ。あいつが言うのだから、その通りにしなくちゃオレは天使になれないのだろう。たぶん。
 姿を見せて言葉を交わして、というのはなかなかに面倒くさい。今までの九百九十九人は適当にやってきたのに、どうして最後の一人で時間を掛けなくてはいけないのだ。さっさと終わらせて、天使に昇級して使いっぱしりの見習いではなくて正天使になりたい。今から他の人間を見つけて姿を見せて会話をするのは面倒だ。せっかく会話が成立したし、何やらオレの存在にもさほど驚かずになかなかの適応能力を見せてくれたこの人間の願いを叶えてやろうじゃないか。

「おう、お前」
「なんですか」

 寒さで赤くなった両手で、転がっていったボールを拾い上げてから彼はこちらを振り向く。目の前にいるのに瞬きをした瞬間に消えてしまいそうな影の薄さに、なんだか少しだけ背中がそわそわした。

「お前の願いを一つだけ叶えてやるよ」
「は?」
「だから、お前の願いを一つだけ叶えてやるって言ってんだよ! ほら、早く言え」
「突然そう言われましても……」

 オレの発言は予想だにしないものだったのだろう。ボールを抱き抱えて瞬きを一つ、首を傾げている様子は困っているようにも見えたが、表情が変わらないので本当は何も感じていないのかもしれない。
 無言のままオレのことを真っ直ぐに見つめている視線の居心地の悪さに耐えながら、続く言葉を待つ。待つ。待つ。忍耐強く三十秒ほど待ってみたが、一向に返って来ない相手からの反応に、決して我慢強いとは言えないオレが待てなくなるのは時間の問題であった。

「あー! もう、だからよぉ、お前の願いを何でも一つ叶えてやるって言ってんだよ! オレだって暇じゃねぇんだから早くしろよ!」
「なんでボクの願いを叶えてくれるんですか」
「天使になるために決まってんだろーが」
「……すみません、ボクちょっと用事があるので」

 「天使」と単語を口にした途端に硬直し、くるりと振り返って逃げようとする相手に一気に間合いを詰めてダッフルコートのフードを掴む。ぐぇっと轢かれたカエルみたいな声がして、錆びたブリキのおもちゃみたいな動きで振り返った奴の目にはうっすらと涙の膜が張っていた。

「離してください」
「離すかよ。お前、ぜってーオレのこと変な奴だと思ってだろ」
「……思ってませんよ、変な奴だなんて。天使様だと思ってます、だから離してください天使様」
「信じてないだろ! わかりやすすぎんだよ、舌抜かれんぞ!」

 地獄の事情については管轄外で、実際に嘘を吐いた人間が舌を抜かれるかどうかは知らないのだが、咄嗟に口を吐いて出た言葉に奴は両手で口元を押さえた。その拍子に、またボールが落ちて転がっていく。
 人気のない公園の乾いた空気に、ボールが転がる音がてんてんと響いた。
 口元を押さえたまま、空色の両目でうさんくさそうにオレを見上げる視線に、これ以上説明するのが面倒になってきた。手っ取り早く任務を完了させたいのだ。嘘を吐かない範囲であれば、納得してもらえればそれでいい。

「変な奴でも別に構わねぇよ。とにかく、お前の願いを叶えないと家に帰れないんだ」
「お母さんとケンカでもしたんですか?」
「母さん……どっちかっつーと兄貴に近いな」
「お兄さん? それなら、こんなことするよりも謝った方が良いと思いますけど」
「だー! もうめんどくせぇ! 良いから人助けだと思って願いを叶えさせろください!」

 両肩を掴んでくるりと向きを変えてやり、大きな両目を正面から覗きこむ。死んだ魚のような、と感じた空色のまるい目は、よくよく見れば夕陽を映しこんで奥の奥が炎のようにちらりと揺れている。長い睫毛が揺れる度に、火花のようにそれが弾けた。

「……人助けだと言うのでしたら、まぁ」
「いいのか!」

 更に距離を縮め、鼻と鼻がくっつきそうな距離で確認をとると、不機嫌そうに眉をしかめて思いっきり顔に手を当てて引き離された。遠慮のないその手つきに、鼻が潰れて変な声が出る。畜生、なんだこいつ天使(見習い)になんて態度とりやがる。

「でもすぐには思いつきませんから、少し時間をください」
「したいことや欲しいものの一つや二つあんだろ? 急いでるんだから、それでいいよ」

 ぎりぎりと顔面を押しつける手を払いのけて、肩で息をする奴を見る。無表情ではあるのだが、それが少しだけ暗くかげったような気がした。両目の奥に見えていた小さな光が、今はすっかり消えてしまっている。

「思いつく願いは、君に叶えて貰っても意味がないものですから」

 そう言われて、どうしてだろう、オレは何も返すことが出来なかった。



「またこんな所で寝て……。君はよっぽど死にたいんですね」

 頭上から降ってきた呆れた声と思い切り身体を揺すぶられる感覚で目を覚ますと、眼前いっぱいに広がったのは空色だった。ぼんやりとした頭でなんか見たことある光景だなと考えているうちに、目の前の空色が天に広がるものでなくて、影の薄い少年の持つ色だと気が付いてあ、と小さく声をあげる。
 こいつを待っているうちに眠たくなって、公園のベンチで横になってそのまま寝てしまっていたらしい。寒さは感じるが、死ぬほどではない。と言うか、死なない。オレ天使だし。

「だから死なねーっての」
「確かに君は見るからに頑丈そうですが、いくらバカだって風邪をひく時はひくんです」
「お前、今オレのことバカって言ったか」
「知っている人が野たれ死ぬのは夢見が悪いからやめてくださいね」

 無表情で影も幸も薄そうだが、案外にストレートで口が悪いようだ。眉一つ動かさずに淡々と吐き出された悪口だが、本人に悪気はなさそうである。腹が立ちてめぇ、とすごんでみたが、一切気にする様子もなく飄々としている。
 これ以上は時間の無駄だと割り切って、早いところこんな茶番を終わらせようと考えながら頭を掻いた。

「で、願い事は?」
「はい?」
「はい? じゃねぇよ、今日までに考えてくるって言ってただろ」
「言ってません。考えてみるとは言いましたが」

 両手で茶色いボールをくるりと回し、その回転を空色の双眸で追いかけながらの言葉は素っ気ない。無心でそれを回し続けているうちに、ボールが手から離れててんてんと地面に落ちた。
 昨日も思ったのだが、大事そうに両手で抱えている割にこいつはボールの扱いがうまくない。好きこそもののもののの……なんとかって言う言葉があったと思うのだが、こいつにはそれは当てはまらなさそうだ。両手で壊れ物のように抱えていかにも宝物ですってな体でボールを持っているくせに、それを見る両目には傷付いた色が浮かんでいる。
 こいつは特に感情が読みにくくて、天使見習いの能力を使ってもうまく感情を読み取ることが出来ない。だけど、表情よりも色が現れやすい両目には光が灯ったり消えたりと忙しなく、表情ほど無感情ではないことだけはなんとなく分かるのだが。何でこんな面倒くさいのを最後の一人に選んじまったかな、と後悔してももう遅い。これ以上他の人間に関わっても、最悪「自称天使な電波さん」として警察に突き出されることになりかねない。タツヤくらいの能力があればこの仕事も楽だったのに。
 ああ、違う。タツヤくらいの能力を得る為にこいつの願いを叶えようとしているんだったっけか。

「お前、欲ねぇなぁ」
「まさか。ボクは相当強欲ですよ」
「どこがだよ。そうだな……、よし。お前、腹減ってねぇか」
「いえ、それほど」
「よし、じゃあ行くぞ」

 人間、腹が減ってるとイライラしたり力が出なかったりと本来の力を発揮できなくなるものだ。空腹で倒れて、周囲に存在を無視されながら餓死寸前だった男は、食べ物を与えたら涙を流しながら喜んでいた。こいつだって、腹が膨れてないからこんな辛気臭い顔をしているに決まっている。人間が、腹いっぱいになってこんなタンスの乾燥材みたいな顔をする訳がないのだ。

「お前、なんでそれしか食わないんだよ」

 オレは基本的に食事を必要としないし、こいつの好きそうな食いもの屋など知ったこっちゃない。だから、本人に好きな食いもの屋を教えろと迫って連れてきたこのファーストフード店でだがしかし、目の前のこの男は無言でバニラシェイクを啜るだけだった。

「だってボクお腹空いてませんし」
「はぁ!? お前、育ちざかりって年頃なんじゃねぇの?」
「中学三年生が誰も彼も大食いだと思ったら大間違いですよ」
「威張るな」

 問答無用で幸せにしてやろうとカウンターで注文した大漁のチーズバーガーは、一つとして手をつけられずにトレーに残ったままになっている。腹が減ってないとは言っても、放課後の中学生男子だ。一つや二つくらい食うだろ、普通。

「大体がこんなに食べきれるはずがないでしょう」
「いや、だってお前が……」
「ボクはお腹が空いていないと言いました。タイガ君、君が責任を持って食べてください」
「はぁ? オレは食いものなんか食べる必要ない……」
「まさかこれ全部無駄にするつもりですか? 罰が当たりますよ」

 光の灯らない淀んだまるい目で真っ直ぐに見据えられるとどうにも居心地が悪い。しかもよりによって罰が当たるだなんて、それはちょっと穏やかではない。なんでオレが人間のこいつにそんなことを言われてビビらなくてはいけないのだ。
 そうは思うのだが、こいつのまるい目には言葉に説得力を持たせる妙な力があるようだった。じぃと見詰められているうちに居た堪れなくなったオレは、悔し紛れに一つチーズバーガーを取って一気に口の中に突っ込む。

「ほれでまんふぉくかふぉ」
「口の中に食べ物をいれたまま喋らないでください。そしてまだまだチーズバーガーはたくさんあります。全部食べてください」

 一つ食べたところで奴の気持ちは変わらないようだ。両手でバニラシェイクを持ちながら、未だにこちらを見据えている。
 そっちがその気ならやってやるよ、と意味が分からない対抗心で、山になっているチーズバーガーの包みを次々と剥いては口いっぱいに頬張る。そうしている内に、突然舌が痺れて頬が痛くなった。その感覚にびっくりして両手に持っていたバーガーを凝視していると、奴が不審そうに小首を傾げる。

「どうかしましたか?」
「いや、なんつーか、これ……」
「? さすがにお腹いっぱいになりましたか」
「いや、違う。もっと食える」

 舌が痺れて頬は痛むが、腹の奥の方がぎゅーっとなってチーズバーガーを見ているだけで喉がごくりとなる。不思議な感覚なのだが、もっとこれを噛んで腹の中におさめたいと言う欲求がふつふつと湧いてくるのだ。この感情は一体なんだ。

「ああ、君チーズバーガーが好きだったんですか。おいしいですよね」

 おいしい。
 ああ、これが人間の言う「おいしい」って感覚なのか。食いものによる栄養補給を必要としないオレ達は、基本的に食べ物を口にしない。だから、味覚もない。それなのに、今ここでこいつとチーズバーガーを食べることによって唐突に味覚が目覚めてしまったらしい。
 そうと自覚した途端、盛大に腹の音が鳴る。勢いをつけて、黙々と目の前の山を食べ続けるオレに、奴は呆れたような視線を寄越してからまたバニラシェイクを啜った。



 結局この日も奴の願いを叶えることが出来ず、それどころかオレが初めて感じた味覚に感動して店中のチーズバーガーを食いつくすと言う荒行をやってのけて終わってしまった。こいつには、「責任取れとは言いましたが、さすがにやりすぎです」と怒られた。理不尽じゃねぇの、それ。
 次こそは願いを叶えて、悠々自適の天使生活を送るのだ。そう意気込んで、別れ際には明日は絶対に願いを考えてこいと念を押した。奴が来るのを誰もいない公園のベンチで一人座って待っていたのだが、またしてもいつの間にか眠っていたらしい。頭上から降ってきた呆れた声と思い切り身体を揺すぶられる感覚で目を覚ますと、眼前いっぱいに広がったのは空色だった。

「君には学習能力というものが欠如しています」
「ケツジョってなんだよ」
「……知識も欠如してますね」

 意味は分からないがバカにされていることだけは何となく理解出来た。腹が立ったからオレの視線よりもだいぶ低い位置にある頭を力任せに掴んでやったが、思い切り脛を蹴られてこっちの方が涙目になった。本当に、見た目に似合わず好戦的な奴である。
 寒気にぶるりと身体を震わせていると、隣に奴が座る。冬の空気に混じって、清潔な香りが鼻を擽った。

「おい、今日こそは願い事考えてきただろうな」

 問い掛けると、膝の上のボールをじぃと見つめていた空色の両目がふいとこちらを見上げて、それにまた居心地の悪さを感じて反射的に目を逸らす。

「考えました」
「おお! じゃあ早速、」
「でも、考え付きませんでした」

 その声が嫌に寂しげで、気になって横目で隣を見れば、空色はもう既にこちらではなく膝の上のボールに戻されていた。それが少しだけ残念に感じたが自分の頭を振ってそれを誤魔化す。こいつに見られていると居心地が悪いんだから、見られていない方がよっぽど良い筈なのに意味が分からない。

「お前なぁ……」
「すみません」
「悪いと思ってないだろ。ああ、もう良いよ」

 今まで願いを叶えてきた九百九十九人の中で一番多かったのが金、その次が女だった。どんなお堅そうな男でも胸が大きくて唇の分厚い女をそそのかしてくっつけてやれば、すぐに鼻の下を伸ばしてただの雄になる。子孫を作る必要がある種は大変だなぁと、それを他人事のように眺めていたのだが、今その知識を活かす時が来たようだ。
 耳を済ませてきょろきょろと周囲を見渡す。その様子を見て、奴がまた呆れた顔でこちらを見ているのが分かったがそんなことは構っていられない。今はちょうど下校時間だ。この公園自体は人が少ないが、きっと近くにこいつと同い年くらいの女がいるはずだ。そう考えて神経を研ぎ澄ませていたら、やはり風に乗って甘い香りが漂ってきた。

「ちょっと待ってろ!」

 無表情にぽかんとしている奴を一人残して、公園を飛び出た。右に曲がって四百メートル程走れば、思った通りだ。あいつと同じ年くらいの胸の大きな女が歩いている。柔らかな桃色の長髪が歩く度に揺れる。おそらく、滅多にお目にかかれないレベルの美人だろう。
 眉間に力を入れて睨みつけると、女の背中がびくりと揺れた。これで良い。後は、二人が勝手にやってくれるだろう。女が頬を染めながら公園へと走り去っていくのを横目で見送り、その後をこっそりと付いていった。
 しきりに周囲を見渡しながら公園に入った女は、普通なら影が薄くて気が付かないあいつの存在にすぐに気が付いた。ぱあっと目を輝かせると、一直線にあいつ目がけて走り出す。その勢いのままベンチに座る奴に抱きつき、その瞬間微かに「ぐえ」とカエルが潰れたような声が聞こえた。

「あの、あのっ! 好きです!」

 女は制服の上からでもはっきりと分かる巨乳を押しつけながら、上目遣いで奴を見上げている。思春期真っ只中、異性が気になって仕方ない盛んなお年頃だ。いくら無表情無感情でストイックに見えても、ここまであからさまに迫られてなびかない中学生男子はいないだろう。

「私のこと好きにしていいから、付き合ってください!」
「あの、く、苦しいです……離してください」
「あ、やだ、私ったら……! ごめんなさい」

 プロレスの技でも決めているのか思うほどの勢いでしがみついていた女が、品を作って身体を離した。奴はごほごほと咳き込みながら肩で息をしている。それさえもうっとりとした面持ちで両手を合わせて見守っているのだから、我ながらうまいことコントロール出来たなぁと思う。
 しばらく苦しそうにしていたが、そんな熱視線に気付いた奴はいつも通りの無表情に戻り、女の顔を真っ直ぐに見詰めている。顎に手を当てて、何かを考え込んでいるようにも見えた。

「すみません、少し待って頂けますか」

 そう女に言い残して、奴は木の影に隠れていたオレを目ざとく見つけて真っ直ぐにこちらに向かってきた。無表情のはずなのに、奴の周りの空気が怒りを含んでいるのが手に取るように分かる。こんな小さな奴に怒られても怖くなどないのに、反射的に引きつる頬を誤魔化すことが出来なかった。

「君ですか」

 オレの前でぴたりと立ち止まり、オレより二十センチ以上低いのに威圧感が半端ない。まるい目を細めてオレを睨みつける背後に、悪魔のような黒い影が見えた。

「何のことだ」
「とぼけないでください。君があの子に何か吹き込んだんでしょう」
「し、知らねぇよ」
「君、嘘吐くの下手くそなんですから、無駄な抵抗はやめてとっとと白状してください。怒りますよ」
「もう怒ってるじゃねぇか」
「わかっているなら早くどうにかしてください」

 じりじりと距離を詰められて、逃げようと少しずつ後ろに下がるが木にぶつかって逃げ場を失う。ずいっと顔を近付けられ、その威圧感に耐えきれなくなったオレは気が付けばギブアップを叫んでいた。

「あー、もう分かったよ!」

 途端、一定の距離を保ちつつもずっとこちらを見ていた女の蕩けていた表情が元に戻る。現実に戻り、自分が何故ここにいるのか理解出来ずにいるのかきょろきょろと周囲を見回していた。女の様子を見て、奴はオレから離れてゆっくりと女に近付いた。

「すみません、変なことに巻きこんでしまって」
「は、え……?」
「もう大丈夫ですから。安心してください、ね?」

 自分が何故ここにいるのか分からずに不安そうにしている女に、奴は今までオレに見せたことがない柔らかい笑顔を向ける。安心させるためにゆったりと話しかける奴を前に、女の顔がコントロール時と同じとろけたものに変わっていくのがここからでも見て取れた。……なんだこいつ、案外モテるのか。

「ありが、ありっ、ありがとうございます!」

 顔を真っ赤にして盛大にどもって覚束ない足取りで公園を出て行った女を見送ると、奴は身体の向きをくるりと変えて正面からオレを見上げてきた。さっきほどではないが、今もまだ眼光は鋭いままだ。

「なんであんなことしたんですか」
「いや、だってよぉ……」
「だって、じゃありません。人の心を簡単に考える人は嫌いです」
「おい、ちょっと」
「今日はもう一緒にいたくありません。少しは反省してください」

 引きとめようと差し出した手は拒絶の言葉と一緒に払いのけられる。地面に転がっていたボールを拾い上げると、こちらを振り向くことなく、奴は公園から出て行った。



 次の日、奴は公園に訪れなかった。
 いつものように奴を待っているうちに眠ってしまっていて、いつもなら呆れながらも奴がオレのことを起こしてくれていたのに、今日は誰も起こしてくれなかったから目が覚めた時には既にとっぷりと日が暮れていた。すっかり冷え切った身体を両手でさすりながら吐いた息は白い。鼻の頭が寒さで痺れているが、これだって人間と同じように見せるために見た目の色が変化しているだけで、寒いからと言って風邪をひくだとか不具合が起こることはない。
 昨日の別れ際、奴は相当怒っているように見えた。もしかしたら、今日ここに来なかったのはそのせいなのだろうか。少しばかり人の心をいじっただけなのに、何をそんなに怒る必要があるのか。結果的に幸せになれるのだから、問題ないじゃないか。そうは思うのだが、奴の空色の両目が鋭く歪められてオレに対して敵意を向ける奴の表情を思い出せば胸の奥がじんじん傷んだ。
 オレ達の身体は見た目こそ人間と似ているがその中身は全く違う。肌を切って赤い液体が流れてもそれは血ではないし、いくら寒くても凍死したりはしない。なのに、このじんじんとした痛みを感じた途端、どうしようもなく気分が落ち込んでまるで風邪でもひいたみたいに身体がだるくなった。風邪なんかひいたことないから、実際こんな感じなのかどうかはわからないのだが。
 腹の奥のもやもやがうっとうしくて、それを追い出す為に頭を振る。その動きのせいで視界に入ってきたのは、人気のない夜の公園に隣接しているバスケコートだった。明々と光る街灯の下に、何かまるいものが転がっている。近付いてみると、それはいつもあいつが大事そうに両手で抱えているものと同じタイプのボールだった。
 それを手に取り、妙に手に馴染むそれを片手で放る。ボールはくるりと一回転してから、オレの手の中にすっぽりと収まった。なんだ、あいつがいっつも落としてるから持ちにくいものかと思ったら、こんなにも扱いやすいものだったのか。
 試しに数回地面にそのボールと叩きつけると、軽快な音を立てて地面から跳ね返ってきたそれをもう一度てのひらでつく。それを繰り返しているうちに、何故だか目に入ったゴールにこのボールを入れてみたくなって、ボールをつきながら走り、ジャンプして思いっきりそれを叩きこんだ。静かな夜の公園に、ゴールが軋む音が響く。

「おお、なんだこれ……」

 不思議と気分が高揚する。ボールをついていた両手を見つめて、もしかして奴はこの感覚を味わいたかったんじゃないかと考え付いた。あいつはすぐにボールを落としていたから、きっとバスケが下手くそに違いない。だから、うまくなりたくて毎日ボールを持ってこの公園に来ていたんじゃないか。

「なんだよ、それならそうと早く言えっての!」

 そうと決まれば話しは早い。今日奴が来なかったのはきっと、用事があったとかちょっと調子が悪かったとかそんな感じだろう。だってあいつ、白くて弱そうだし。あいつが来るまでの間、バスケをもっと調べておいてあいつが来た時に教えてやればいい。
 オレは調査のために、足早に公園を出た。



「おい、バスケやんぞ」

 結局、あいつがまたこの公園にやってきたのは奴が怒っていた日から三日後のことだった。
 なかなかここに来ないあいつを待つのはじれったかったが、待っていればその内来るだろうと考えて黙々と練習を続けていた。奴がここに来るまでにもっとバスケの練習をしてうまくなっていれば、あいつがまたここに来た時にもっともっと喜んでくれるに違いない。
 電気屋の店頭でアメリカ人たちのプレーをひたすら観察して、これならば出来るだろうと張りきって練習を始めたがこれがなかなかに難しい。いかにも簡単そうにやっていたからすぐに出来ると思ったのに、見るのと実際にやってみるのとでは大違いなのだ。出来ないことがたくさんあって、でも繰り返していくうちに少しずつ出来るようになっていくのが楽しくて仕方なかった。
 時間を忘れて一人で練習を続けた。しっかりと上まで閉めていたダウンのジッパーを下げて、それでも暑くてしまいには長袖一枚でコート中を走り回る。夢中になっていたから、声を掛けられるまであの影の薄い男がそこにいることに気が付けるはずもなかった。

「タイガ君、タイガ君ってば」
「うっわぁ! なんだよ、お前、いつからいたんだよ、びっくりさせてんじゃねぇ」
「三十分前からいました」
「は? なら声掛けろよ」
「掛けましたよ、何回も。でも君、夢中で気が付かなかったんじゃないですか」

 額から流れ落ちる汗を手の甲で乱暴に拭うと、奴が鞄の中をごそごそと漁ってタオルを一枚渡してくれた。ありがたくそれを受け取り、顔と汗で濡れた髪を拭く。ふぅと息を吐くと、今度はペットボトルを一本差し出された。

「しっかり水分補給しないと倒れちゃいますよ。いくら君が天使でも」
「……お前、信じてないくせによくそんなこと言えるな」

 基本的に飲食が必要ないのだが、差し出されたスポーツドリンクはやけにうまそうに見える。受け取り、それを口に含むと、乾いたスポンジみたいに一気にそれを飲み込んだ。喉を通り過ぎる液体の冷たい感触が気持ち良い。

「君、バスケ出来たんですね」
「あ? 練習したんだよ」
「なんでですか」
「お前とバスケをしたかったから」
「は、」

 空になったペットボトルを捨てようとごみ箱を探すが、残念ながら近くに見当たらない。持っているのが面倒なので、手ひどく返されるであろうと予想しつつそれを目の前の呆けている少年に押しつけるが、あっさりとそれを受け取られた。
 「ごみくらい自分で捨ててください、子どもじゃないんですから。知識は子ども程度ですけど」くらいは言われると思ったのだが、まるい目を大きく見開いて、オレのことを真っ直ぐに見上げている。動く気配のない奴の眼前で手を振ってみると、唇を一文字に引き結んで辛そうに顔を歪めた。

「なんで、君がそれを言うんですか……」
「は? 何言ってるんだ、お前。良いから、ほら、やるぞ」

 立ち尽くしている奴の小さな手を引いて、コート上に引きずり込む。ゴール下に転がっていたボールを拾い上げて、思いっきり奴にパスを出した。ぱしりと音がして、それがすっぽりと奴のてのひらに納まる。

「なんだ、お前ちゃんとボールキャッチ出来んじゃん」

 にかっと笑って見せると、また奴の顔が泣きそうに歪んだ。



 それからどのくらい二人で練習を続けていただろうか。奴がここに来た時には傾きかけていた太陽は、気が付いた時にはすっかりその姿を隠していた。さっきオレが貰ったのが最後の飲み物だったみたいで、フェンスに背をあずけて死んだように動かない奴とオレの分を近くの自販機で調達する。冷たいそれを頬に当ててやると、ゆっくりとこちらを向いた両目の奥には確かに光が見えた。

「一人でも楽しかったけど、二人でやる方が楽しいな」
「君……本当に初心者ですか……」
「おお、二日前に始めたばっかりだぞ。お前よりうまいけど」

 そう言えば奴は死にそうな顔をしながらも無言でオレの脇腹を突いて来る。なんて好戦的な奴だ。
 空を見上げれば雲一つない夜空に、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。

「……本当は、もうここには来ないつもりだったんです」
「オレが怒らせたからか」
「それもありますけど……、それだけじゃありません」

 膝を抱えて遠くを見ている横顔は、ひどく痛ましく見えた。普段から影の薄い奴だが、目を離せば一瞬でその姿を消してしまいそうで、オレは瞬きするのも惜しんでその白い横顔を見つめた。

「ボクはここでずっと、友達を待っていたんです」
「友達?」
「ボクにバスケの楽しさを教えてくれた友達です」
「なんでそいつ、ここに来ないんだ?」

 目をきつく瞑ってから、こちらを見て薄らと笑いながらそう言う。その貼り付けたような薄い笑顔は、どう見たって無理をした作り笑いだ。無表情で遠慮がなくて手も早いくせに、何でこんな時だけ無理するんだよ、こいつ。

「バスケが、楽しくないって言ってました」

 街灯は明々と灯っているし、ぽっかりと浮かんだ丸い月明かりで夜でもそれなりに明るい。白い頬に涙はこぼれていないのははっきりと確認できたが、どうしてだか泣いているように見えて、気が付けば奴の柔らかい頭髪をぐしゃぐしゃにかき乱していた。

「子ども扱いしないでください」

 言いながらも、オレの手を払いのける気配はない。

「お前は?」
「はい?」
「お前は今日、オレとバスケして楽しかったか?」
「……はい、とても」
「なら、オレで良いじゃねぇか」

 月明かりが空色の両目に反射する。眩しそうに細められたそれからは、もう苦痛の色は見えなくなっていた。

「オレがお前の友達になってやるよ」
「本当ですか」
「ああ。それで、毎日お前とバスケをしてやる」

 右手を握り、こぶしを突きだす。少しだけためらってから、オレのものよりも一回り小さな握りこぶしがそれに合わせられた。

「ありがとうございます、とても、嬉しいです」



 目が覚めた時、そこは見慣れた真っ白い世界だった。

「タイガ、よく頑張ったね。これでお前は天使になれるんだ」

 オレが目を覚ましたのは頭上から降ってきた呆れた声と思い切り身体を揺すぶられる感覚のせいではなく、居心地の良いふわふわした心地とあたたかな気温のせいだった。
 優しく微笑むタツヤを見て、オレは自分があいつの願いを叶えることが出来たことを知った。ああ、そう言えばあいつの名前すら聞いていなかったな。

「今日からはもう、下界に降りる必要はないからな」
「は、なんでだよ」
「下界に降りるのは見習いの仕事さ。お前はここでその報告を取りまとめていればいい」
「だめだ! あいつと約束したんだ、毎日バスケするって」
「タイガ、」

 タツヤが言うことを聞かない子どもに向けるみたいな顔で、言い聞かせるようにオレに語りかけてくる。居心地の良さに、落ち着かなさを感じた。

「お前は天使なんだ。わがままを言ってはいけない」
「なんだよそれ! それならオレは天使になんかならなくていい!」
「……本気で言ってるのか」
「当たり前だろ!」

 勢い良く立ち上がり、座ったままオレを見上げるタツヤを睨みつける。見習いよりも上級の天使になるってのにそんな制約が出来るのなら、そんなつまんねぇ仕事はまっぴらごめんだ。

「オレは、天使になんかならねぇ!」

 ふっと視界がフェードアウトしていく。身体が斜めに傾いていく感覚はあるのだが、自分で態勢を立て直すことは出来ない。遠くなっていく意識の中で、タツヤの声が聞こえた気がした。

「天使の頃の全てを捨てるんだ。それを受け入れられるのなら、お前は約束を守ることが出来るようになるよ」



 目が覚めた時、眼前に飛び込んできたのは見覚えのある自分の部屋の天井だった。
うるさく鳴り響くアラームを乱暴に止めてあくびをする。まだ寝足りないが、今日は高校の入学式だ。さすがに遅刻するわけにはいかない。簡単な朝食を済ませ、真新しい制服に袖を通す。ジッパーを首の上まであげてみるが、窮屈だ。三秒と我慢出来ずに全開にした。
 今日から通うことになる高校は去年出来たばかりの新設校らしい。だが、そんなことはどうだっていい。オレは、バスケが出来ればそれでいいのだ。

「おもしれぇ奴がいると良いんだけどな」

 ひとりでに口から漏れた言葉は心からの本音だった。誰でも良い、オレにバスケを楽しいと思わせてくれる奴と出会いたい。
 窓から外を見れば、風が桜の花びらを散らしている。それは、日差しが心地好い春の朝のことだった。

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