黒バス | ナノ




官能小説家1


 騒がしい毎日に嫌気がさして、この落ち着いた雰囲気の喫茶店でアルバイトを始めて半年、気になる人が出来た。
 小さな頃から周りに人が群がってきた。客観的に見てもルックスはずば抜けて良かったし、背も高い。加えて運動も得意で、帰宅部なのに部活のエースに勝つのなんか朝飯前で、体育の授業中は学校中の女の子がオレに視線を集中させていた。
 初めて告白されたのは幼稚園の頃、チューリップ組の京子ちゃんから。みんなの前で彼女に告白されて目を丸くするオレを余所に、クラスの他の女の子たちはこぞって「私の方がりょうたくんのこと好きだもん!」と言い出して意味のわからない争いになり、チューリップ組は一時戦場と化したことを覚えている。
 小学校、中学校、高校と進むに連れてそれはエスカレートしていき、そんな毎日に疲れてしまった。だから、大学は地元を離れて誰も知らない土地へ行こうと決意したのはごく自然な流れだった。
 誰もオレを知らない場所で、少し地味にしていればみんなオレのことを放っておいてくれる。だがしかし、オレは自分のことを過小評価していたらしい。黒ぶちの伊達眼鏡をしてパーカーにチノパンというラフでシンプルな恰好で繰り出した大学生活初日。広い講堂で隣に座った女の子が落とした消しゴムを拾って微笑みながら渡したその瞬間、周囲の女の子たちの空気が変わったことは今でも忘れられない。
 御礼にご飯でもどうですか、と頬を上気させながら小さな両手でオレの右手を掴む彼女からどうにか逃げ出したが、伊達眼鏡と地味な服装程度ではオレのイケメンっぷりは隠しきれなかったらしい。次の日から普通に女の子に囲まれる生活が続き、それならば好きでもない地味な服を着る必要もないと着たい服を着ていたら、取り巻きの女の子が三倍に増えた。こわい。
 そんなこんなで、熱望していた静かな大学生活はオレには訪れなかったのだ。知り合いが一人もいない街、昔からの付き合いがあった男友達もいない。大学では女の子たちから逃げるのが精いっぱいで、友人を作るどころではない。
 頼むから、一人にしてくれ。落ち着かせてくれ。
 飲みに行こうとしつこく誘ってくる先輩方を巻いて、帰路とは正反対の狭い路地に逃げ込んだ時、その喫茶店を見つけた。レンガ造りにツタの絡まる古びた佇まいに惹かれて重い扉をゆっくりと開けると、コーヒーの香ばしい香りが鼻を擽る。
 お好きな席にどうぞ、と言われカウンターに座ってエスプレッソを注文して店内を見渡す。お客さんは皆中年以上、一人の男性客が多い。文庫本を読んだり、新聞を読んだりとそれぞれが自由にくつろいでいる。
 静かに提供されたコーヒーを一口啜ったその時目に入った「アルバイト募集」の文字に、オレはすぐに飛びついた。

 客層は、最初の印象と何ら変わらなかった。一人で来店する年配の男性客中心で、だからオレの顔を見て頬を赤らめる人も連絡先を執拗に尋ねてくる人もいない。オレに興味を示さない人間しかいないこの環境。初めての経験に、涙すら出そうになる。
 彼を初めて見たのは、そんな感動に打ちひしがれていたバイト三日目のことだ。重い扉についたベルの音が鳴り、お客さんが来たのかと思い顔を上げたが、そこには誰もいない。おかしいな、と思いつつもグラスを拭く作業に戻ると、目の前に一人の男性がいた。

「アメリカンをお願いします」

 驚きで手から滑り落ちたグラスが派手な音を立てて四方八方へ飛び散る。店内のお客さん達に一言謝ってから、慌ててその欠片を拾おうとしゃがみこんだ。大きな破片を一つつまんだ途端に走る指先の鋭い痛感に眉を顰めれば、ぷっくりと玉のような血が指先に浮いている。

「大丈夫ですか?」

 差し出された水色のハンカチを有難く受け取り、指先に当てる。オレと同じか、少し上くらいだろうか。この喫茶店のお客さんとしては格段に若いが、この年の人間にありがちな浮ついた感じが全くしない。秋の高い空、そうだ、ちょうど今時期の空をそのまま切り取ったような色の髪色に、同色の瞳は男にしては大分大きい。何を考えているのか分からない無表情さとは裏腹に、発せられる声色は澄みきっていて、オレのことを心底心配してくれていることが分かった。
 よくよく見れば綺麗な顔をしているのに、それを補って尚有り余る存在感の薄さが彼の輪郭をぼんやりとしたものにさせている。こんな存在感のない人、初めて見た。
 そんな失礼なことを考えながら彼を凝視するオレに、アメリカンください、と彼はもう一度言った。

 その日から、オレは彼とよく言葉を交わすようになった。
 彼は週に二度は来店する常連さんで、マスターとも仲がいい。他の常連さんたちとも時折言葉を交わしているようだ。その会話に何となく耳をそばだてていて分かったのだが、彼はどうやら「先生」らしい。
先生と言われて最初に思いつくのが教師だが、彼は平日日中でもこの店にやってくる。ならば何の先生なのか。マスターに聞いたが、本人に聞けばいいと流されてしまった。そんな訳で、オレは彼と言葉を重ねて親しくなり、彼が何の先生なのかを聞き出すことが直近で最大の目標となったのだった。

「こんにちは、今日もいつものでいいっスか?」
「はい、それでお願いします」

ちりんと鳴ったベルに振り向けば、いつの間にか透明な彼がカウンターに座っている。最初の数度は慣れずに声を出して驚いたが、さすがにもう慣れてしまった。バイトを始めたばかりであるオレはまだコーヒーを淹れることを許されていない。オレと彼の会話を聞いていたマスターがサイフォンをセットするのを確認して、アンティークのカップをお湯で温め始める。
こぽこぽとお湯が沸騰し始めた直後、コーヒーの香ばしい香りが店内いっぱいに広がる。透明な彼は満足そうに目をつぶり、その香りを肺いっぱいに吸い込んでいた。匂いを嗅ぐだけで、浅煎りの豆の酸味のきいた味が舌の上に蘇る。
 ゆっくりと抽出したコーヒーをカップに注ぐと美しいこげ茶色の表面が揺れる。お待たせしました、と差し出した時の彼の花が綻ぶような笑顔に、心臓がぎゅっと縮まる感覚を覚えて思わず胸を抑えてしまった。

「どうしました?」
「え、いえ、なんでもないっス! さぁ、冷めないうちに早く飲んでください」

 慌てて顔の前で手を振れば、不審そうに小首を傾げられながらも小さな口でこくりと一口コーヒーを飲む。その途端、幸せそうに緩んだ表情に、また胸が痛くなった。

「コーヒー、お好きなんスね」
「好き……と言うほどこだわりはないのですが、ここのコーヒーを飲んだら他の店では飲めなくなってしまいました」
「アメリカンが好きなんスか?」
「アメリカンはコーヒーのお湯割りなんて言われていますけど、案外カフェイン含有量が多いんです。仕事が不規則なもので、日中の眠気覚ましに飲んでいるんです」

 不規則で先生と呼ばれるお仕事。与えられたヒントで思考を巡らせるが、なかなかピンとくる答えに辿りつけない。顎に親指と人差し指をあてて悩むオレに、彼が「何を考え込んでいるんですか」と声を掛ける。チャンスとばかりに脳みそを介さずに口から言葉が飛び出た。

「先生って、お医者さんなんスか?」
「お医者さん? 違います」
「じゃあ、先生は何の先生なんスか?」
「それは……」

 言い淀む彼にぐいっと顔を近付けて、その色素の薄い眼を覗きこんだ。虹彩の綺麗な双眸に、窓から差し込むぬるい光が反射している。

「今はまだ内緒です」

 人差し指を口にあてるその仕草が、同じ男性なのにやけに妖艶に見えてしまい、オレは無意識のうちに口の中に溜まっていた唾を飲み込んだ。目だけを薄らと細めるその笑い方はまるで気まぐれな猫のようだ。
 頭に血がのぼってしまい何も言えなくなったオレは、こくこくと赤べこのように首をふることしか出来なかった。



 何も言えなくなってはしまったものの、彼が何の「先生」なのかを知ることを諦めたのではない。
 今はまだ内緒、と言うことは、もうしばらくしたら何かのきっかけで、何かのタイミングで教えてくれる気はあるのだろう。ならば、オレはそのタイミングが少しでも早く訪れるように努力をするだけだ。

「黄瀬君は大学生なんですか?」
「そうっス! 丘の上にあるとこなんスけど」
「ああ、あそこですか。可愛い女の子が多いって有名な大学ですよね」

 週に二度はやって来る彼との接触のチャンスを逃すまいと、オレはバイトに入る日数を増やした。ベルが鳴る度に入口を見て、落胆するのを繰り返す。そして、彼が来店した際には女の子にやたらと褒められるとっておきの笑顔で彼のことを出迎える。そうすれば、彼も目を細めて微かに口角を上げるだけの嫌に色っぽい笑顔を返してくれるのだ。

「へー、そうなんスか」
「黄瀬君知らなかったんですか? それだけ恰好良いんだから、女の子にモテるでしょうに」

 彼のことを知りたくて、オレのことを気に入って欲しくて、オレは求められるままに自分のことを話した。未だ黒子と言う名字しか知らない彼は褒め上手と言うか聞き上手と言うか、彼が入れる相槌が心地よくて、聞かれている以上のことまで喋ってしまいがちだ。
 今まで、自分の領域の中に無理矢理入ってこようとする女の子はたくさんいたけれど、こうしてするりとまるで蜃気楼のようにごく自然に入って来られるのは初めてで、しかもそれを嬉しく思っているのも初めてで、そんな自分に毎日戸惑いながらもそれをどこか客観的に見ている自分がいた。
 知ってもらえるのが嬉しい。なんでだ。彼のことが知りたいから。なんでだ。彼のことが気になるから。なんでだ。なんでだ?

「いやー、モテな……くはないっスけど、興味はないっス」
「正直な人ですね。君の年齢で女の子に興味がないって、もしかしてゲイですか?」

 透明感溢れる彼の口から飛び出たとんでもない言葉に、一瞬思考が止まる。が、慌ててそれを全力で否定した。ここで勘違いされては困る。オレはゲイではない、ただ女の子に付きまとわれるのに疲れてしまっただけなのだ。

「はぁ……。モテすぎるのも大変なんですね」
「そうなんスよー。家の外に一歩出たらもうプライベートもプライバシーもないっスからね。盗撮なんてしょっちゅうだし、裏で個人情報売買されてたこともあるんス」
「そこまで行くとさすがに可哀そうです……」
「でしょー? どんなに可愛くても女の子は怖いんスよ」

 さめざめと泣き真似をしてみせると、よしよしと言いながら彼が身を乗り出して手を高く掲げる。それにつられて屈んで見せると、優しい手つきで頭を撫でられた。

(うわっ……)

 ばくばくと高鳴る心臓の音がうるさい。心臓が鼓膜に移動したのかと思うほどの音量に、彼にまで聞こえてしまってはいないかと彼のことを盗み見るが、相変わらずアルカイックスマイルを浮かべる彼の感情は読めない。それがまた艶めかしくて、心臓がきゅんと収縮するのを感じた。

「でも彼女がいたこともあったんでしょう?」
「そりゃね。初めて付き合ったのは中一の頃かな」
「早熟ですね」
「そうっスか? 結構周りにも付き合ってる子たちいたっスよ」
「初めてのキスもその子とですか?」

 ぽんぽんと矢継ぎ早に繰り返される質問に、勢いのまま答えていたが、顔に似合わず大胆な質問を躊躇いなく投げかけてきた彼に驚いて、そのテンポを乱す。一拍置いて、え、と短い音だけで返事をすると、彼は真顔のままずいっと身を乗り出してきた。

「キス、しなかったんですか、その子と」
「いや……、したっスけど」
「どんな感じでした? 気持ち良かった?」
「ちょ、ちょっと黒子さん、どうしちゃったんスか」

 身を乗り出してくる彼の熱い視線に、顔に熱が集まって沸騰してしまいそうだ。呆然とするオレの手に、一回り小さな彼の手が重ねられる。

「君のこと、もっと知りたいんです」

 重ねられた手が熱くて溶けてしまいそうだ。全身が熱くて頭が混乱して涙が出てきそうだった。うまく言葉を紡げずに口をぱくぱく開閉させるオレに、彼は大好きなコーヒーを提供された時と同じ笑顔でオレにこう言った。

「ボクに、君のことをたくさん教えてください」

 気が付けばオレは首を縦に振り、聞かれたこともそれ以上のことも全て彼にさらけ出してしまっていた。



「たくさんお話を聞かせてくれた御礼に一つだけ教えてあげます」

 そう言ってそっとオレの耳に囁かれたのは、オレの直近最大の目標であった彼の職業であった。

「ボクは小説家なんです」

 小説家――それで先生か、なるほど。普段なかなかお目にかからない種類の職業だったから、思いつくことすら出来ない筈だ。言われてみれば彼の繊細な雰囲気や知的な顔立ちは、いかにも小説家然としていた。
 名前は黒子さん、アメリカンが好き、コーヒーはうちの喫茶店のものが一番好きで他には執着していない、オレの話を聞くのが好き、そして小説家である。これが、半年の間にオレが知り得た彼の情報の全てだ。
 それに対して、黒子さんはオレのことをもっと知っている。乞われるままに包み隠さずさらけ出した過去たちの数は両手両足ではとても足りない。彼が来る度に一つ二つと質問を受け、それに対して五で返す。そんなことを繰り返していた。
 自分をさらけ出すのは恥ずかしくもあるが、全ては彼にオレのことを知って欲しいが為である。そして、いつかオレも彼のことをもっともっと知れたら良いなと思う。
 無表情に見えて知識欲に濡れる夜の空みたいに落ち着いた色の双眸も、日光の下で溶けてしまいそうな肌理の細かい白い肌も、華奢に見えて案外節張っている手の甲も、全てが新鮮で全てが興味深い。オレのプライベートにどんどん土足で踏み込んでくるのに、それが心地好いと感じるのは初めてだった。
 オレは、彼のことが好きなんだと思う。
 小説家だと聞いたその直後にマスターから教えて貰った彼の作品は、その日のうちにネットで取り寄せた。三年前の作品だというそれは、姉と弟の純粋な家族愛を、彼等を取り巻く人々と共に描いた心温まる作品であった。
 オレは普段、本なんて雑誌か漫画くらいしか読まないが、その本は不思議とすんなりオレの中に入ってきてすーっと溶けて馴染んでしまった。何回も何回も読み返しすぎて、本の角が擦れて白くなってきている。句点の多い文章も、柔らかい言い回しも、「目」を「眼」と表記するこだわりも覚えてしまった。もっと彼の作品を読みたいと探してみたのだが、どうやらこの作品以来、未だ新作は発表されていないらしい。

「オレ、黒子さんの作品大好きだから、新しいの読みたいっス」

 我慢しきれずにそう言ったオレを、彼が無感情な瞳で見上げる。あんまり揺らぎない目で見てくるものだから、オレの方が何故だか後ろめたい気持ちになって彼から視線を反らしてしまった。口の中で誰に向けたとも分からない言い訳をもごもごと紡いでいると、微かに笑う気配がする。

「もう少し待って頂けますか」

 そう言った彼の笑顔がどこか寂しげで、オレはそれ以上何も言葉にすることが出来なかった。

「今日もたくさん、君のお話を聞かせてください」

 黙り込んだオレを促すように紡がれた優しい声色に、慌てていつもの笑顔を取り戻す。黒子さんって本当にオレの話好きっスよね、と冗談めかして返した言葉に真顔で頷かれ、顔が熱くなる。黙りこんだり赤面したり、彼から見たらオレは大層忙しい人間に見えていることだろう。それが恥ずかしいと同時に擽ったくも感じるのだから、遅い初恋を拗らせると本当に厄介だ。

「この間はどこまで話ましたっけ」
「高校に入学した辺りまでですね。他校の女の子が高校まで押しかけてきて修羅場だったって所まで聞きました」
「あー……、あそこっスね。あれはオレの人生三大修羅場の一つっス……」

 あの頃のことを思い出すと、同時に頭痛も蘇ってくる。顔すら知らない女の子が複数現れて私たちの中から一人選んで、と大勢の生徒の前でやられたのは軽くトラウマだ。それをつらつらと話す毎に、黒子さんがうんうんと相槌を打ちながら真剣に興味深そうに聞いてくれる。オレが自分の話をしている時だけは、黒子さんはオレだけのものなのだ。こんなことを考えてしまうあたり、自分は相当彼に参ってしまっているらしい。

「初めて会った子に選べって言われても困っちゃうっスよね……。女の子たちだけで裏で大ゲンカになってたみたいで、オレとんだとばっちりっスよ」
「結局どの子を選んだんですか」
「どの子を選んでも酷いことになりそうだから、どの子も選らばなかったっス。特定の子作る気ないって言って」
「うわ、最低な台詞ですね」
「だって、彼女がいるって言ったら少し仲良いだけの関係ない子にまで被害が及ぶんスよ? そう言うしかなかったんス」
「でも、そんなこと言われたらそれでも良いって言い出す子も出てくるんじゃないですか」

 痛いところをつかれて言葉に詰まる。視線を斜め上に逸らして頭を掻くオレを、空色の目がじぃと見上げてくるのを視界の端で捉えた。見られている、凄く見られている。この人は、オレがこの目で見られることに弱いって分かっていてやっているのだろうか。
 肺の底から深いため息を吐き出して、意を決して口を開いた。

「うーん、まぁそういう子もいたっスけど」

 彼の反応が気になって、顔を背けながら視線だけを動かして黒子さんの表情を盗み見ると、感情を乗せにくいその目がきらきらと光っている。これは、好奇心を擽られる話題を振られた時の反応だ。こういう目をした時の彼は大抵、真顔でとんでもない質問を投げかけてくる。
 何を言われるのかと身がまえた瞬間、その爆弾は投下された。

「黄瀬君は、その女の子たちをどういう心境で抱いたのですか?」

 彼が語尾を紡いだのと同時、オレは両手で彼の唇を塞いだ。今はまだ真っ昼間、しかも他にお客さんだって入っている。静かで落ち着いた店内で声のトーンを落としながら話しているとは言え、狭い店内だ。なんてことない顔している他のお客さんがオレ達の会話を聞いている可能性だって充分にある。
 冷静で大人しそうに見えるのに、夢中になると周りが見えなくなる所は非常に芸術家らしい。オレの手の下でもごもごと動く口と、口よりも雄弁に気持ちを語る空色の目が早く話の続きを聞かせろと訴えている。

「黒子さん、さすがにここでそう言う話しは……」

 恨みがましく見上げてくる目に根負けしててのひらを離すと、黒子さんがぷはっと息を吸った。その小さな唇が酸素を求める様さえもエロい。

「じゃあ、ここじゃなければ良いんですか」

 思いがけない彼の言葉に、え、と戸惑う余裕さえなかった。

「黄瀬君、あと三十分でバイト終わりますよね。これからボクの家に来て、そこでお話を聞かせてください」

 急転直下とはまさにこのことである。初恋の相手からの願ってもないお誘いに、オレはまた赤べこのように顔を真っ赤にしてただただ首を縦に振ることしか出来なかった。



「お邪魔します」

 黒子さんの住まいは、モデルルーム公開中ののぼりがあがっているまだ新しい分譲マンションだった。喫茶店から歩いて十分弱、向かいに大きなスーパーもあるそこは、近年マンションの建設ラッシュが続いているらしい。何でも、JRの駅舎がこの近辺に移設される計画があるとかで、最近人気が出始めている地域だそうだ。
 エレベーターで最上階のボタンを押した彼を見て、ふと疑問が湧く。職業は小説家だが、正直それほど本が売れているようには思えない。作品は三年前に出したものが一冊だけ、新作は「もう少し待って」と彼が言っていた通り、まだ出ていない筈。なのに、この新築の分譲マンションの最上階に彼は住んでいるのか。
 何か副業でもやっているのか、と不躾なことを考えているうちにエレベーターは最上階に到着し、南向きの角部屋に案内された。

「お茶を淹れてきますから、適当に寛いでいてください」

 通された部屋は広かった。今オレが黒の革張りのソファに座って委縮しているリビングの他に、二部屋はある。だが、玄関には黒子さんが履いているのであろう革靴以外は見当たらなくて、他に誰かが一緒に住んでいる気配もない。
 一人でこの部屋に住んでいるのであれば、もしかしなくても黒子さんってお金持ちなんじゃないの?
 どうぞ、と出された日本茶を一口すする。日本茶の味はよくわからないが、彼がお金持ちなのだと思ってしまったから、このお茶すらも高級品のような気がしてちびちびと舌にのせて味わった。

「さて、」

 ぎしりと身体が沈み、その振動に驚いて横を見ればオレのすぐ隣、肩が触れるほどの距離に黒子さんの横顔があった。危うく湯呑を落っことしそうになるのを堪えて、平常心平常心と心の中で呪文のように唱え続ける。

「黄瀬君は、どういう心境で好きでもない女の子を抱いたんですか?」

 その言い方に棘が含まれているように感じて淡い期待を抱きながら彼の顔を見た瞬間、その薄っぺらな期待は木っ端みじんに砕け散ってしまった。好奇心に濡れる目を爛々と輝かせ、白い頬は興奮からか若干上気している。これは、単純に本当に疑問として質問を投げかけただけだろう。
 ここまで来たらもう逃げられないと、口を開きかけた瞬間、ぴんぽーんと甲高い電子音が室内に響いた。

「……ちょっと待っていてくださいね」

 ゆったりとした動作で立ち上がり、インターホンに応答する。訪問者との会話を聞くでもなく聞いていたが、どうやら訪問客は出版社の人間らしい。今来客中で、と答える黒子さんだったが、オレがいるせいで大事なお仕事に支障が出るのはファンとしても悲しい。
 お暇しようと腰を浮かしかけた時、黒子さんがくるりとこちらを振り向いた。

「黄瀬君、すみません。どうしても外せない用事が出来たのですが、すぐ終わるので隣の書斎で三十分だけ待っていてもらってもいいですか」

 てっきり帰れと言われると思っていたオレは、まだ彼といられることに安堵して、大人しくその提案に頷いた。
 そこら辺にある本を適当に読んでいて良いですから、と通された書斎は、リビングのすぐ隣、こげ茶のドア一枚を挟んだ部屋だった。大きな机が窓に向けて置かれていて、その両脇に天井まで届く本棚が設置されている。ぐるりと振り向けばその背後にも同じ大きさの本棚が二つ。
 机の脇にある本棚に近付いてぎっしりと並べられた本の背表紙を眺めるが、どれも難しそうで手に取る気にもなれない。しゃがみこんで一番下の隅、机の死角になって見えにくい位置にある一冊の本が何故か気になって、手を伸ばして指先でその背表紙をひっかける。少しの苦労で手にしたその本を手にとると、表紙にはむちむちとした肉感のセーラー服を着た少女が描かれている。ぼってりとした赤い唇を半開きにしている様は何とも艶めかしい。

「美青年、愛欲に濡れた蕾……?」

 如何にもなタイトルに、黒子さんもこういうの読むんだ、と少しだけ驚いたが、好奇心と知識欲が旺盛な彼のことだ。知識の一環として手にした本なのだろうと結論付けて、何気なくその本のページを捲った。
 その本の主人公は名前を「涼」と言うイケメン男子高校生で、黙っていても群がってくる女性たちに辟易しつつも若い性には抗えず、誘惑してくる女性たちを次々と抱いていく、という話しらしかった。
 この「涼」と言うキャラクター、やけに親近感を感じる。透けるような金糸の髪に、琥珀色の双眸、日本人離れした身長とスタイルで人好きのする笑顔。静かなところに行きたくて、生まれ育った故郷とは遠く離れた県の丘の上の大学に進学して――

「って、これ、オレ……?」

 夢中になってその本を読み進める。
 句点の多い文章も、柔らかい言い回しも、「目」を「眼」と表記するこだわりも、全部ぜんぶ見覚えがある。間違えようがない。何回も繰り返し読んで背表紙の角が白く剥げかけてきている、一冊しかない大好きな初恋の彼の文章と、間違える筈がない。

「何これ、なんでオレのこと……」
「黄瀬君、お待たせしました」

 夢中になっていたものだから、背後に彼がいることに全く気が付かなかった。声を掛けられた拍子に、持っていた本が手から滑り落ちてとさりと床に落ちる。

「黒子さん……」
「ああ、それ。見ちゃったんですか」

 彼はゆっくりと歩みより、床に落ちたその本を拾い上げる。禁欲的な双眸でその肉感的な表紙をじっと見つめ、これ結構売れたんですよ、と呟いた。

「今も、この本の続編の打ち合わせで編集の方がいらしてたんです。なるべく早めに出したいからって熱心で」
「黒子さん、純文学の作家さんじゃないんスか」
「……今時、純文学だけじゃ食べていけないんです」

 違う、そんな返事を聞きたいのでない。オレが好きな黒子さんは真面目で大人しくて理知的で、好奇心と知識欲が旺盛で真摯に人と向き合う人で、純文学じゃ食べていけないなんてつらっと言ってしまえるような人ではない。

「なんでオレのこと書いたんスか」

 震える声を振り絞ってそう聞けば、黒子さんが小さく笑って答える。

「君が、あまりにも綺麗だったから」

 彼が好きで、彼に喜んで欲しくて自分の全てをさらけ出した。彼に全てを知ってもらうことで、いつか彼のことも知りたいと思っていたからだ。ぐいぐいとパーソナルスペースに踏みこんでくる癖に、その蜃気楼みたいな存在感の所為で不快感は全くなかった。むしろ、もっと近付いてきて欲しいとさえ思ってしまった。

「結局黒子さんも、オレの顔しか見てなかったんスね」

 もう、彼の顔を見るのが辛い。顔を伏せたまま辞去しようと彼の隣を通り過ぎようとした瞬間、腕を掴まれる。存外に強いその力に、華奢ではあるが彼も男であることを改めて思い知らされた。

「離してくださいっス」
「黄瀬君、」
「離せよ!」

 掴まれた腕を振りほどいて、痛みを分かってくれない鈍感な大人に何か言ってやろうと彼を振り返った瞬間、シャツの襟首を掴まれて強引に下を向かされる。衝撃で呼吸が一瞬止まった瞬間、ぬるりとした感触が咥内を嬲った。

「っ……ふ」

 無理矢理下を向かされているから首は痛いのに、口の中を蠢く厚ぼったい舌の予想出来ない動きは快楽しか呼ばない。ぬるりとそれが動く度に背筋が震えて、角度を変える為に微かに唇が離れる隙すら惜しい。
 最初は冷たかった唇の感触が、互いの温度で溶けあったのはすぐで、飲み切れない唾液が首筋を伝っていく感触にすら興奮した。二人分の荒い呼吸が部屋に響いて、ゆっくりと彼の顔が離れていく。

「ねぇ、黄瀬君。ボクにもっと君のことを教えてくれませんか?」

 欲に塗れた赤い顔で、濡れた空色の双眸で、甘ったれたその透明な声でそう言われて、オレはあっさりと陥落してしまった。
 自分がネタにされたからなんだって言うのだ。こちとら、遅い初恋を拗らせているのだ、この人を失う以外怖いものなどある筈がない。
 握られた手が熱くて、彼のこと以外考えられない。
 そうしてオレはまた、赤べこのように首をただただ縦に振るのだった。


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