黒バス | ナノ




二重人格

 最初こそ毛嫌いしていたその背中を頼もしく感じるようになったのは出会ってすぐの話で、あいつは凄い奴だと笑っていた憧れの人の言葉の意味も十二分の理解できるようになってしまった。次々と見せられる予想外の一面に、バスケプレイヤーとして、教育係として、彼のことを尊敬するようになった。
 オレはバスケ部に入るまで割と人生舐めて生きていて、下手に何でも出来るから詰まんないし退屈だし周りの奴らがどうしてうまく立ちまわれないのかむしろ不思議だったしで、今から思えばかなり嫌な奴だったと思う。今でも尊敬出来ない奴や関わって糧にならない人間とは積極的には付き合わないし、根本的な部分は変わっていないんだろうけど、それでも人の立場になって考えるってことを知ったのは、バスケ部に入ってからだ。もっと厳密に言えば、黒子っちの考えに触れてから、である。
 彼の持論は今でも理解出来ない部分もある。と言うか、理解出来ないことの方が多い。それでも、理解出来ない考えや人となりをしている人間がいて、彼等もそれなりに真っ当に誠実に懸命に生きていることを知るには充分で、オレはバスケ以外の部分でも彼にすべからく「教育」された部分が非常に大きいのだ。
 彼は、オレの憧れの人でバスケを始めるきっかけにもなった青峰の相棒だったから、三人で一緒にいる時間は他の面子に比べれば多かったと思う。二人が自主練している体育館に突撃して青峰にワンオンワンを挑んだり、黒子っちにパスを強請ったり、部活帰りに寄り道をするときだって、自然と三人が並ぶことが多かった。
 太陽みたいに翳りのない笑顔で快活に話す青峰と、雲のない夜みたいに静かに穏やかにそこにいる黒子っちは実に良いコンビだった。バスケ以外では全く合わないと二人は口をそろえて言っていたが、特に言葉を交わさなくとも二人並ぶことで流れる空気は他人には入りがたいものだった。野生児らしい浅黒い肌と恵まれた体格と大きな背中、血管が透けるほどに白い肌と平均かそれ以下の身の丈と薄い背中。二人が並ぶちぐはぐ感は安心感と充足感を覚えさせたが、そこに僅かに混じる焦燥感の原因がなんだったのか、オレは未だに分からずにいる。
 並ぶ背中越しに時折見える二人の横顔は穏やかで楽しそうで、交わす会話の内容を聞かずとも見ているだけで彼等が信頼し合っていることがその表情から窺えた。こう考えると、オレは三人で一緒にいたつもりでいたのだが、その実二人の後ろをついて回っていただけなのかもしれない。だって、思い返す彼等の姿は大抵その後姿、並んだ背中とそれ越しに見える互いに向けられた横顔なのだから。
 だからこそオレは、彼の背中の違和感に気が付くことが出来たのかもしれない。
 最初にそれを感じたのは確か、中学三年生の初春のことだったと思う。桜の花が八分咲きだったあの季節、教師からの呼び出しで部活に向かうのが遅くなったオレは急ぎ足で部室へと向かっていた。その途中、ショートカットの為に焼却炉付近を通りかかった時に見えた薄い背中に言い知れない違和感を覚えたオレは、歩みを止めた。

「黒子っち、何してるんスか?」

 焼却炉の中で真っ赤な炎が生き物のように艶めかしく動き、ゆっくりと振り向いた彼の頬を明々と照らしている。それを見て、オレはぎょっとしてしまった。
色が白い彼の頬は普段からともすれば不健康そうに見られがちなのだが、それが今日は特に顕著であった。ごうごうと燃える炎を反射しても尚青白い顔色に、具合でも悪いのではないかと慌てて近寄ったのだが、彼はオレになど興味がないとでも言いたげにとっとと視線を焼却炉の方へと戻してしまった。
不審に思って黒子っち、と声を掛けながら彼の顔を覗き込む。それでも彼はオレの言葉に一切反応せずに、手にしていた紙を一枚ずつ焼却炉に放っていた。

「何を燃やしてるんスか? 機密文書?」

 ただならぬ雰囲気にわざとおどけてそう言ってみるが、やはり反応はない。ちらりと彼の手元を見遣れば、何も書かれていない進路調査の用紙の束であることが確認できた。
 担任教師に頼まれて印字ミスか何かがあったものをこうして処分しているのだろうか。違和感は残るが、そう考えることしか出来なくて小首を傾げると、彼は表情を変えないまま残りの紙束を全て燃え盛る炎の中に放ってしまった。
 あっという間もなく炭になって黒く縮れて消えて行ったそれを呆然と眺めていたオレに構わず、彼は無言でその場を去った。

「黒子っち、ちょっと待ってよ」

 はっとして彼の後をすぐに追いかけたのに、校舎の影に消えた彼の姿は既にどこにもなかった。
 その後、判然としない気持ちを抱えたまま一軍の練習が行われている体育館に向かうと、その隅で真っ直ぐうつ伏せになって倒れている黒子っちを見つけた。さきほどの彼の様子を思い出しながらそっと近付き、肩で呼吸をしている彼の背中にそっと触れるとゆっくりとその顔が持ち上げられる。

「ああ、黄瀬君。お疲れ様です」
「……黒子っちもお疲れ様っス」
「ええ、本当に……」

 オレが部活に遅れた時間はせいぜい一時間程度。二年以上このバスケ部に所属しながら、一時間やそこいらでここまでくたびれることが出来るのは、ある種の才能である。こんなこと、口が裂けても本人には言えないが。
 オレとの会話をきっかけに、彼はおじいちゃんみたいにゆったりとした動きでむくりと起き上がった。汗に濡れたTシャツが張りつく薄い背中には、先ほどのような突き離す冷たさはない。
 ふらふらと立ち上がった黒子っちはリストバンドで顔に流れる汗を拭い、真っ直ぐにコートの中の一点を見つめる。その熱心な視線の先は追うまでもない、彼の光であり相棒でもある、青峰だけに注がれていた。最近は練習もさぼりがちだが、珍しく今日は最初から参加していたらしい。これが黒子っちが早々にばてていた原因かと納得する。
 死んだ魚の目のようだ、と陰で揶揄される感情を読ませない眼にはだがしかし、はっきりと熱情が含まれていた。バスケをする時の彼はいつもこうだ。試合の時、練習の時、才能あるプレイヤーがボールを手にした時、その雲一つない夜空みたいな曇りのない眼に僅かに見てとれる程度の情熱を灯して一心にそれを観察する。それはまるで、母親に焦がれる子どものようであり、初恋の男に注がれる少女のそれのようでもあった。

「ねぇ、黒子っち。さっきのことだけど」
「さっき? 今日は黄瀬君と話すのは初めてだったと思いますけど」

 つっかえることなく自然と返された言葉に耳を疑ったが、対する黒子っちはオレの方が何を言っているのだと言わんばかりに小首を傾げてその円い目でオレを見ている。

「……いや、オレの勘違いっス。ごめんね、忘れて」

やはり、先ほどの彼は何かの間違いだったのだろう。釈然としない思いはあったが、それを無理矢理飲み込んで、オレは練習に集中することにした。



 その翌週の出来事である。
 モデルの仕事の為に午前の授業を終えてから、スタジオに向かうために帰路についた。昼休みで各々が自由にはしゃぎまわる校内の中、その喧騒を避けるようにあの焼却炉の前を通ると、先週と同じように薄い背中が焼却炉の中を覗いている所に遭遇してしまった。
 その背中はやはり他者を受け付けない様な得も知れぬ威圧感を放っていて、いつもオレが見ている静かで穏やかな物言わぬ背中とは趣を異にしていた。
いくら無感情に見えて俗っぽさからはかけ離れていても、彼も男子中学生だ。人には言えない悩みや、大多数の同級生たちと同じような悩みの一つや二つを抱えていることだろう。だからこそ、こうして人目につかないところでこっそりと感慨にふけっているのかもしれない。
先週のあれは、それを見られてしまった気まずさから知らぬふりをされたのだとしたら、今週またこうしてここで彼と遭遇してしまうのは少しばかり気まずい。そう考えてルートを変えようと踵を返したその時、先週は白紙の進路調査票が握られていたその手元に、一足のスニーカーが見えてオレはその足を止めた。

「黒子っち、何してるの?」

 思わず掛けた声に、彼はこれまた先週と同様にゆっくりと振り返る。明々と彼を照らす炎は攻撃的な程に赤いのにその顔色は蒼白で、すぐにでも倒れるのではないかと心配になる程であった。
 ゆっくりと振り返った彼の円い目にオレが映されたのを確認した途端、また視線を逸らされる。かと思うと、その瞬間彼が手にしていたバッシュが燃え盛る焼却炉の中に放られた。

「ちょ、何してるんスか」

 遠目からだからよく見えなかったが、あれは確か先月発売されたばかりのニューモデルだった筈だ。使い古したそれを処分するために捨てたのではないだろう。いくら毎日長時間の練習をこなしているとは言え、バッシュの寿命はせいぜい三か月から半年程度だ。先月発売したモデルが、処分しなくてはならないほど消耗していたとは考えにくい。
 そう言えば先日、休みの日に緑間と彼がバッシュを買いに行く約束をしていたことを思い出す。オレもついて行きたかったのだが、部活が休みの日くらい真面目に働けと言われ渋々マネージャーが持ってきた仕事を受けたのだった。
 焼却炉からゴムが燃える嫌な臭いが漂ってくる。その臭いに顔をしかめているオレに眼もくれず、黒子っちはまた無言でその場から去ろうとした。だが、今回はオレがそれに一瞬早く反応して、彼の細い腕を掴むことに成功する。

「あれ、この前緑間っちと買いに行った新しいバッシュっスよね。どうして燃やしちゃったんスか」

 強めの口調で問いただしても、オレを拒絶するように背中だけを向けて決してこちらを見ようとしない。無言のまま、時間だけが過ぎていく。途中何度も彼がオレの手を振りほどこうとしたが、殊更力を込めてそれを阻止した。

「君には関係ないでしょう」

 生徒たちのはしゃぐ声が嫌に遠くから聞こえてくるその沈黙の中で、どれだけ時間が経った頃だろうか。一瞬だったのかもしれないし、五分以上経っていたかもしれない。
 いつも以上に感情を排除した淡々とした物言いは、はっきりとした拒絶を孕んでいた。少し昔のオレならば、こんな声でこんなことを言われればすぐに引いて彼には極力関わらないようにしていたことだろう。だが、オレは彼に影響されて少しずつ「教育」された。
 尊敬する彼が、無表情に見えて実は熱くて頑固な彼が、こんな冷たい声を出しているのに、それを無視することは、今のオレには出来ない。
 バスケが好きで、人と真っ直ぐに向き合う俗世離れした強い彼が、ここまで心を無にする理由は分からないが、それでもチームメイトとして話しを聞くくらいは出来る筈だ。黒子っちを心配している、君の力になりたい、その思いを精一杯声色に乗せて、宥めるように彼に話しかける。

「関係なくないっスよ。オレ達、友達じゃないっスか」

 その言葉に、彼の肩がびくりと揺れる。恐る恐ると言った体でゆるりとオレを肩越しに見つめるその目には、伺い知れない何らかの感情の色が蠢いていた。
 小さく震える唇から発せられる声が聞きとれなくて、ん? と聞き返すと、蚊の泣くような声でこう言われた。

「君なんて、いらない」

 その言葉の衝撃に腕の力を緩めた刹那、彼はあっさりとオレの束縛から逃れてあっという間に姿を消した。



 君なんて、いらない。
 黒子っちの平坦な発音を思い出すと胸が締め付けられた。この一年弱で友情と絆が深められたと思っていたのはオレだけだったのか。彼にこんなにも影響されて、それはつまり彼がオレの大部分を占めたってことで、だけど彼はオレのことなんて友達だとすら思ってくれていなかった。そう考えること自体が苦しい。
 部活に行きたくない。バスケはしたいが、彼と顔を合わせるのが気まずい。中学二年の春にバスケ部に入ってから、部活に行きたくないと思ったことは今までなかった。それが、黒子っちの言葉一つでここまで思い悩んでいる自分が可笑しかった。いつの間にか、彼は随分とオレの中で大きな存在になっていたらしい。
 帰りのショートホームルームを終えても自分の席から動かずに机に突っ伏していたオレに、クラスの女の子たちが今日は部活休みなの? と話しかけてくる。んー、と答えになっていない答えを返すと、彼女たちは嬉しそうに、ならどこかに行かないかと腕を掴んで揺すってきた。机に突っ伏しているのだから、そういう気分じゃないことくらい察して欲しいものだ。これがあの薄い背中の彼ならば、何も言わずにそっと隣に座ってオレが自分から言葉にするまでまってくれるのに。
 
「オレ、やっぱり部活行くから」

 ここでうじうじ悩んでいても埒が明かない。彼の顔を見るのは怖いが、それでも逃げ続ける訳にはいかない。重い身体を引きずって、着替えの為に部室に向かった。

「黄瀬君、こんにちは」

 焼却炉を避けて遠回りをして部室に向かい、深呼吸をしてから部室のドアを開けるとそこには黒子っち一人だけが着替えをしていた。先生にボクの課題だけ回収してもらえなくて、と無表情で言う彼だが、昨日のような冷たさは全く感じられない。オレが勝手に懐いて、勝手に影響されたあの黒子っちの表情と声色だ。
 それを確認した途端、全身から力が抜けてその場にへたり込んでしまった。

「黄瀬君?」

 何の前触れもなく崩れ落ちたから驚いたのだろう。黒子っちは眼を円くして、その空色の目を揺らめかせながらオレに駆け寄って来た。その眼の色は、オレのことが心配だと口よりも雄弁に語っている。
 出会った当初は何を考えているのか全く読めなかったその眼の色が、少しずつ読み取れるようになってきた事に気が付いた時、オレは本当に嬉しかった。今現在、すぐ目の前で感じ取れるそれに、幸福感で満たされる。

「大丈夫ですか」

 しゃがみこんで、冷たいてのひらを額にあてられる。それが心地よくて眼を瞑ると、熱はなさそうですね、と呟くような小さな声が聞こえてきた。

「保健室行きますか?」
「ううん、大丈夫。びっくりさせてごめんね」

 そうですか、と答える声はやはり平坦だが、どこか安堵が滲んでいる。ポーカーフェイスに見えて雄弁に感情を語るその眼と声色に、先週、昨日と焼却炉で会った彼の姿が重ならない。
 確かに同じ姿かたちなのに、中身も感じるものもこんなにもかけ離れている。立ち上がろうとしている彼の名前を呼べば、はい、と落ち着いた声音が返って来る。何ですか、と言う代わりに黄瀬を見据える彼の眼の色に言葉が詰まった。

「……何でもないっス」

 喉元まで出かかった言葉を呑みこんで、黄瀬はうっそりと笑って見せた。



 黒子に双子の兄弟はいない。それとなく確認した際に、何言ってるんだこいつと言いたげな眼で見られたからまず間違いない。
 ならば、あの身長も髪色も肌も円い眼も黒子っちと寸分違わないのに、酷く排他的で無感情な、焼却炉の彼は何者なのか。彼とまた会えば、自分自身が傷つくのは分かっていたが、それでもオレは彼に会うために焼却炉へと向かうことを止められなかった。
 毎日のように昼休み、あるいは放課後にそこに向かう。だがそこにはごくたまに用務員のオジサンがいるだけで、あの日以来オレは彼に会うことが出来ずにいた。
 そうこうしているうちに一月、二月と時間は流れ、あの焼却炉での記憶も徐々に薄れていく。毎日通っていたのが週に三回になり、一回になり、その内に足を運ぶのは部室までのショートカットに使う時だけになった。
 驚くようなスピードで時間は過ぎていく。桜の花はとうの昔に散って、梅雨を過ぎ、その空気にじりじりと肌に突きさすような熱気が加わり始める。勝利することが当然となったオレ達がキセキの世代と呼ばれるようになり、そんなキセキの世代が全中三連覇を達成するまで、残り一カ月を切った。

「お疲れっしたー!」

 ハードな練習が終わり、レギュラーたちはとっとと体育館から出ていく。残っているのは用具を片付ける一年生たちで、入部当初は部活後も自主練を重ねていた彼等も、今では緑間以外、居残り練習をすることは滅多になくなっていた。
 そのくらいならまだいい方で、青峰に関しては練習に顔を見せることもない。マネージャーで幼なじみである桃井が折を見ては説得しているらしいが、公式試合にさえ遅刻してくる彼が、更生して真面目に練習に参加するとは到底思えない。
 タオルで汗を拭きながら体育館をぐるりと見渡して、彼の姿が見えないことに気がついた。先ほどまでは確かに体育館の隅でばてていたのに、いつの間にいなくなったのだろうか。いつも最後まで残っていた黒子っちの姿見えないことに、妙な胸騒ぎを感じた。
 残った部員に軽く挨拶をして、部室に向かう。だがそこには気だるげに着替える一軍レギュラーの面々がいるだけで、あの薄い背中の彼は見当たらない。

「黄瀬、どうした」

 きょろきょろとぶ室内を見回しているオレに気が付いたのか、赤司に声を掛けられる。何でもないっス、と軽く返すともう興味を失ったのか、そうか、と返されてそれっきり何も言わなくなった。
適当に汗を拭き制服に着替えている間に、先に着替え終えた部員たちが次々と部室から出ていく。漫然と彼等に挨拶をしながらシャツのボタンを閉めていると、黄瀬、と名前を呼ばれた。

「第四体育館に明かりが点いていたようだ。悪いが、消してから帰ってくれるか」

 はぁ、と気の抜けた返事をすると、頼むぞ、と肩を叩かれた。そんなの、一年生に頼めば良いのに、と思いながらのそのそと練習着を詰めた鞄を肩に掛けながら立ち上がった。



 赤司の言葉通り、第四体育館には明かりが点いていた。ここは三軍の連中が使っているはずだが、中に人の気配はない。下手くそなら下手くそなりに居残り練習でもすれば良いのに、それをしないから奴らはいつまで経っても三軍なのだ。
 毎日のように練習を重ねて、その特殊な能力で一軍レギュラーになり、その後も努力を続けた彼のことを考えながら体育館の扉を開ける。

「誰かいるー?」

 おざなりに声を掛けるが、やはり反応はない。去年まではよく部活後に使っていたこの体育館に足を踏み入れるのは久しぶりだ。館内をぐるりと見渡して、らしくもなく郷愁を覚えている自分がおかしかった。そんな繊細な柄でもないだろうに。
 照明の電源はどこだったかと入口付近を視線だけで探していたその時、ぽーんとボールが跳ねる音がした。
 まだ誰か残っていたのか、と思うと同時に、この覚えのあるシチュエーションにどくりと心臓が飛び跳ねた。誰もいないと思ったのに突然現れては人を驚かせる、彼のことが脳裏をよぎる。

「黒子っち……?」

 そっと名前を呼べば、こちらに向かってボールがてんてんと転がって来る。自分と、誰か一人しかいないであろう体育館にその音が反響して鼓膜を刺激した。
 ボールが転がってきた方向を辿れば、練習着のまま体育座りで膝に顔を伏せて小さくなっている黒子っちの姿が眼に入る。なんだ、こんな所にいたのか。何故だか酷く安心して、彼の近くにそっと近寄る。反応がないのは、彼が寝ているからだろうか。いくら温かいからと言っても、汗を拭かなければ身体が冷えてしまう。
 彼の正面に座り、もう一度彼の名前を呼ぶと、ゆっくりと顔が上げられる。その嫌に間延びした動きに、いつかの記憶が急激にフラッシュバックした。
 感情が読みとれない眼の色、常の彼とは違う、どんよりと淀むその色と蒼白の顔面に焼却炉での邂逅が蘇る。

「ねぇ、あんた、誰?」

 彼と同じ顔、彼と同じ声で、彼と違う眼の色を浮かべる誰かに問い掛けると、その「誰か」はうっそりと眼を細めた。初めて見る「誰か」の表情らしい表情に、背筋を一筋の汗が伝う。

「黒子ですよ、黒子テツヤ。君の大好きで尊敬する黒子っちです」

 眼を細めて口角を上げているのに笑顔に見えないその表情に肌が粟立つ。違う、こんな人間知らない。これは誰だ。思考回路は混線状態で、うまく状況を把握できない。乾いた唇を開いたが、何を言えばいいのか分からずその口から音は零れ落ちなかった。

「お前なんか黒子っちじゃないって言いたげですね」

 「誰か」が、くつくつと喉奥で笑う。バカにされているのが分かるのに、反応することが出来ない。固まったまま彼を凝視するオレに、「誰か」は再びその表情から色と言う色を消した。だからいらないって言ったんですよ、君なんか。そう言った彼の言葉が嫌に耳に残る。

「君はボクの何を見ていたんです? 黒子っちは強い人だって、世俗離れした奴だって思ってました?」

 君の理想を押しつけるのはやめてください。感情の起伏がない平坦な物言いは、桜の季節に焼却炉で耳にした記憶と完全に一致する。眼を逸らしたいのに、彼から視線が外せない。能面みたいなその顔を凝視しながら、オレはきつくこぶしを握り締めた。

「みんなボクを捨てる。だから、ボクもみんなを捨ててやる」

 言って、また彼が笑顔のようなものを浮かべる。
 次の瞬間、その円い眼が音もなく閉じられ、それを合図にオレはその場に尻もちをついた。

「……、あれ、黄瀬君?」

 呆然とするオレに掛けられた柔らかい声は、紛れもなく彼のものであった。尻もちをついたまま眼を白黒させるオレに、黒子っちは不審げに見つめる。何してるんですか、と尋ねられたが、オレ自身が何をしていたのか聞きたいくらいなのだ。うまく言葉を返せずにいると、彼がくしゅんと小さなくしゃみをした。
 そうだ、黒子っちは練習の後、汗も拭かずにここでじっとしていたのだ。風邪をひいてはまずいと鞄の中からぐしゃぐしゃになっているジャージを取り出して彼の肩にかけた。

「ありがとうございます」

 ふわりと柔らかく笑う彼は、オレが尊敬する彼に他ならなかった。自主練をするつもりで来たのにいつの間にか寝てしまいました、と言い立ち上がる彼につられてオレも腰を上げる。転がっていたボールを手にする彼に、翳りは見られなかった。
 あれは何だったのだろう。幻覚か、白昼夢か。ただ単に、黒子っちが寝ぼけていただけなのかもしれない。
 黄瀬君、と鼓膜を揺らす心地好い声に顔を向ける。そこにいる彼は、間違いなく大好きで尊敬する彼だ。忘れよう、それが一番良い。
 そう決意し、オレは彼の元へと小走りで向かった。



 その翌月、全中三連覇を成し遂げた直後、黒子っちはオレ達の前から消えた。誰にも告げず、何も言わず、彼はただその姿を消した。
 その事実を知った時、全身の毛が逆立つ感覚がした。そうだ、彼は逃げたのだ。オレ達から、そしてバスケから。強いつよいと思っていた尊敬する彼は、オレの知らない「誰か」の言う様に、本当は強い人間などではなかったのだ。

「君なんて、いらない」

 彼の言葉が鼓膜に蘇る。そうだ、オレは彼のことを追いかけるばかりで、自分の理想を押し付けるばかりで何一つ分かってやしなかった。だから彼は、オレをいらないと言ったのだ。
 今更後悔しても遅い。覆水盆に返らず、彼はもうオレの隣には戻って来てはくれない。
 だけど、もし彼がまたバスケを続けてくれていたなら。オレ達から逃げて、高校に進学しても尚、諦めきれずにバスケを続けてくれていたならば、その時は彼から逃げずに彼の弱い部分もずるい部分も全部知って、その上でもう一度彼の隣に立ちたい。願わくは、今度は背中を見守るポジションではなく、横顔を見守れる位置で。
 その為なら、きっと何でも出来る。彼の所属するバスケ部に単身乗り込んで行って、オレのところに来いと誘うのも良いだろう。
 諦められない、気が付いてしまった。自分が、こんなにも彼に焦がれていたことに。終わった瞬間に始まったこの感情を押し殺せるほど、オレはまだ大人ではないようだ。
 そうしてまた季節は巡る。桜の季節はすぐそこまで来ていた。


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