黒バス | ナノ




友達のお兄ちゃん

初めて彼と会ったのは、暑い夏の日の午後だった。
 友人である青峰っちのお宅を訪れた時に、玄関先で出掛ける間際のお兄さんと遭遇し、軽く挨拶を交わしたのが最初だ。

「こんちはっス」
「こんにちは。ゆっくりしていってくださいね。大輝、今日は夕飯いらないから、母さんに伝えておいて」
「おー、いってらっしゃい」

 ぺこりと頭を下げて薄らと微笑んでいた彼は、夏の幻みたいに儚く見えた。瞬きをすれば消えてしまいそうに脆弱な存在感に、横に立つ友人をちらりと見遣る。うん、似ていない。
 部活の友達である青峰っちは、天才的なバスケプレイヤーだった。何でも簡単に習得出来てしまい、故に何事にも夢中になれずにくすぶっていたオレを救ってくれたのが彼なのである。彼のプレーを初めて見た時はびっくりした。誰の手本を見たって、すぐにそれ以上に完成させて再現することが出来るオレが、彼のその鮮やかで俊敏な動きだけは頑張っても真似することが出来なかったのだから。
 その天才的なバスケセンスは恵まれた体格によるところも大きく、彼は中学二年生としては飛び抜けて背が高い。オレも背は高い方だが、そのオレよりも2,3センチほど大きいし、野生児らしく浅黒い肌もごつごつとした骨格もそこら辺の成人男性よりもよっぽど成人らしい。だが、恐ろしいことに彼はまだまだ発展途上、成長期真っ只中なのである。
 それに対し、彼のお兄さん――名前を、テツヤさんと言うらしい、はこの猛暑日に外に出れば五分と持たずに溶けて流れてしまうのではないかと思ってしまうほどに生白い。紺のポロシャツから伸びた腕は、女性らしいとまでは言わないがその白さも相まって滑らかそうに見えた。空の色が透けた髪色と同色のビー玉みたいな双眸が、青峰っちのいかにも肉食系な面影とは真逆の印象を与える。
 青峰っちよりもオレよりも随分と低い位置にあるつむじを見送って、ぼそりと感想を零す。

「お兄さんと似てないっスね」
「よく言われる」

 彼の第一印象は、薄い、青峰っちと似ていない。そんなもんだ。
 その時はそれ以上特に何も思わずに、その後青峰っちが先日手に入れたNBAのDVDの試合内容に上書きされて、すぐに忘れてしまっていた。

 では何故今、青峰っちのお兄さんのことを思い出しているのかと言うと、彼がオレの目の前で痴漢に合っているからだ。
 数ヶ月前から始めたモデルの仕事帰り、帰宅ラッシュでごった返す電車内で、お兄さんに気が付いたのは奇跡だったと思う。ただでさえ影の薄い彼だ、こう人が多くては人混みに紛れて完全に風景と同化するほどだ。この電車の中でお兄さんを見つけろというのは、砂浜に落とした指輪を探せと言っているのと同義である。無理だ、不可能だ。オレだって例外ではない。
 じゃあどうしてオレがお兄さんに気付くことが出来たか。答えは簡単、オレが気付いたのはお兄さんではなくて、痴漢の方なのだ。
 オレの所属するバスケ部は全国でも屈指の強豪校だ。中学校の部活動なのに一軍から三軍までで編成されているくらいで、全国大会優勝の常連校。オレが入ったのは今年からだが、去年、今年と全中二連覇を果たしている。
 そんな強豪だから練習もすさまじくハードで、毎日家に帰ればすぐにご飯を食べてベッドに倒れ込む程度に身体は疲弊する。それに加えて、休日はモデルの仕事もしているのだから、我ながらタフだと思う。思うのだが、では疲れないのかと言うとそんなことは全くなく、現に今も電車の震動が心地よくて、この蒸した人いきれの中でうつらうつらと立ったまま船をこぐ程度には疲れている。
 吊革に捕まったままふと意識が途切れた瞬間、オレの斜め前に立つ男がやけに荒い息をしていることに気付いた。気分でも悪いのかと心配になり、その様子を窺っていると、何やら右手の動きがおかしい。
 よくよく観察してみると、小太りの男の影で気付かなかったのだが、電車のドアと男に挟まれるようにして身を縮こませている水色の頭がちらりと見えた。最初こそそれがお兄さんだと気が付かなかったのだが、後ろの様子を見る為か、少しだけ振り向いたその横顔を見て、あの夏の日の午後を思い出したのだ。
 確かに記憶の中の彼は、むさ苦しい男臭さはなく、透明感がありどちらかと言えば中性的と言える容姿をしていた。だが、中学生のオレから見たって、どう見ても男性でしかなかった。女性の丸みを帯びた体つきとは、比べようもない。骨ばった身体を触ったって柔らかいところなど一つもないだろうに、この小太りの男はどうして好き好んで男、しかもあんなに地味なお兄さんの身体を触り、あまつさえ興奮に息を荒くしているのだろうか。全く理解できない。
 一定のペースで男の右手がねちっこく動く度に、その肩がびくりと揺れる。ドア横の手すりにつかまる白い手に力を込めたのか、手の甲に血管が浮き上がるのが分かった。
 助けた方が良いのだろうか。女の子が被害者ならすぐにでも助けるのだが、相手はお兄さんだ。ここで変に騒ぎを大きくして、男としての自尊心を傷つけてしまうのもよろしくない気がする。男が男に痴漢されて、衆人環視の前で男に助けられるのだ。もしオレだったらそれは耐えがたい屈辱である。
 どうしたものかと悩んだが、男の手が今までのさするような動きよりも大胆に大きくなっていくのを確認して、漸く助けることを決意する。車内にアナウンスがかかり、次駅での停車が近いことを告げた。ゆっくりと減速していき、それに合わせて男の身体も慣性の法則で斜めに揺らぐ。

「ちょっと、あんた……」

 なるべく目立たないように、男にだけ聞こえる距離で発した言葉はしかし、最後まで紡がれることはなかった。

「いだ、いだだだっ」

 目の前にあった小太りの男の脂ぎった頭部が、遠ざかっていく。何が起こったのか瞬時に理解出来ずに、その場に崩れ落ちる男をただ呆然と見ていた。
 
「駅員室行きましょうか」

 空が落ちてきたような、涼しげな声色が凛とした有無を言わさぬ強さと共にそう告げた。
その声ではっと我に返ると、先ほどまではふるふると震えて怯えているのかと思ったお兄さんが毅然とした表情で男の右手をねじり上げている。ひざから崩れ落ちる男の右手を引っ張り、そのまま車外へと引っ張り出した。
 反射的に、降りる駅でもないのに一緒に降りると背後でドアが音を立てて閉まる。ざわついていた車内の音が遮断され、代わりに向かいのホームで電車を待つ人々からの視線が彼等を取り巻いた。



「はい、これ」

 ピークを過ぎて幾分か人が少なくなったホームのベンチに座り、差し出されたお茶のペットボトルを受け取った。
 結局お兄さんは、平謝りして土下座まで始めた男を、今度やったら即警察に連れていくときつく言い含めて逃がしてやっていた。オレはと言うと、咄嗟に電車から降りてしまったものの特に何が出来る訳でもなくその場を見守り、全てが終わった後にオレの存在に気が付いたお兄さんに「何してるんですか」と聞かれる始末だ。情けない。
 痴漢現場を目撃したから、とだけ返すと、お兄さんは複雑そうに小さく笑った。表情の変化が乏しい人だから、僅かに微笑まれただけでもこちらがびっくりするほどの衝撃がある。心配してくれたんですか、と言われた瞬間、何が何だか分からなくなる程度にはうろたえた。心配、したのだろうか。ただ反射的に放っておけないと思い、身体が動いただけなのだが。中学生のオレが、大学生のお兄さんを助けようとするのもおこがましい気がする。
 あたふたするオレに、お兄さんは少し待っていてくださいと言ってお茶を買ってきてくれた。

「恥ずかしい所を見られてしまいましたね」
「恥ずかしいだなんて……お兄さんは悪くないんスから」
「まぁそうなんですけど」

 お茶に口を付けながらちらりと横目でお兄さんのことを観察する。
 白い、やっぱり白い。そして影が薄い。こうして隣にいるのに、よそ見すればすぐに見失ってしまいそうだ。こうして改めて見ても、彼の印象は初めて見た時とそう変わらない。一つ変わったとすれば、見かけによらず痴漢をひねりあげる程度には肝が据わっているということくらいか。
 こっそりと見ていたつもりなのに、視線に熱を込め過ぎたのだろうか。ふとお兄さんと目が合ってしまい、脊髄反射で目を逸らす。あまりに不自然な逸らし方に、視界の外でお兄さんがくつくつと笑っているのが分かった。畜生、恥ずかしい。

「黄瀬君、ですよね。家にさつきちゃん以外の友達が来るのは珍しいんです。大輝と仲良くしてやってくださいね」
「は、はいっス」

 向けられた柔らかい笑顔に、身体中の血液が顔に集まるのを感じた。夜風は頬に心地好いのに、じんわりと汗が滲んでいく。
 電車来ませんね、と言いつつオレから外された視線に一抹の寂しさを覚える。その感情に戸惑いつつも、つい先刻までは興味の対象ですら有り得なかったお兄さんの骨張った白い指が、やけに艶めかしく見えることに気が付いてしまった。
 青峰っちのお兄さんにしては似ていないし、ぱっとしないと思っていたのに、そのぱっとしないお兄さんが痴漢にあっていたのだと意識し出した途端、彼が異常にエロい存在に思えてくるから不思議だ。思春期にありがちな、友達のお姉ちゃんが綺麗に見える現象なのかとも考えたが、大体がテツヤさんはお姉さんではなくてお兄さんである。
 存在感はないが、隙のないストイックさがある。第一ボタン以外はきっちりと留められた白いシャツが、彼の清廉さを際立たせる。襟元から少しだけ覗く白い喉仏が上下に動く様を見て、知らぬ間に唾を呑みこんだ。

「あ、電車来ましたよ黄瀬君」
「……」
「黄瀬君? ほら」
「え、あっ」

 脳内の煩悩と格闘していた所為で、電車の到着にも気付けなかったらしい。何度目かの呼びかけでようやくそれに気が付く。唐突に手首を掴まれて、心臓が口から飛び出しそうになった。ぼんやりとしたままでいるオレの手を握って、電車へと歩き出すテツヤさんの背中をただ見つめることしかできなかった。





 テツヤさんの手は乾いていて冷たかった。あの感触のことを思うと、あれから2週間が過ぎた今でも、心臓が煩いくらいに騒ぎ出す。
青峰っちの家を訪ねたのはあの夏の日の一日だけ。あれ以来、電車でもテツヤさんと会ったことはない。

「ねぇ、青峰っち。またあのNBAの試合見たいんスけど」
「あ? ああ、今度持ってきてやるよ」
「でも、あれお気に入りなんでしょ? 借りるの悪いし、青峰っちの家に見に行くっスよ。今度の日曜はどうスか?」
「……いや、やだ」
「え、なんでスか」
「なんとなくやだ、絶対やだ、お前もう家来るな」

 どうにかしてまた会えないものかと青峰っちにさりげなく探りを入れたのだが、野生の勘で断られた。下心があるのは事実だからそれ以上粘ることも出来ずに、悶々とした日々を過ごしていたある日、チャンスは突然やってきた。



「黄瀬、青峰にこれ渡しといてくれないか? 探したんだけど、もう帰ったみたいで見当たらないんだ」

 担任に呼びとめられて、封筒を渡される。今日は珍しく部活の練習がないから、やけに張り切った青峰っちがホームルーム終了と同時に教室から出て行ったことを思い出した。今日は金曜日、明日明後日と学校は休みだが、バスケ部はいつものごとく練習がある。練習の時にでも渡してくれ、と言う意味だったのだろうが、このチャンスをみすみす逃すほどオレは甘くはない。
 最高の笑顔で了解の旨を伝え、急ぎ足で青峰っちの自宅へと向かった。



「黄瀬君、こんにちは。どうしたんですか」
「こんにちは、大輝君に先生からの手紙渡しに来たっス!」
 
 チャイムを鳴らして名前を名乗ると、都合のいいことにテツヤさんが応答してくれた。逸る鼓動を落ち着かせるために深呼吸をしたが、逆効果だ。わくわくと浮足立つ気持ちを抑えることが出来ない。
 入ってください、と促されて室内に入ると、青峰っちのものとは違う、清潔な匂いがして目が眩みそうになる。リビングに通されて、すすめられた麦茶に口を付けた。

「大輝、ザリガニ釣りに行ってて……。電話したんですけど出ないんです」
「え、ザリガニ……?」
「留守電残しておいたので、気が付いたら電話かかってくると思います。少し待っていてください」

 友人の意外な趣味に面喰いつつ、テツヤさんのお言葉に甘えて待たせて貰うことにする。小奇麗なリビングを見渡していると、隣にテツヤさんが座り、自然と背筋が伸びる。それに気が付いたのだろう、テツヤさんがふわりと笑った。

「緊張しないでください。取って食べたりはしませんから」

 むしろ取って食べようとしているのはこちらだ。だがそんなことは口が裂けても言えない。尻の下の座布団を引っ張り、居住まいを正してテツヤさんを見た。
 オレの心境の変化なのか、それともテツヤさんがオレに気を許してくれたのか、以前二回よりもずっと柔らかい表情をしているように見える。彼が動く度に、彼の匂いが鼻腔を擽るからいけない。簡単に揺らぐ理性に、思春期を呪った。
 テレビでは夕方のニュースが流れている。言葉少なに画面を見つめるテツヤさんの横顔ばかりをばかみたいに見つめていた。会うのは三回目、会話だって数えるくらいしかしていない。最初は歯牙にもかけていなかったのに、彼が誰かの性的対象となり得ることを意識した途端に、彼のことが気になってしまった。
 友達のお兄さん。ただそれだけの筈なのに、気になって仕方ないのだ。あの日から、テツヤさんを夢に見たことだってある。起きた時の身体の反応の正直さには自分でも軽く笑ってしまった。

「黄瀬君は彼女いるんですか」

 慣れない正座に足が痺れ始めた頃、テツヤさんが突如放った言葉に、大げさなくらいに肩が跳ねた。なんだ、どう言う意味だ。探りを入れられているのか。
 
「え、いや、い、いないっス! けど、なんで……?」

 努めて冷静を装いながらも、動揺は隠しきれない。どもりつつもなんとかそう返すと、そうですか、とテツヤさんは少し安堵したように見えた。
 安心するって、これは期待しても良いのか。相手は友人のお兄さんで、まだ会うのは三回目で、オレは中学生でテツヤさんは大学生だけど、恋愛に年の差なんて関係ない。自然と手に滲んできた汗を、制服で拭う。

「さつきちゃんって知ってますか。桃井さつきちゃん」
「え、ああ。バスケ部のマネっスよね」
「ああ、黄瀬君もバスケ部でしたね。あんなに可愛い子が近くにいるのに、大輝ときたらバスケやザリガニばかりで彼女を作る気配もないので……。大輝が特別かと思ったのですが、黄瀬君もいないならそうでもないんですね。安心しました」
「…………はぁ」

 全身から力が抜けていくのを感じた。なんだ、そういうことか。一瞬でも期待した自分が恥ずかしい。

「あの、お手洗い借りてもいいっスか」
「はい、階段の下です」

 なんとか気分を切り替えたくて、ついでに顔も洗わせてもらおうと席を立った、のだが痺れた足ではうまく立つことが出来ない。自分で思っている以上に身体の制御がきかず、上半身が斜めに崩れ落ちていく。

「わっ」

 咄嗟に目をつぶり衝撃に備えたが、想像した衝撃は来ない。代わりに感じるあたたかい体温と耳元に吐き出される吐息に、そろりと目を開けた。
 瞬間、目の前に広がるのは夏の空をそのまま映した水色で、次第にそれが大きく見開かれていく。急展開に思考が追い付かなくて、この状況が理解出来ない。テレビは付けっ放しの筈なのに、室内の音が何も耳に入って来なかった。
 オレの下で、テツヤさんが目を真ん丸にしてオレを見上げている。唇が触れそうな位置にある彼の顔は、白い皮膚が血管を透かしたように赤くなっていた。

「あの、黄瀬君……?」
「テツヤさん、」

 どくんどくんと鼓膜が心臓になったんじゃないかと思えるほどに鼓動が耳につく。彼の吐く息が嫌にはっきりと聞こえて、それが肌を掠める度に背中が粟立った。ごくりと唾を嚥下すると、腕の下のテツヤさんが瞬きをした。
 ゆっくりと距離を縮め、鼻が彼のそれを掠める。テツヤさんは一向に抵抗しない。それに励まされ、深い息を吐いてから口を開いた。

「テツヤさん、オレ、」
「黄瀬ェ、てめぇ何してんだ……?」

 が、決意と共に吐き出したオレの言葉は最後まで紡がれることはなかった。



「お前はもう、まじでうち来るな! 絶対来るな!」

 留守電を聞いて走って帰って来たという青峰っちは、オレからテツヤさんをかばうようにして立ちはだかり、射殺さんばかりの眼光を浴びせてくる。正直こわい。

「大輝、お友達にそこまで言わなくても」
「兄貴は黙ってろ! こいつあぶねぇんだよ」

 必死で叫ぶ青峰っちに返す言葉もない。目尻に滲む涙を瞬きで遣り過ごしていると、テツヤさんと目が合い、反射的に心臓が跳ね上がった。

「また来て下さいね」

 青峰っちに聞こえないように、口の動きだけで告げられた言葉がオレの読み取った通りだとしたら。期待と甘酸っぱさに弾けそうになる下半身を誤魔化す為に、オレは走って青峰家からお暇した。
 思春期ってこわい。

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