05:恋を咀嚼し飲み込む前に
己を恨めしく思うことがあっただろうか。
ザンザスは愕然としていた。

きらがイタリアに来てからの生活リズムは、彼女の帰国前と同じだった。教養は勿論、イタリア語を引き続き学び、昨今のイタリア情勢とこちらの世界の関わり方などを学んでいた。
そして予定が合えば、幹部の誰かと出かけるというものだった。

ザンザスはきらと顔を毎日合わせる事が出来なかった。時間が合わないからである。早朝に任務に出ると聞いたきらがわざわざ早起きをし、コーヒーを持って彼の部屋にいき出発まで一緒にいる事もあった。勿論、タイミングが合わずで会えない事があったが二人に密度は一定であるのを誰もが認識していた。
口づけのひとつでもしていてもいいのに、ザンザスはしていなかった。

していなかった訳ではない、正しく言えばきらがキスを避けたからだった。

『・・・怖いです・・・』

きらの怯えた声がザンザスの頭の中で再生される。

それはそれは心地よい夜風が吹く春の切ない夜の話である。
100年続く老舗レストランのパーティーに呼ばれた帰りだった。月が綺麗だから庭を散歩したいときらが提案をしザンザスも快く受けた。

銀色のベールがかった月が、緑色に染まった庭に柱を降ろし、星は小さく輝き、太陽を待ち焦がれる花々の蕾は眠っていた。

決して華美なものではないが、町歩きには華やかすぎるドレスを身につけたきらはスカートを少し持ちながら車を降りた。
ザンザスはそんな彼女を支えようと、車から降りる際に差し出した、手は繋がれたまま庭園へと入った。


少しお酒を飲んで蒸気したきらの頬のせいなのか、月明かりで白く見える肌のせいなのか、物凄く艶っぽく見えていた。
ザンザス自身も気持ちよくお酒を飲んだ気がしてたし、そのせいなのかもしれないと考えた。何より、隣で歩くきらを愛おしかったのだ。繋いだ手は離し難く、しっかりと自分の肌と合わさっていると感じた。

きらの唇はすでに口紅が取れていたが、ザンザスを誘惑するには十分である。
当の本人は今日のパーティーでの不思議だったことや、美味しかった食事をザンザスに話すので夢中だった。自分が月明かりのベールに包まれ、どれほど美しく見えていたか全くわかっていなかった。
ただザンザスの手が大きくて、心地良くて、ずっと手を繋いでいたいと思いながら歩く夜の庭園は麗しい、という事で頭がいっぱいになっている。
夜空を彩る小さな星々を指でなぞり、その輝きを手のひらに収めてとっておきたいほどの夜であったのは言うまでもない。

『きら』

なのに、その夜空の星が突然燃え出す様な気がした。
一つ一つが燃えて、きらの幸せな気持ちも一緒に奪っていく様だった。

名前を呼ばれ、ザンザスに視線を向けると頬に手が添えられた。もう大丈夫だと思ったのに、とあの時の事がきらの中で駆け巡った。恐ろしい目をしていた彼、自分を奪おうとしていた彼の恐ろしさが蘇ったのだ。
もうそんな事ないのに、どうしてときらは思ったが耐えきれず彼を拒む。

『怖いです・・・』

きらは視線を地面に落とし、ザンザスの手から離れようとしている。
そんなに嫌なのか、とザンザスは意表を突かれ愕然とした。

『・・・部屋に戻るか』

燃えた星はただ、各々が一つを煌々と輝いていて、この薄くて大きな沈黙を燃やしてくれる事はなかった。
眠っていた蕾が星の燃える音に気づいた様な、不思議な静けさが漂う。
きらは彼の言葉に一度だけ頷き、口づけを拒絶されたザンザスは頬から手を話さざる得なくなった。

『もうちょっと待ってください・・・』

歩き出そうとしたザンザスへのきらなりの言葉だった。決してあなたが嫌いという訳ではないし、口づけを受け入れる覚悟ができる時まで、という意味合いが込められていた。それでもきらの青色のドレスが夜空と溶け合って消えてしまいそうにザンザスは見えた。手に入れたはずなのに、自分の手からすり抜ける様なそんな感覚に陥っていた。

『ああ』

『お、おでことか、ほっぺたなら大丈夫です!』

我ながらばかっぽいときらは思った。
ザンザスが悲しんでいる気がしたのだ。赤い瞳に雲がかった様で、悲しげ見えたのだ。
けれども実際のザンザスの心のうちは違った。
穏やかだった心の水面が波打ち始め、動揺していた。自分ではどうしようもないくらいに、であった。膝の上に乗るのは平気で口づけが怖い?全く理解できない女だと思った。思い通りにならないことで苛立ちが起きそうではあったが、目の前にいる年下の婚約者の懸命さに気持ちをどうにか立て直した。

ザンザスは何も言わずにきらの頬へといつもの様に口づけをした。
優しくて、彼女を思う口づけだった。きらもこの口づけは好きらしく、自ら腕を絡めてザンザスの肩に頭を乗せた。
湖から怪物が出てこなくてなったのも彼のおかげなのに、申し訳ないと思い夜は更けて行ったのだ。

「やだわあ、キスのひとつもしてなかったなんて!」

そう言いながらルッスーリアが紙袋をたたんで行く。
任務先のパリで大量に靴を買ったので、これから靴の試着ショーなのである。

「それ以上もないよ!」

色とりどりの靴箱から靴を出しては並べるきらが目を丸くして言った。そう、ルッスーリアはてっきり彼女と愛するボスが一つになったのかと思っていたのだ。

「まあボスはびっくりしたでしょうね。
この靴いいでしょう?ふふ、一番のお気に入りよ。
あんな色男からの口づけ、誰も受け入れるわ。ボスの事怖くなくなったんじゃないの?」

素敵な靴だと思う、と頷くきらの鼻を摘み、並べた靴に順番にルッスーリア試着し歩き始めた。あんな色男、という言葉がきらの胸に刺さった。それだけじゃない、ザンザスの事は怖くないと思っている。なのにあの夜は何故かあの時の記憶が鮮明に蘇ってきたのだ。まるで思い出の香水が鼻腔をつき記憶を呼び起こすのと同じだった。
香りなどないのに、鮮明にあの時とあの夜感じた恐怖が背中を滑った。ザンザスはきらにとって怖い男ではないのに。
ルッスーリアの買った靴を10足ほど眺めながら答えを紡ぐ。

「怖くないの、でも思い出しちゃって」

「ボスに食べられちゃうのが怖いのかしら!いやあねえこの子ったら、おほほほほ!」

声高に笑うルッスーリアにきらは抗議の声をあげた。

「冗談よ、でも言ってみたらいいじゃない。怖くしないでって」

「言ってどうなるの?」

「あら、じゃあ言わないで何が変わるの?
察してもらうつもり?残念ながらそれは難しいわ。
確かに、ボスがいけなかったけどその傷があるからゆっくり距離を縮めて欲しいってちゃんと言わなきゃ。この可愛い可愛いお口でね」

真新しい靴の履き心地を試すかの様に大げさに練り歩き、座っているきらのもとまで来ると頬を片手で掴んだ。サングラスの奥の瞳の色は見えないが、ルッスーリアの愛の指導はきらに雷を落とした。

「わかってくれるかな・・・?」

「あなた、ボスの事信じてるの?」


ルッスーリアの言葉はきらのもやもやとした言語化できない気持ちをぴたりと言い当てた。

「別に他の女と連絡してるわけでもないでしょうし、乱暴な事すると思うの?」

「取ってないし、もう私に酷い事はしないと思う・・・」

やっときらの頬がルッスーリアから解放される。酷いことはしないと思う。これはきらの中にあるたしかな気持ちだった。

「教えてあげる。
ボス、あのヴェントの青年の肩を刺したの。あなたを助けるために。
その時に使ったのはあなたが割った花瓶の破片よ」

靴を脱ぎ、隣に並べられた新たな靴に足を入れながらルッスーリアは話した。

「私はそれを聞いてきらちゃんの気持ちを汲もうとしてるんだって勝手に思って感動したわ。そばにあったから武器になっただけなのかもしれないけど」

レースアップシューズの紐を調整するルッスーリアは慣れている様で、すぐに自分が履ける緩さを見つけていた。
ザンザスが追った傷はそういうことだったのか、と数ヶ月遅れにきらは納得した。
一方でザンザスの当時の気持ちは推し量れないが、自分のことを思って戦ってくれたとしたら何がどうして不安なのかわからなくなった。

「ボスのこと、好きなんでしょう」

「うん・・・」

あの夜、口づけが出来ていたらどんなに幸福だったのだろうかときらは思った。
隙間など消してしまうくらいに抱き寄せて欲しい、そして息が苦しくなる程に自分を求めて欲しいと。こんなにも自分は愛されていて、こんなにも自分は彼を求めている、その気持ちを、その時の温度をきらは知りたくなった。
まだ知らぬ燃えるような欲望に包まれたいのだ。

「待ってくれるわよ、ボス。
大事なきらちゃんのお願いなんだから。それでその時が来たら身を委ねればいいわ」


自分の体はザンザスの口づけを望んでいるのに、仄暗い記憶が背中を引っ張っていた。
いっそのこと彼に身を任せればこの仄暗い記憶が消えてくれるだろうか、ときらは考えた。ルッスーリアの靴の試着はまだ五足目である。

「それとね、来週はマードレ島にいくから」

「マードレ島?何するの?」

「島には観光しか用がないんだけど、その近くで親睦会があるのよ。
ランチパーティー用のワンピースはあったかしら?」

6足目の靴をはいたルッスーリアに嫌な予感を覚えたきらが予感で終わることはなかった。


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