恋しリビドー
※40歳を超えてお付き合いをはじめたふたり
乾いたフィルターの感触を確かめるように、唇の間でもてあそぶ。時間をかけてゆっくりゆっくりと煙を喉の奥へと送り込んでいくと、疲弊した身体からゆるりと力が抜けていくのを感じた。白く色づいた空気をふう、と吐き出しながら、ソファの背もたれへと身体をうずめる。適温に調整された室内は実に快適で、一人暮らしをしていた頃とは大違いだな、と静雄はぼんやりと思った。
「おかえり」
ふいに、頭上から声が降ってきた。かすれがちな、しかし耳障りの良い甘い声に誘われるように、肩越しに背後を振り返った。今まさに起きましたとばかりに大きなあくびをもらす臨也に目元を細め、静雄は「おう」と短い返事を返す。
「起こしたか」
「いや。ていうか、帰ってきてたならむしろ起こしてよ」
口元を占領しているアメリカンスピリットを忌々しいげにつまみ上げ、臨也は静雄の唇にかすめるだけの口づけを落とした。「煙草臭いよ」なんて分かりきった苦情をたれ流すこともなく、臨也は手にした吸い差しを静雄の唇にはさみ直すと、昼寝から目覚めたばかりの猫のようにぐっと背筋を伸ばした。
「いたたた、……あー、さすがに徹夜はこたえるね」
「もう良い年なんだからあんま無理すんじゃねぇよ」
「俺は永遠の21歳ですぅ〜」
おっさんが何言ってんだ、という静雄の目線に取り合うでもなく、臨也は凝り固まった肩をぐるぐると回している。目元に滲んだクマや、うっすらと口元に散らばる無精髭をもってしても損なわれないこの男の精悍とした美しさは、互いに40を越えた今も健在だった。若い頃にはなかった目尻の皺ですら、折原臨也という彫刻に味をもたせるための細工の一つのように思える。惚れた弱み、というフィルターもある程度は含んでいるのだろうが。
「……っ」
「っと、おら。無理すっからだ」
足下をふらつかせた臨也の腕をとっさに掴みとる。口元からこぼれ落ちた吸い殻を手早く灰皿に押しつけ、入れ替わりに臨也をソファに座らせた。
「ごめん」なんて殊勝な台詞を吐く臨也の膝をぽん、と叩き、静雄はソファに寄り添うようにしてフローリングに膝をついた。
「痛かったら言えよ」
手馴れた様子で、スラックスの裾を膝のあたりまでめくり上げた臨也の足を太股の上に乗せてやる。足首の付け根からふくらはぎにかけて、手のひら全体を使って慎重に揉みほぐしていく。新羅に教わった通りの手順で一通りのマッサージを終え、続いて同じ要領で左足をほぐしはじめた。時折顔をしかめはするものの、臨也は抵抗することもなく静雄の手に身を委ねている。
臨也は若い頃、一時的にではあるが車椅子での生活を余儀なくされていたことがある。その影響か、彼の足は時々こうして不調を起こすことがあった。
原因を作ったのは静雄だ。けれど、今も昔も静雄はそのことを後悔したことはなかった。言葉にこそしないが、おそらくは臨也も静雄と似たような感情を抱いているに違いない。
互いの感情に折り合いを付けることができなかった自分たちが、ただ一つだけ共有することができたあの瞬間の感情を、二人は何よりも大切にしている。
あの日、あの時、あの瞬間がなければ、今の自分たちは無かっただろう。そう思えるのは、今の穏やかな関係があるからこそだけれど。
「ん、ありがとう。もう大丈夫だよ」
ふう、と息をついた臨也の顔を下から見上げるようにしてのぞき込む。徹夜での仕事明けということを抜きにしても、顔色が良いとは言えなかった。少し伸びた前髪を指先でかきわけ、目元のくまをなぞる。
「このままベッド行くか?」
「わお、シズちゃんってば大胆」
「手前……永眠させるぞ」
わざとらしくしなをつくる臨也を指先で軽くこづく。いくら年をとって丸くなったとはいえ、静雄の「軽く」は常人にとって決して「軽く」はない。額を押さえソファの上で悶絶する臨也にため息を吐き、静雄はその身体をベッドへと強制送還すべく肩に手をかけた。
「うお……っ?!」
と、タイミングを計らったように、臨也が上体を起こした。差しのばされた静雄の腕を絡め取り、自らの胸元へと引き寄せる。バランスを崩した静雄を抱き止める形で、二人は仲良くソファにダイブした。
「手前なぁ……」
全体重をかけないようにとっさに身体を捻ったせいで、不自然に膝を打ちつけてしまった。じんじんと痛む膝をさすりながら、静雄は恨めしそうに臨也を睨む。愉快そうに細目られた両目に長い睫がゆっくりと幕を引き、三日月型のカーブを描いた唇が重ねられた。
「ん……」
唇の表面をねぶる舌の感触に、静雄の背筋は小さく震えた。待ちわびていたと悟られるのもしゃくで、頑なに唇を引き結んで進入を拒む。
焦らされたとでも思ったのか、臨也が不服そうに「シズちゃん」と呟いた。その吐息混じりの声音すら自身を煽ると、この男は果たして分かっているのだろうか。

「ね、二人で気持ち良いことしよう」
そろりと瞼を開くと、熟れた瞳がじっとこちらを見下ろしていた。

* * *


寝室は小洒落た形のランプだけがぽつりぽつりと部屋のすみに灯され、全体が淡いオレンジ色に染まっていた。薄闇に目が慣れる前に、性急にお互いの服をむしりとっていく。先手を打った静雄の手によってすでに半裸に向かれた臨也が、負けじと静雄のバーテン服に手をかけた。
ベストを引きはがし、その下に並ぶボタンをひとつずつ外す一連の動作すらもどかしい。下の方のボタンに自らの指をかけたところで、臨也が不服そうな声をあげた。
「こら」
「……んだよ。手伝ってやってんだろうが」
ぺちりと手をはたき落とされ、さすがの静雄もむっとした表情を浮かべる。つんと尖った唇の先をはくりと食み、抗議の言葉はそのまま臨也の唇に吸い取られてしまったけれど。
「俺がこの服脱がすのに何年かかったと思ってるんだよ。いいから、シズちゃんはじっとしていて」
「はいはい」
大げさな奴だな、とため息を吐き、言われるがまま身を委ねる。ようやく最後のひとつを外し終えた臨也は、偉大な仕事を成し遂げたとでも言うように満足そうに笑った。
「相変わらず、綺麗だ」
首筋から鎖骨のライン、その下になだらかに続いていく薄い胸板を確かめるように手のひらでなぞり、臨也はうっとりと呟いた。
初めて目にするというわけではないが、彼はこうして肌を重ねるたびに必ずその賞賛を口にする。感極まったように、少し潤んだ声で。

火花のようにギラギラと衝突し続けた十代を経て、二人の関係はその延長線上をずるずると進んでいった。牙を剥き出しに殺し合いを続けた二十代も半ばほど過ぎた頃、捻くれながらも一つの線の上にあった臨也と静雄の関係はそこで一度途切れた。切れた糸をたぐってみても、相手の首根っこを掴むことができない距離にまで離れ――そこでようやく、静雄は己の中に刻みつけられた傷跡を見つめ直した。
ようやく答えにたどり着いたのは三十代の半ばを越えてからのことだった。今思い出してみても恥ずかしくて死にたくなる。詳細は省くが、つまりは臨也も静雄と同じく、切れた糸の先を必死にたぐっていた、とだけ言っておこう。
「凄いドキドキいってる。興奮してるんだ?」
シャツの合わせを開いた右手が、そろりと心臓の上を這う。甘ったれた吐息を噛み殺し、静雄はにっと口端をつり上げた。自らの手のひらを差しだし、臨也に倣ってその胸元に指先でふれる。
「手前も一緒だろうが」
「ばれたか」
いたずらっぽく笑う男の表情は、昔と何一つ変わらずに静雄の目に映る。それこそ、まだ真新しい学ランがまぶしかったあの頃のような。こんなに長く時間が過ぎているのに、そして自分たちの関係はこんなにも変わっているというのに。不思議な感覚だった。

静雄が臨也と恋人同士という立ち位置で関係をスタートせたのは、四十を間近に控えてからだった。途切れた糸を結びつけてからも、しばらく二人の関係は友人という立場に近かったように思う。互いに相手がどういう目で自分を写しているのかということは理解していたし、世間一般的な「友人関係」からはほど遠い関係性ではあったが。
仕事帰りに落ち合って食事をしたり、休みの日に映画を見に行ったりもした。そんな牧歌的な関係性に変化をもたらしたのは、四十回目の静雄の誕生日の日のことだった。なにやら思い詰めたような顔をした臨也からの告白によって、二人の関係は新たなステージに到達したのだった。

互いに一糸まとわぬ姿となると、臨也はサイドボードから小さなボトルのようなものを取り出した。半透明のプラスチック容器の中でゆらりと揺れる液体を手のひらに垂らし、両手でしっかりとあたためる。
「……っ、は」
ぬるぬるとぬめった感触に敏感な部分を握り込まれ、静雄は思わず息をついた。ベッドに横たわって枕に顔を埋めてしまえば、羞恥はいくらかやわらぐ。それでも、臨也の美しい瞳がじっとそこを見つめている様を瞼の裏で想像しただけで、言い表しようもない快感が身のうちに芽吹いくのだ。
「シズちゃんも敏感になったよねぇ」
「……るせ、ッ、ん」
「最初はガチガチに緊張して、感じるどころじゃなかったのにね」
「まあ、今はこっちがガチガチか」なんて笑えない軽口を叩く臨也を睨みつけるも、握り込まれたそこを擦りあげられれば、抗議の言葉はあっさりと甘い息づかいへと塗り変えられた。
「ん、ふ……っ、ぁ、あ…」
臨也が手のひらを上下させるたび、くちゅくちゅとローションの泡立つ濡れた音がこぼれ、やたらと耳について仕方がない。シーツに擦れる背筋を鈍い快感が這いのぼっていく。体中をめぐったそれは、少しずつ腰の奥に溜まり静雄を追いつめていった。
「うあっ……!」
臨也の指先がカリの敏感な部分をえぐると、シーツの上でつっぱねたつま先が弾かれたように跳ね上がった。喉の奥に必死に押し込めていた矯声が飛び出し、静雄は恨みがましい目で臨也を見やる。
「そんな目で見ないでよ。抑えがきかなくなる」
わずかに見開いた両目をすっと細めたかと思うと、臨也は静雄に覆いかぶさった。生理的な涙で濡れた目元に、臨也の唇がやさしくふれる。火照った身体や胸元でさざめく心音は、目の前の男が自分と同じようにどうしようもなく興奮しているのだと静雄に伝えてくる。興奮、と。頭の中に浮かんだ言葉をしみじみと反芻して、静雄は「ああ、こいつ俺に興奮してんのか」と今さらのように納得した。同時に、だったら全部ぶちまけろよ、とも。切なげに眉根を寄せた顔
「手加減しようなんて考えてんじゃねえよ」
嬉しいような、むずがゆいような。何とも言えない気持ちを隠すように、静雄はぶっきらぼうに吐き捨てた。
了承の合図とばかりに、先ほどまで執拗に性器をねぶっていた指先が奥まった場所を撫でつけた。華奢な指先が具合をうかがうように浅く中を抜き差ししたが、ローションのぬめりを借りていることも手伝って痛みを感じることはない。
「辛かったら言うんだよ」
こわばる身体を悟られまいと細い息を吐き、
静雄は揺れる赤い瞳をしっかりと見据え、小さく顎を引いた。

* * *

「あれ、出かけるの?」
玄関先で靴を履きならす背中に向け、臨也が不思議そうな声を上げた。胸の内で舌打ちをならしつつ、静雄は素っ気ない声で「ああ」とだけ短く返す。
こっそりと出かけて、こっそりと帰宅する腹づもりであったというのに、まったく目ざとい男だ。靴ひもをしっかりと結び直し、つまさきをトントンと床に打ちつけて慣らす。
「今日は仕事休みだろ?」
「……何で手前が俺のシフトを把握してやがる」
「いや、何で……って。普通に冷蔵庫に張ってあるし」
静雄は若い頃に世話になった上司の元を離れ、今はバーテンダーの仕事を生業としている。昼はカフェとして営業し、夜は酒を取り扱うカフェ・バーで、勤務形態は完全シフト制だ。臨也と生活を始めてからも、つい一人暮らしの頃のくせが抜けずに勤務表を冷蔵庫に張り付けていたのだが、まさかそれが裏目に出ようとは。
「ねえ、俺に何か隠してる?」
困惑、というよりはっきりと疑念を込めた目で静雄を見据え、臨也はおもむろに腕を組んだ。
語尾に疑問符をぶら下げてはいるが、その口調は問いかけではなく、どちらかというと尋問じみていた。静雄ほどではないが、こう見えて臨也もなかなかに鼻がきく。長らく裏社会と密に関わる生活を送っていただけあって、駆け引きじみた会話から相手の本心を探り当てることもお手のものだ。
それに引き替え、静雄は嘘や建前が苦手な性分である。口先だけの嘘をついたところですぐにボロがでるだろうことは十分承知していた。だからこそ、こうして臨也の目を盗んで行動を起こそうとしていたわけだが。
「夜には帰る。飯、よろしくな」
一方的にそう告げ、静雄はドアを出た。あの足では彼がまともに追いかけてこれないということを知りつつ、静雄はマンションの階段を足早に駆け降りた。







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