恋しリビドー
※40歳を超えてお付き合いをはじめたふたり
少ない街頭の光だけを頼りに、周りを見渡した。公園のあちらこちらで肩を寄せ合うカップル達の姿が目に入らない、比較的奥まった場所に古びたベンチを見つけ、やれやれと腰を下ろす。元は白く塗装されていたようだが、ろくに手入れがほどこされていないらしくあちこちペンキが剥げかけていた。
薄いスラックス越しに伝わってくるひやりと冷たい感触が馴染んでくると、静雄は手持ちぶさたにポケットから煙草のケースを取り出した。
時折通りすがる男たちは、じろじろと静雄の姿をねめつける。スーパーの陳列棚に並んだ商品でも物色するような目つきは気持ちのいいものでもなかったが、静雄は淡々と煙草をふかすことでなんとかやり過ごそうとした。
一人目が通り過ぎ、しばらくしてやってきた二人目は足をとめ、三人目に至っては静雄の目の前にまで歩み寄ってきた。が、結局は三人の男のうち誰かから声をかけられるということもなかった。そのことに内心安堵している自分に気づき、静雄はちっと短い舌打ちを鳴らす。
煙草を吸うためにわざわざこんな場所にやってきたわけではない。臨也の制止を振り切って家を出た手前、静雄は今日中にかたをつける腹でいた。
次に誰かが足を止めたら、愛想笑いのひとつでもくれてやるべきなのだろうか。……柄でもない。自嘲的な笑みを浮かべた静雄の手元で、五本目の煙草が早々に燃え尽きた。
「ヘビースモーカーだね」
「あ?」
足下に置いたコーヒーの空き缶に吸い殻を詰め込んでいた静雄は、声につられるように顔を上げる。見れば、パリっとしたスーツに身を包んだサラリーマン風の男が、静雄を見下ろすようにして姿勢よく佇んでいた。
座っても?と律儀に訊ね、静雄が小さく頷くのを確認してから、青年はベンチに腰を下ろす。目鼻立ちのはっきりとした顔をしているが、表情や雰囲気はどちらかといえば子供っぽい。
無遠慮に視線をそそぐ静雄に気を悪くするでもなく、青年はあどけない笑みを浮かべた。
「さっきから見てたんだけど、ずっと絶え間なく吸ってるよね。ヘビーっていうか、チェーンスモーカーっていうんだっけ。そういうの」
「あー……癖みてぇになってるんだよな」
「昔から吸ってるの?」
「ん、まあ」
彼は饒舌だった。ここへは良く来るのか、普段はどんな仕事をしているのか、彼は一方的にべらべらと唇を動かす。適当に聞き流しているうちに相手が名乗った名前は、静雄の耳には残らなかった。行きずりの関係であれば、覚える必要もない。
ぽつりぽつりと男の話に相づちを打ちながらも、「どうやって本題を切り出すべきか」だけをぐるぐると考えていた静雄に向け、青年はずばり核心めいた話を始めた。
「この公園ってさ、いわゆるハッテン場ってやつなんだけど、それは分かってる?」
臆する様子もなくさらりと言い放たれ、静雄の方が目を丸めた。ハッテン場、という単語はもちろん聞き及んでいる。というより、それが目的でわざわざこうして新宿くんだりまで足を運んだのだ。こくりと頷くと、青年はさらに言葉を続けた。
「こんな時間にここに居るってことは、静雄さんも相手を探してる……ってことで、いいんだよね?」
教えたばかりの名前を交えて、青年は無垢な笑顔で小首をひねってみせる。つまり、セックスの相手を探しているんだよね?と。
その質問にも先ほど同様素直に頷いてみせると、彼は大げさに背中を反らせた。
「意外だなぁ。静雄さん、モテそうなのに。こんな場所に来なくても、相手なんか選びたい放題じゃない?」
「良い年したおっさんがモテるかよ」
冷やかしならごめんだとばかりに、静雄は柳眉をひそめた。ぱっと見の印象ではあるが、青年は静雄よりも大分若そうだ。三十代……いや、下手をしたら二十代の後半ぐらいだろうか。それこそ、わざわざ中年の男を捕まえずとも、いくらでも相手を探せそうなものである。
「見たところ訳ありそうだね。俺で良かったら話してみてよ」
見ず知らずの奴に何で……と反論しかけたものの、静雄はぐっと唇を引き結んだ。
逆だ。見ず知らずの男を相手に意固地になっても仕方がない。それではここに来た意味がなくなってしまう。
静雄は煙草のケースから最後の一本を取り出し、唇の端にくわえた。簡易ライターを手の中でもてあそびながら、自らの胸の内を吐き出していく。
「……ぶっちゃけて言うと、相手は誰でもいいんだ。あんたじゃなくても。俺は経験がねえから、こういうことも勝手が分からない。だから、好き勝手してくれる奴の方がいい」
言い変えれば、誰かれかまわず股を開きにきたとのだと宣言しているも同然だ。おまけに、お前には微塵も興味がないと言い切ってすらいる。そんな最低な告白を聞かされた後にも関わらず、傍らの青年は目元を細めてやわらかく笑った。
「静雄さんは正直な人なんだね」
人好きのする笑み。だが、その裏側に何かとんでもない秘密を隠しているような。どうにも表現しづらい空気をもった男だ。お喋りなところも含めて、誰かさんに似ていないとも言えなくもない。
こじつけめいた共通点を探してしまう程度には、罪悪感を抱いているのだということに、静雄は今さらのように気づいた。
「じゃあ、とびきり優しくしてあげないとね」
冷えた指先が静雄の指をそっと絡め取る。それを合図とばかりに、青年はベンチから腰を上げた。



* * *


自分はどちらかといえば淡泊な方なのだと思っていた。少なくとも、臨也と今のような関係に落ち着くまで、静雄は自らをそう評していた。若い頃から喧嘩、暴力、破壊の三拍子を常に身にまとっていた彼にとって、恋だの愛だのといった世界はどこか遠い国での出来事のように現実味がなかった。つまり、まるで異性との接点がなかった。
とはいえ、静雄とて男だ。性欲というものがまるで無いわけでもなく、必要に応じて自分で処理はしていた。ただ、それはあくまでも事務的な「処理」でしかなかった。

「静雄さんは、好きな人はいないの?」
シティホテルの一室は、味気ないほどにシンプルな作りをしていた。ベッドが二つに、飲み物が何本か入れられる程度の小さな冷蔵庫がひとつ。
ベッドの縁に腰を下ろし、部屋中を物珍しそうに眺めていた静雄は、ふと声の主を見やる。
窓にかかった分厚いカーテンを引き合わせる男の背中に向けて、彼はぽつりと答えた。
「いるぜ」
「その人に抱かれたいとは思わない?」
外が見えないようにぴったりとカーテンを引き終え、青年は仕事は終えたとばかりに背後を振り返った。スーツの背広を脱いで椅子の背もたれに無造作に引っかけ、ついで首元のネクタイをゆるめていく。慣れてんな、なんてぼんやりと考えながら、静雄はただじっと男の動きを目で追っていた。
「静雄さんの初めてを、こんな見ず知らずの男にあげちゃっていいの?」
ふわりとスプリングがたわんで、身体が沈み込む。諫める言葉とは裏腹に、男は静雄の肩をゆっくりとベッドに押し沈めた。仰向けに寝転がった静雄の上に覆い被さるようにして、青年はなおも言いつのった。
「それとも、そんなことどうでも良いくらい疼いちゃうエッチな身体してるのかな」
耳元にかかる髪を梳きながら、青年は厭らしく口元を歪めてみせた。
「……そうなのかもな」
驚くほどすんなりと口をついて出た言葉に、静雄は納得がいったというように小さく頷いた。

自分の認識が変わったのは、臨也との付き合いが軌道にのったころからだ。なにもかもが初めてづくしの静雄に、臨也はおしみない愛情を注いでくれた。
「もし何かの間違いで若い頃にこんな風になってたら、きっと優しくなんかできなかった」とは臨也の言い分だが、それは静雄とて同じことで、今だからこそ彼の言葉や行動のひとつひとつを受け入れることができているのだと思う。
おっかなびっくりと握られる手を、身体を抱きとめる腕を、甘く口づける唇を――愛おしいと感じる。もっと触れて欲しいと、素直にそう感じることができるのだ。
「あいつに触られると、抑えが効かなくなるんだ」
初めてキスをしてからしばらく経つと、二人はごくごく自然と肌を重ねるようになった。素肌にふれて、触れられて。互いに高めあった欲望を、擦って、舐めて――。それは、かつて経験した「処理」とは比べものにならない快楽を与えてくれた。屹立した雄に絡みつく臨也のしなやかな指先や、汗の滲んだ切なげな表情。甘い吐息とともに耳元へと注がれる愛の言葉さえ、静雄を狂わせる媚薬の一つになり果てた。
張りつめたそこを上下に擦られるたびに、体は無様に跳ねる。目もとに涙を浮かべ、あられもない声をあげる静雄を詰るでもなく、臨也は愛おしそうに笑んだ。瞼に触れるだけの口づけにせつなさが溢れ、胸元が締め付けられた。
「笑えるだろ。あいつと……臨也とエロい事することばっか考えてんだぜ、俺」
苦笑交じりに言うと、静雄は青年の胸板を押し返し、身体を起こした。
「あいつの手とか指とか思い出して、一人でしたりもしたな」
学生時代ですら、そう頻繁に自慰に励むほうではなかった。それなのに、臨也から与えられた甘い甘い蜜のような快感は、いつまでも静雄の胸の奥を蝕んで身体を昂らせるのだ。仕事の都合で会えない日が続けば、自らの手で慰めては恋人を想った。
「だったら本人に抱いてもらったほうが良いんじゃないかな」
「それが出来たら、こんなとこにいねえよ」
もっともな指摘をさらりと受け流し、静雄は手近にあった枕にぼすんと拳を沈めた。
「あの野郎……。人の身体をこんなにしておきながら、手前の腹は見せやがらねえ」
いつだって乱されるのは自分の方だ。経験値の差は歴然であるが、それでも臨也一人に涼しい顔をさせておくのもなんだか気にくわない。
「だから、仕返しにセックスのテクニックでも磨こうって?」
“仕返し”だなんて幼い言葉の直後に“セックス”という単語を持って来る男をいぶかしげに見やり、静雄はあいまいに頷いた。

正確に言えば、臨也とはまだそこまで至っていない。手や舌で抜き合うことですら、経験のない静雄にとっては大変センセーショナルな行為であったのだ。ゆっくりとことを進めようとする恋人の気持ちはありがたかったが、彼がその先を望んでいることにも静雄は気付いていた。
少しずつ孔を慣らしていく間も、臨也の顔は“早く”と強請っているようで。その顔を目にして、ようやく「この男も余裕がないのだ」と理解することができた。
「あのヘタレ野郎ができねえっつーなら、俺がなんとかするしかないだろ」
「もう良い?」なんて掠れた声を出す男の頬をなぞり、静雄も腹をきめた。なのに、結局のところその日のセックスは失敗に終わってしまった。
当然ながら、静雄のそこは本来何かを挿れるようなつくりにはなっていない。身体をまっぷたつに引き裂くような痛みに歯をくいしばって耐えていたのだが、挿入に手間取っているうちに臨也のそれは硬度を失ってしまった。
それからも何度か試してみたものの、いざ、というタイミングになると臨也のそれは萎えた。いわく、精神的なものが原因とのことだが、静雄としては納得がいかない。
「一回ヤっちまえば、ある程度はゆるむだろ」
「そんな乱暴な……」
色気もくそもない静雄の発言に、青年は苦々しく笑む。こういう顔をすると、ますます臨也に似てくる。悪戯っぽい、子供のような純粋な悪意を含んだ笑み――。
「……だ、そうですよ。臨也さん?」
すん、と鼻をならす静雄にくるりと背を向け、青年は勢いをつけてベッドを降り立った。トランポリンのように跳ねるベッドスプリングに揺られながら、静雄は入口へと視線を向けた。
「ありがとう。遥人くん」
声の主――臨也は、ドアの前に静かに佇んでいた。
普段から愛用しているロングジャケットを羽織り、首元にはマフラーを巻きつけている。
若い頃のようにフードやファーで装飾の施されていないシンプルなジャケットは、すらりと伸びた背筋を映えさせた。一見すると、紳士然りといった風体である。
こつり、こつり。杖とフローリングが触れ合うたびに、小気味の良い音が鳴る。音につられるように慎重に足を踏み出し、ベッドのすぐ傍にまで歩み寄った臨也は、直立したままの青年の頭をぽんぽんと撫でた。
「悪いね。久しぶりに呼び出したかと思えば、妙なことを頼んでしまって」
遥人、と呼ばれた青年(おそらく彼は自分に対しても同様の名前を名乗っているのだが、静雄の記憶には刻まれていなかった)は飼い主に褒められた子犬のように目もとを緩めた。
「いいえ。お役に立てて嬉しいです。今度はひまりちゃんも呼んであげてくださいね」
「彼女は、俺からの呼び出しに良い顔はしないだろう」
「そんなことないですよ。僕もひまりちゃんも、臨也さんにはとても感謝しているんですから」
臨也の手を取り一方的な握手を交わした遥人は、役目は終えたとばかりに部屋を出て行った。最後の最後、思い出したように静雄に向けて小さく頭を下げた青年に応え、静雄も小さく頷く。

「怒らないんだ?」
頬に触れた暖かな感触に、静雄は目線を戻した。優雅な仕草でベッドに腰をおちつけた臨也の手が、静雄の頬をゆるりと撫ぜる。
「怒られてえのかよ」
「まさか。けど、ちょっと前までの君だったら『こそこそ嗅ぎまわるな!』って激怒してたんじゃないかな」
「まあ……。なんとなく手前が近くにいるような気はしてたしな」
あの公園で遥人と接触をした瞬間から、かすかな違和感は感じていた。とんとん拍子にことが進んでいくことも、偶然にしては出来過ぎたシナリオに思えた。なにより、あの青年からは臨也の匂いがしていた。
静雄はもろもろの情報収集を不慣れなパソコンで行っていたのだが、それ自体臨也の所有物だ。未だ現役の情報屋を名乗る臨也にとって、恋人の行動は拍子ぬけするほど筒抜けだったに違いない。
「手前こそ、怒らねえのか」
頬を包み込んでいた手のひらにそっと指先をかさね合わせ、今度は静雄の方から尋ねた。
「怒られるようなこと、したの?」
「してねえけどよ……」
「あたり前さ。他の奴になんて渡さないよ。そうなる前に潰してやるから、そのつもりでいてね」
何だ、やっぱりちょっと怒ってるんじゃないか。……とは、口が裂けても言えない。もご、と口ごもり、静雄は次に吐き出すべき言葉を探した。
遥人に語ってきかせたように、一度経験をしてしまえば、臨也がいらぬ遠慮をせずに済むのだろうという打算の上でこんな場所までやってきた。けれど、自分の行動は一歩間違えればただの不貞だ。いくら色恋にうといとはいえ、臨也が良い顔をするはずがないということも分かってはいる。
「シーズちゃん」
なんと伝えれば理解してもらえるだろうか、と思案する静雄の身体が、大きく背後に傾いだ。あ、と声をあげる暇もなく、とっさに臨也を抱きとめた静雄の体は背中からベッドへと沈みこむ。
「……てめ…っ!いきなり何しやが、」
言葉尻を飲み込むように、薄い唇が静雄の呼吸を奪った。寒空の下を歩いてきたせいか、臨也の唇はひやりと冷たい。軽く押し付けては離れ、いたずらに舌先で割れ目をなぞっては離れ――。たわむれのようなキスを何度か繰り返したあと、臨也はようやく顔を上げた。
「ありがとう」
白熱灯の光を背負った臨也の表情は、静雄からは逆行になっていてよく分らなかった。彼の声はどこまでも甘く、優しく耳に馴染む。言葉にできない感情も、想いも、全部お見通しだとでも言うように。
「ごめん。俺ががっついたせいで、不安にさせちゃったね」
無理やりに身体を繋げることは簡単だ。セックスを快楽を追うためだけの手段に見立てているのであれば、方法は他にいくらでもある。最初に強引に押し入ることだってできたはずだ。けれど、臨也はそうしなかった。
「俺たちは一生分憎しみ合って、傷つけ合ってきた。……だから、これからは一生分愛して、口づけて、君を甘やかしていきたいんだ」
耳元をくすぐる吐息めいた声は、流れるように言葉を紡いでいく。難解な単語や皮肉な言い回しではない、まっすぐな言葉。
まるで誓いの言葉だな、なんてらしくないことを静雄はぼんやりと考えていた。
「ゆっくり、俺たちのペースでやっていこうよ」
もちろん、エッチなシズちゃんも大歓迎なんだけどね。と、取ってつけたような軽口を続ける臨也の背中をそっと抱きしめ、静雄は「台無しだな」と笑った。

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臨也さんは大人になったのか、子供にかえったのか……。
飄々としておちゃめなオジサマになるんだろうな〜。
静雄は物静かだけど、たまに若い頃同様にブチ切れる(もちろん臨也に)

ふたりでいつまでも追いかけっこしていて欲しいものです。

(2015.11.22)



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