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一階三戸の長屋の真ん中。
四畳半、風呂なし、トイレ共同。家賃二万八千円。築五十年を越すアパートは、築年数通り見た目も中身もボロボロだ。
そんなボロアパートの前で、辺りの景色に決して馴染まない男の姿を認めて……俺は今日の行いを悔やんだ。
「何で家がバレてんだよ……」
*
*
今朝、通学の為に電車を待っていたら男がホームでいきなり倒れた。立っているだけで他人の目を引くような、背の高い、華やかな容姿の男だった。
慌てて近づこうとして、気づく。
────クランケだ
先程までの涼やかな表情はどこへらや、真っ青になった顔には脂汗が浮いていて、体が小刻みに震えている。重度のドラッグ欠乏症だ。
直ぐにでも触れてやらなければ、死ぬことはなくとも苦しみは大きい。そう分かっていても、中々近づく勇気が出ない。
『クランケは、私たちをモノとしか見ていない』
『アイツらのせいで、私たちは不幸なのよ』
呪いのように聞かされてきた母の言葉が耳にこだまする。
「誰かっ! ドラッグの方はいませんかっ!」
分かってる。今の俺たちの生活は、クランケであった父のせいだって。まるで俺たちを、自分の所有物のように扱い、そしてゴミのように捨てたあの男のせいだって。でも……、
「誰か!」
目の前で、自分の力を求め苦しんでいる人がいるのに……それを、見て見ぬふりするなんて……。
ぎゅっと、手を強く握りしめた。
「あのっ! ……俺、ドラッグです」
声を上げて一歩前に出れば、倒れた男に寄り添っていた女性が俺を見上げて慌てて退いた。
「大丈夫ですか?」
男の肩に手を置き声をかけるが、返事はない。多分、もう意識もないのだろう。荒い息遣いだけが聞こえてきた。
「ごめんなさい、触れますね」
一応声をかけてから首筋に触れた。熱い……脈も跳ね上がっている。これはしんどかっただろう。
「もう大丈夫ですよ」
聞こえていないだろうに、色素の薄い長い睫毛がぴくりと震えた。
動脈に触れる掌から、男の首筋に何かが吸い取られていく気配がする。初めは弱かったそれが、だんだんと強くなっていって、まるで吸盤に貼りつかれているように感じる。
この感覚には何度か経験があるが、こんなにも力強く吸い取られるのは初めてで……急に怖くなって、思わず首から手を外した。
「治療、終わったんですか?」
手を離したことでそう思ったのか、先ほどから近くにいた女性が男の顔を覗き込んだ。つられて男の様子を見てみれば、脂汗も引き、肩の上下も緩やかになっている。もう、震えもほとんどなかった。
この間わずか一、二分のことだったのに、酷く長く感じた。
「あ! 救急隊の方がみえましたよ!」
振り向くと、クランケ専用の救急隊員が走ってくるところだった。
「あなた、ドラッグですか?」
「あ、はい」
「応急処置をして下さったんですね、ありがとうございました!」
言いながら、隊員が男の具合を確認した。今となっては、綺麗な男がただ眠っているように見える。
「よし。では、申し訳ないのですが病院まで付き添いお願いします」
「えっ!?」
「いま、下手に別のドラッグを混ぜるわけにはいけないので」
確かに、短時間の間に複数のドラッグが混ざると拒絶反応を起こし、命に危険が及ぶこともあると聞く。
「ではこちらに!」
「あ、ハイ……」
結局そのまま、俺は男の検査が終わるまで……病院で待機する羽目になったのだった。
*
*
ガードレールに腰掛ける男を無視して、無言で通りすぎる。意味があるのかないのか分からない鍵を開けようとすれば、そのドアに大きな手が添えられた。
その手は、俺の後ろから首元を通って伸びている。
「どうして無視するの」
自分の真後ろから聞こえた、少し掠れたような色気のあるハスキーボイス。
「……俺に、なんか用ですか」
玄関のドアと男の体に挟まれ、しかし男を振り向くことなく問う。男はそんな俺をどう思ったのか、小さく笑った。
「こっち向いてくれないの?」
「……腕、」
「ああ、これでいい?」
目の前から扉を押さえていた手が引いた。仕方なく、本当に仕方なく、玄関を背にして男と向き合う。間近で見た男は、やっぱりとんでもない美形だった。
硬く黒い髪に、目つきが悪く見えがちな一重の瞳、低い鼻と頬の上に散るソバカス──そんなその他大勢の中に埋もれているような特徴しかない自分とは、真逆の人種。
クランケには美形が多いようだが、この男の造りは別格だろう。
「……それで、俺になにか」
男から視線を外し足元を見る。
自分のボロボロのスニーカーと、手入れの行き届いた男の革靴が視界に入って、無性に泣きたくなった。
「今日は助けてくれてありがとう。ドラッグを使ってくれて、本当に助かった。それで、ちょっと提案があるんだけど──」
「あのっ!」
まだ男が何か言おうとしているのを慌てて遮った。何を言われたとして、それを俺が受け入れることはできないから。
「すいません、何のことか分からないです。俺、ドラッグじゃないし……人違いじゃないですかね」
視線を足元に落としたまま言う。だが男は黙ったまま何も反応がない。暫く互いの間に沈黙が流れて、やがてその空気に耐えられなくなったのは俺の方だった。
「あの、だから……」
視線を上げ、男を見る。男を見たことを……俺は心の底から後悔した。
「俺(クランケ)が、間違えると思う?」
男は笑っていた。口の両端を吊り上げて、宝石の様に光る瞳を細めて。でも、その瞳の奥は凍てついていた。
「ッ、」
「あのね、提案なんだけど」
男が一歩前に出る。その分俺も後ろに下がったら、背中に玄関の扉がくっついた。これ以上、逃げられない。
「試しに俺と、セックスしてみない?」
「……は?」
「あ、キミまだ高校生だから、俺淫行罪で捕まっちゃうかな」
「いや、ちょ、ちょっと意味が……」
また、扉に男の手がつけられた。互いの距離がぐんと近づく。でも、玄関に阻まれて動けない、逃げられない。
それだけじゃない。この男の目を見ると、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。
「俺を治療したときに気付かなかった? 多分俺たち、相性最高だよ」
相性? ドラッグとクランケの? それが一体、何の役にたつ? それ以上に相性の良いドラッグをみつけたら、それまでの繋がりなどなかったかのように……物のように、捨てるくせに。
「そんなの知るか! どうでもいいんだよ!」
男の体を押し退けて逃げようとするが、思い切り力を入れたはずなのに男の体はびくともしない。それどころか、両手首を掴まれ扉に張り付けられた。
互いの鼻と鼻が触れ合いそうなほど近づく。
「分からないなら教えてあげる」
「なっ、……ッ!」
気付いた時には、言葉は男の唇に塞がれ奪われていた。なにこれ、なんだこれ、何が起きてる!?
なにか言おうとして開いた唇の隙間から、男の舌がぬるりと滑り込んできた。
「んぅぅうっ! んんむ!」
離れたと思った次の瞬間にはまた合わせられる唇。逃げ惑う舌は、執拗に男のソレに絡みとられ吸われ、甘噛みされた。
「はぁッ、ンううっ!」
全身が隙間なく甘く痺れる。頭がおかしくなりそうだった。
未知の感覚に恐怖を覚え生理的なものでない涙が頬を伝うと、男はクスッと笑って漸く離れてくれた。
「もう、分かった?」
言葉を紡ぐ男の唇は、どちらのものか分からぬ唾液に濡れてひどく卑猥だ。口元の黒子がそれを増長させている気がする。
ぼうっとしていると頬に散るソバカスにチュッとキスを落とされ、全身の血がカッと沸騰したように熱くなった。
「やめろよっ!」
「おっと、」
掴まれていた手を引き抜き、今度こそ力一杯押すと男の体は簡単に離れた。その隙に玄関の中に飛び込みすかさず鍵をかけると、玄関の外で男が笑う気配がした。
コンコン、と軽く扉を叩く。
「俺の名前は城戸梓。覚えておいてね──丹羽孝四郎(にわこうしろう)くん」
男の気配は遠ざかっていくのに、俺の全身はぶるぶると震える。やがて立っていられなくなって、玄関に背をつけたまま座り込んだ。そうして自分の体の変化に気付いて驚愕する。
「な、なんなんだよ……これ……!」
普段からあまり触ることのない、男の欲を象徴するソコが……。
「なんで勃ってんのぉ……!?」
触れば直ぐにでもイってしまいそうなほど、ぐちゃぐちゃに蜜を溢していた。
男───城戸はひとり夕暮れの中で立ち止まり、吐息のような溜め息をついて顔を片手で覆った。
想像していたよりもずっと、普通の、その辺にいくらでもいそうな少年だった。特に容姿にこだわりがある訳ではなかったが、自分の『特別』になるには多少の期待外れ感があったのは否めない。
だが、どうだ。紅く色づいた頬に散らばるソバカスに口付けたのは、無意識のことだった。
セックスの時でさえ、唇以外で無駄なキスなどしたりしないのに。
「あ"〜……ヤバイ、こぉれは……予想外」
ヤバイと言いながら、その口元は言葉とは裏腹に酷く楽しげに歪んでいた。
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