プロローグ
目覚めた時、城戸梓(きどあずさ)は自分が死んだのだと思った。
ひと気がなく、物音ひとつしない真っ白な部屋、真っ白なベッド、真っ白な着衣。普通なら非現実的であるその環境は、むしろ城戸にとって現実的だったが、そんな現実では絶対にありえないことが、ひとつ。
「なに……これ……?」
城戸は自身の両掌を見つめた。
生まれてからこのかたずっと付き合い続けてきた、そしてこれから死ぬまで付き合い続けなければならないと思っていた、倦怠感。それが今、まったく感じられない。
体のどこにも不快感がなく、頭の中も冴え渡っている。澄みきった朝の空気の中で目覚めたように気分が良い。こんなことは生まれて初めてだった。
数ヶ月に一度起きる不調の波。それは直前にドラッグから治療を受けていても起きる、防ぎようのない波だった。そうして毎回、クランケ専用の病院に運び込まれている。
いつか打ちどころが悪ければ死ぬなと思っていたが、ついに死んだのだろうか。城戸は自身が倒れる直前までのことを思い返した。
*
*
キングサイズのベッドの上に、抱き潰され横たわる裸体がふたつ。その裸体を潰した城戸は、しかしまだまだ体力に余裕があった。
「はぁ……」
汗で湿った前髪をかきあげると露わになる、少し垂れた甘い目元。筋が通りツンと上を向く鼻に、薄く形の良い唇と、それを引き立たせる左口元の黒子。
声をかけずともその容姿だけで、体を重ねる相手はいくらでも向こうからやってきた。
いつものように夜通し続けたセックスで、気分は幾分か良くなっている。ふたつの体を潰したのだ、むしろ良くなっていなければ困る。だが、吐き出される溜め息は思いのほか重かった。
甘いマスクの男──城戸梓は、男性という性の他に、クランケという厄介な性を持って生まれた。
個々に差はあるもののクランケは生まれつき体が弱く、ドラッグという体質を持つものの力を借りなければ生きていけない。ドラッグはいわゆるクランケの『薬』のようなものだった。
手と手を合わせる程度の触れ合いでも不調は緩和されるが、その触れ合いで性的興奮を覚えることがあるのがドラッグによる治療の特徴だ。
相性の良いドラッグとクランケでは特に官能を刺激されるため、軽い触れ合いでは終わらずセックスに至ることも多い。
ドラッグの存在なくしては生きられない体質というのは確かに面倒ではあるが、もともと性に奔放である城戸にとって、それはセックスする上でのひとつのスパイスのようなものだった。
ノーマル、クランケ、ドラッグ。そして男に女。そんな性の違いは些細なもの。気持ち良ければなんでも良い。
────どうせ、全快になどならないのだから
でかいベッドから立ち上がると、床に落ちていた服を纏いさっさと部屋を出た。
セックスは好きだが、ラブホテルや、まして他人の家で眠るなどありえない。どんなに疲れていても、真夜中であっても、眠るなら自分の家がいい。
明け方の空はまだ暗い。ホテルから出たところで時間を確認すれば、電車の始発は既に動き出していたので、足は自然と駅の方へと向いた。
たくさんのドラッグと触れ合ってきた城戸は、しかし未だかつて完全に体調が良くなったことはなかった。治療の直後には確かに不調は緩和されているが、必ず最低限の気怠さは残っている。
だから普段、セックスの相手は体の相性で選ぶ。わざわざドラッグを選んでセックスをするのは、体調が著しく悪くなってきた時だけ。問題なのは、二、三ヶ月に一度あるかないかの不調の大波だった。
これだけは、いつ来るのか自分でも分からない。
だからその時も気付けば駅のホームに膝をついていた。タクシーで帰れば良かったと後悔しても、もう遅い。
「えっ、やだ、大丈夫ですか!?」
ホームに入った時から視線を送ってきていた女が、崩れ落ちた俺の腕に触れた。その感触にも吐き気と眩暈が起きるが、振り払う力ももう残っていない。
段々と意識が薄れていく中で、ドラッグを探す声が微かに聞こえた。
クランケも数は少ないが、ドラッグは更に稀少な存在だ。そんなものを探すより、さっさと専用の救急車を呼んでくれ……と、人の親切心に身勝手な文句をつけながら、やがて意識を手放した。
*
*
「あ、良かった! 目が覚めたんですね!」
病室のドアが開いたと思ったら、見知った顔の青年──中川が現れた。男にしては華奢な体に、年齢不詳の美貌。かれこれ何度か、治療と称して城戸の上に跨ったことのあるドラッグの看護師だ。
「気分はどうです? もうすぐお昼ご飯の時間ですが、食べられそうですか? それとも……もう少し治療、します?」
意味深なセリフに、いつもならニッコリと笑い直ぐにでもその細腰を引き寄せるのだが。
「今回、俺の治療してくれたのって中川くん?」
「はい僕です、まだ首筋にしか触れてませんが」
やっと順番が回ってきました!
そう言ってベッドに上がって来ようとする彼を押し留めると、中川は不思議そうに首を傾げた。
「どうかしました?」
「俺に触れたのって、中川くんだけ?」
「はい、僕が当番なので僕だけです。誰にも触らせませんよ」
獲物を前にした獣のように、ギラギラと独占欲を滲ませる大きな瞳。しかしそれがふと、違う色に変わった。
「あ……」
「なに?」
「そういえば今回、救急車にドラッグが付き添いで乗ってきたんでした……わっ!」
城戸は自分にのしかかろうとしていた中川の肩を力一杯掴んだ。
「それ、誰か分かる?」
いつにない城戸の様子に中川も困惑するが、城戸の顔を間近で見るうちにその頬は赤らんでいく。
「い、一応連絡先などは……控えてあるので分かりますが……こ、個人情報なので……」
「中川くん」
すり、と中川の頬を撫でれば「ぁん」と甘い声を漏らす。
「教えてくれるなら、いつもよりたくさんサービスしてあげる」
「ッ、」
「ここもたくさん、舐めてあげるよ?」
既に期待で兆しを見せる中川の下半身をするりと撫でれば、彼の瞳についに陥落が滲んだ。
「……き、気持ちよく……して」
中川の頭を引き寄せ、耳朶を甘噛みしながら囁いた。
「いい子……」
知ることができるはずのない個人情報を握りしめ、病室を後にしたのはそれから三時間後のこと。
その足取りは、鼻歌が聞こえてきそうなほど軽快なものだった。
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第一話へ2021/01/10
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