switch W 【中】
アイツの過去を見てしまった三日前。結局その日は、自分の部屋の煎餅布団に大の字になったまま朝を迎えた。
当然清宮からは連絡が入ったし、それを無視すればアイツがこの部屋まで迎えに来ることは容易に想像できたから、部屋の掃除に時間がかかっていると適当に嘘をついた。
『大丈夫? 俺も手伝おうか?』
自分だって大学へ行って疲れているだろうに、他人の部屋の掃除まで手伝おうなんて一体どこまでお人好しなんだろう。俺の嘘に返された言葉に、思わず頬が緩みかけた。だが、そんな顔もすぐに強張る。
清宮は手慣れている
受け止め方ひとつで、世界の色はあっという間に変わる。
今まで一体どれだけの人間を、あの見た目と性格と、アイツが持つ全ての物を使って誑し込んで来たんだろう。向けられる優しさだって、俺だけのものとは限らない。
会いたくなかった。あの部屋に、入りたくないと思った。
別に俺は潔癖なんかじゃないけど、今までピカピカに思えていたあの部屋が、急に知らない奴らの手垢で汚れているように感じた。
意識したことのなかった清宮の過去が、俺の中からドロドロとしたコールタールみたいな感情を溢れさせる。それは全身に纏わりついて全ての動きを鈍くさせ、結果、考えることを辞めた俺はあの日から今日までの間、清宮との接触を避け続けている。
大学の中庭にあるベンチに座って、コンビニで調達したおにぎりにかぶりつく。食堂には行く気にならなかった。あの男がまた来るわけでもないのだが、足は自然と食堂を避けた。
日差しに当たればさすがに暑いが、木陰に入れば涼しくて気持ちが良い。そんなせっかくの天気の下でも、俺の胃は重いまま。
「ヤベェなぁ…」
視線を落とせば目に入る、清宮から届いたばかりのメッセージ。今日は逃がさない、と簡潔に書かれた文章からは清宮の怒りを強く感じる。
ヘラヘラと笑っているだけのように見えて、妙に勘の鋭い清宮。さすがに三日も避けられれば異変に気づかない訳がないだろうし、無駄に広いアイツのネットワークに何か引っかかったのかもしれない。
どちらにしろ、今夜俺たちは面と向かって例の話をする羽目になるんだろう。そう考えると気分は落ちる一方で、大好きな炒飯おにぎりも、今日ばかりはなかなか喉を通ってくれなかった。
◇
アイツの家に行かなければ、俺の部屋まで迎えに来るだろうか。そう考えていた俺はきっと甘すぎた。大学の外に、見覚えのある車が一台止まっている。それを見て引き返そうとした足も虚しく、どこからともなく現れた清宮によって俺の躰はあっと言う間に車内へと押し込まれた。
道中、ずっと無言の美形でチャラ男な運転手。どう見たって怒っているその様子に、段々と俺も腹がたってきた。何で俺がキレられなきゃいけないんだ?
だから家に着くまでずっと俺も無言を貫き、ひたすら流れる景色を見ていた。
「あのさ、こういうのやめようよ」
「どういうの」
部屋に入って早々、玄関先で清宮が話を切り出した。俺はまだ、靴を脱ぎかけだっていうのに。
「俺を避けるのだよ。部屋の掃除だって嘘なんでしょ? 気に入らないことがあるのは分かってるけど、避けられたら話し合いにならないよ」
「話したくないから避けてんだろ」
漸く脱ぎ終えた靴を投げ捨てる。俺の前に立ちふさがる清宮を無理矢理押し退けてリビングへ足を向ければ、慌てたように清宮も俺の後を追ってきた。
「話さなきゃ何も解決しないでしょ?」
「解決なんてすんのかよ? お前、過去を変えられんの?」
「あの野郎…」
清宮は、隠すことなく大きく舌打ちをした。どうやら例の男が来たことを清宮も知っているようだ。
「お前の周りってお節介な奴ばっかだよな。頼んでもいねぇのに、胸焼けするほど色んな奴の写真見せてくれたぜ」
「……ごめん、でもそんなの気にすることないから」
「そんなの?」
俺の頬が引き攣る。
「すげぇな、あの人数相手にしてきてそんなの≠ナ済ませられんだ。やっぱ経験豊富なチャラ男は言うことが違うな」
「伊沢くん…」
「触んなよ汚ぇな!」
伸ばされた手を振り払えば、想像以上に大きな音がリビングに響いた。弾かれた手に驚いたのか、清宮は一瞬だけ瞠目し、やがてぐしゃりと顔を歪めた。
「やっぱり俺、汚い…?」
「何だよ、自分のこと綺麗だとでも思ってんの? 他人の手垢だらけのお前が?」
ハッ、と清宮を嘲りながら、荒々しくソファに腰を下ろした。
いつもはしっくり躰に馴染むソファも、今日はなんだか座り心地が悪い。それに部屋のあちこちから他人のニオイがする気がする。壁もソファも、空気も何もかもが汚れて濁っているように思えて、呼吸することさえ億劫になった。
「SubどころかDomにまで手ぇ出してんだから、そりゃすげぇ数いくよな。さすがにドン引きしたわ」
「…D/Sの相手とそんな関係になったことは、ないよ」
「本番ヤんなきゃノーカンってか? 馬鹿にすんなよ。お前らがどんなプレイしてたか、お節介な奴らが教えてくれたから全部知ってんだよ」
大学内、駅、バイト先。色んなところで色んなやつに捕まり、お前は特別なんかじゃないんだと散々嫌味を言われた。それでもD/Sパートナーからスタートした相手で、最後までヤっちまったのは俺が初めてだって聞いてたから。
恋人≠ネんてやつに昇格したのは俺だけだって聞いてたから、そいつらの言うことも単なる僻み妬みだって処理できた。俺のことが羨ましくて仕方ないんだって、むしろ優越を感じてたくらいだ。
でも、セフレの顔を見せられたら今までの認識が全部ひっくり返った。
「来る者拒まず去る者追わずで入れ食い状態だろ? 実際ここにもどんだけ連れ込んだんだよ。あっちこっちで盛りやがって、お前の下半身バカになってんじゃねぇの? あ〜、なんかこの部屋くせぇかも。あれ、このソファもくせぇきがすr……ンぶぅっ!?」
清宮を怒らせたい衝動に駆られてめちゃくちゃ言ってたら、突然、凄い力で顔をソファに押し付けられた。
「本当に臭うか、ちゃんと嗅いでみなよ」
「んぶっ、やめっ! んぐっ」
「どう? 臭う?」
再度強く押し付けられた後、俺の頭は清宮の手から呆気なく開放された。
「ぶはっ! おまっ、何すんだよ!」
飛び跳ねるようにして起き上がった俺に、清宮は真顔で聞き返す。
「ねぇ、臭った?」
「くせぇくせぇ! めちゃくちゃくせぇ!」
本当はニオイなんて何もしなかったけど、ムカついたから嘘をついた。でも、清宮は怒るどころか何故か嬉しそうに表情を崩した。
「だとしたらソレ、伊沢くんのニオイだよ」
「え…?」
意味が良く分からずフリーズした俺は、肩をトン、と押されただけで簡単にソファに躰を沈める。仰向けに倒れたその上に、清宮が伸し掛かった。
「確かに俺は、今まで散々色んな奴を相手にしてきたよ。それは認める。単に断るのが面倒だったこともあるし、ただ抜きたかっただけの時もある。DomでもSubでもノーマルでも、男でも女でも、相手なんて別に誰でも良かった」
「最低なヤツ」
「それで良いと思ってたんだ。でもね、今は心底そんな過去の自分を消し去りたいよ」
細長くて綺麗な指が、俺の唇をツンと押した。
「伊沢くん、キスは俺とが初めてだよね?」
「………」
「キスも、エッチも、俺が初めてだよね?」
「だったら何だよ、馬鹿にしてんのかテメェ!」
振り上げた手は、清宮によって簡単に止められる。
「馬鹿にするわけないでしょう。むしろ嬉しすぎて気が狂いそう」
「もう狂ってんだろ!」
思わず叫べば清宮は楽しげに笑った。
「確かに狂ってるかも。俺、君に出逢ってからおかしくなっちゃった」
「俺のせいかよ」
「そうだよ。全部全部、伊沢くんのせい。キスだってエッチだって、自分からしたいなんて思ったこと一度もなかったのに、伊沢くんを見ると抱きたくて仕方なくなるんだ。俺、結構潔癖なところあるからさ。誰かを家に上げるなんてこと、身内だって許したことないのに、伊沢くんはむしろ閉じ込めちゃいたいくらいだし」
躰が本能でビクリと揺れる。
「監禁とかやめろよ…」
「しないよ。伊沢くんが俺から逃げない限りはね」
「………」
「この家に入ったのは、俺以外では伊沢くんが初めてだよ。ハジメが来たのは想定外。だからそのソファからニオイがするなら、それは伊沢くんのニオイ。この部屋の記憶には、俺と君以外は存在しない」
俺に伸し掛かったままの清宮が、自身の胸元を鷲掴み、眉をぎゅっと寄せた。
「誰に何を言われても平気だった。それなのに、君に言われることは全てが響いて…ここが死ぬほど痛くて、苦しい。汚いって自覚、あるよ。だから俺が君に触ったら、君が穢れる気がして本当はいつも怖い。でも好きすぎて我慢することもできなくて…、こんな気持ち初めてだから、どうしたらいいのか分かんなくて…」
「お前、もしかして俺が初恋?」
「え?」
清宮がぴたりと動きを止めた。
「だって普通、好きだったら自分から触りたいって思うもんなんだろ? で、そう思った相手は俺が初めてなんだろ?」
「うん。触りたいと思ったのも、一緒に居たいと思ったのも、全部伊沢くんが初めて」
「だったらそれ、初恋なんじゃねぇの? お前、俺に初めて恋しちゃったんじゃねぇの?」
「……うん、うん、そうかも。俺、これが初恋かもしれない」
「なんだそれ、ウケるな!」
心底驚いたって顔を見せた清宮に、俺は腹の底から笑いがこみ上げた。俺は多分、この時怒りを忘れたんだと思う。
「遊び人なお前が、初めて好きになった相手が俺とかすっげぇ笑える」
「確かに笑えるね」
「で、初めて恋しちゃった気分はどうなんだよ」
「……面倒くさいかな」
「はぁ!? てめ…ふざけんなよ!」
「だって、逃げる相手を追いかけるのも初めてだし、避けられるのも初めてだし、必死で言い訳考えて、仲直りしようとしたのだって初めてなんだよ。初めて尽くしでどうしたら良いのか全然わかんない」
「ふーん」
「伊沢くんはどうなの? 恋人ができたの初めてでしょ?」
「決めつけんなよ」
「え、じゃあ居たの?」
「……いない」
「あははっ!」
「笑うな! お前だって初心者のくせに!」
そう言ってから、大事な部分を否定し忘れたことに気づいた。
「あっ! 俺はお前のこと恋人とか全然思ってッ」
最後まで言い終えられぬまま、清宮に唇を奪われる。
「ん…ふ、ん…ぅ」
反射で侵入してきた舌に自身の舌を絡み合わせた。にゅるにゅるとした妙な感覚はとっくに慣れたものになっていて、今では気持ちよささえ拾い上げられる。
「恋愛初心者のくせに、こんなにキス、上手くなっちゃって」
「うるせぇなぁ、お前が仕込んだんだろうが」
「ヤバい、それクる」
「は!?」
清宮が固くなった下半身を俺にこすりつけてきた。
「オイっ、やめろバカ!」
「痛ッ」
「それより清宮、お前の味噌汁食ったのって、俺が初めてか?」
「え?」
清宮が擦りつけていた腰を止めてキョトンとする。
「お前の手料理食ったの、俺以外に誰かいんのかよ」
「いないよ、家族にも作ったこと無いし」
「ふーん」
「何で?」
「別にぃ」
清宮は適当な返事をする俺をジッと見ていたかと思うと、徐ろに口を開いた。
「ねぇ、伊沢くん。自分から俺に触りたいって思ったこと、ある?」
「はぁ?」
「俺を独占したいって思ったこと、ある? 俺は毎日思ってる。君に触れたくて仕方ないし、君を俺だけのモノにしたい。伊沢くんは恋人の俺に、自分から触りたいって思ったこと、ある?」
どこか期待したような目で俺を見ていた。
「さぁな」
「そっか……ッ!?」
何の前触れもなく清宮の手を引っ張り、自ら顔を寄せて、俺は目の前の唇にキスをした。
「触りたいかどうかなんて知らねぇよ。ただ、お前とヤったことある奴も、お前とD/Sのパートナー組んだ奴も、お前と楽しそうに友達やってる奴も全員気に入らねぇし消えろって思ってる。そいつらを相手にしてたお前自身も死ぬほどムカツク」
「伊沢くん…」
過去のこととは言えモヤモヤして、すっきりしなくて気分が悪かった。清宮の事を思い出せば嫌味と悪態しか浮かばなくて、案の定会えば喧嘩を吹っかけてしまった。
どっかで殴り合いの喧嘩になることも覚悟してた。でも、結局俺の思ってたような激しい言い争いになんてならなかった。
清宮が、全然怒んねぇから…。
「何かもう、どうでもいいわ。一人でキレてんの疲れた」
「もう怒ってないの?」
「お前こそ何で俺にキレないわけ?」
「怒んないよ。だって、俺はどっちかっていうと嬉しかったし」
「なんだそれ」
「だって今回の伊沢くんのソレって、ヤキモチでしょ?」
「はぁぁぁああ!? ばっ、なにっ、はぁ!?」
「避けられるのは辛かったし、めちゃくちゃ焦ったけど…嬉しかったよ」
「ヤキモチなんか焼いてねぇしぃ!?」
「嘘つきな伊沢くんも、かぁわいぃ〜」
振り回した両手はまた簡単に捕まって、指を絡められ、そのまま濃厚なキスを仕掛けられた。それを、俺が拒むことはなかった。
大量に溢れ出ていたドロドロはいつの間にか鳴りを潜め、気付けば、もっとずっと別のものが溢れていた。それは今まで見たこともない程キラキラしていて眩しい。
部屋の中の空気は澄んでいた。壁も、床も、ソファも浴室も寝室も、今見れば全てがピカピカに見えるんだろう。それもきっと、いつも以上に。
「俺はどこの乙女だよ」
自分自身を嘲りながら、俺は清宮に求められるがまま、伸ばされたその手を期待に震える素肌で受け止めた。
後編へ2017/06/14
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