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「んっ、ん…はっ、ん…」

 俺の口を割り開きながら、栗原さんが俺の体を床へと寝かせる。少しでも多く“ソレ”を流し込む為の角度だと分かっていても、どうにも押し倒されている様に思えてカッと顔に血が上った。





「何かあったら直ぐ連絡しておいで」
「わ、分かった」

 素直に答える俺に栗原さんが笑って俺の髪を掻き混ぜた。

「じゃあ、また明日」

 玄関を出て行った栗原さんの背を扉が閉まり切る最後の最後まで見送った後、俺はその場に崩れ落ち頭を抱える。

「あーーーっ、もう!! 何だこれヤバイ」

 栗原さんが自身の過去を語ってくれたあの日から、どうにも俺は可笑しくなった。
 調子が戻るまではと近くのホテルに泊まり込み、毎日治療にやって来る栗原さん。
 そう、それは“治療”でしかないはずなのに、合わせられる唇が今までと何か違う気がして照れくさくて仕方ないのだ。

 流し込まれる唾液を嚥下する度に、細胞一つ一つへと行き渡り、染み込み、浄化されていく。そんな慣れたはずの感覚が、鳩尾の辺りや背筋にゾワゾワとした妙なモノを走らせた。

 相変わらず彼の心だけは聞こえない。
 それが不安でもあり、逆に安心でもあり、俺の心は余計に混乱していく。更に彼の触れ方が優しく変化したことで、混乱は混乱を招き収拾が付かなくなっていた。

 彼女の代わりにしたい訳ではないと言った、その言葉が素直に嬉しかった。
 心が読めないから本心かは分からないが、何故か栗原さんの言葉は信じられる様な気がした。

 今まで散々な態度を取ってきた俺を、あの人は見捨てたりしなかった。
 遠くから慌てて飛んできて、濡れる事にも、汚れる事にも躊躇いを見せること無く俺を看病してくれた。
 その上落ち込んだ俺を慰める為なのか、聞かれたくない過去まで晒し、助けたいと言ってくれた。
 店長との拗れた関係に疲れ、弱っていただけかもしれない。それでも、栗原さんのその姿は俺の中を大きく変えて行く。
 そして、微かに伝わる彼の苦しみに心が揺れる。

 何度も言うが、栗原さんの心だけは聞こえない。そう、聞こえないはずなのに、俺は確かにあの日、彼の心の叫びを聞いた気がした。

『ここから助け出してくれ』

 差し出された栗原さんの手だけは拒絶してはいけない。この手を放してはいけない。彼を孤独から引きずり出してやらないと…
 そんな、妙な気持ちに駆られたのだ。



 ◇



「何かあった? 元気無いね」

 毎日来てもらう様になって何度目かの治療の後、堪えきれず漏れた溜め息を栗原さんが拾い上げた。
 体調はすこぶる良い。そりゃ、何たって毎日浄化して貰っているんだから。ただ、その後に待つ現実が俺を追い詰めていた。

「例の店長?」
「……うん。もう、あからさまに俺を嫌ってる。それが覚悟してた以上にキツくてさ。ごめん、栗原さんにこんなこと言ったって困るよな」

 へへっ、と無理して笑えば、それを見ていた栗原さんが眉を下げる。

「好きなのか? その人のこと」

 その言葉に俺はビクッと肩を揺らした。

「ハッキリ聞いてくんのな」
「…………」

 何も言わずジッと見つめてくるその目に抗えず、俺は再び大きな溜め息を吐いた。

「正直分かんないんだ。好きなのかもって思った事もあるけど、単なる憧れの様な気もするし。でも、やっぱ嫌われるのは…辛い」

 だからって、好きだったのかどうかはまた別で、頭も心もぐるぐると渦巻いて気持ちが悪かった。
 ハッ、と短く笑って俯けていた顔を上げる。

「ぎゃっ!?」

 先ほどまでもう少し遠くに居たはずの栗原さんが、何故か目の前にいた。そうして彼が俺の顎を掬い上向かせる。

「好き、なのかもね」
「へ…?」
「けど、そんな男はお勧めできない。止めておけ」
「えっ、へ……っ!?」

 キスされていた。
 ちゅっ、ちゅ…と啄むだけの簡単な触れ合い。それでも俺の全身は燃え上がったみたいに熱くなって、思わず栗原さんの髪を引っ張った。

「痛っ、」
「なっなっ、な、何してんの!? ちっ、治療は済んだだろ!?」
「治療はね。でもこれは治療じゃないから」
「はひっ!?」

 髪を掴んだ手をそっと外させられたかと思えば、またキスをされる。

「ちょっ、んっ、ちょっと待っ! …ふんっ、んんっ、」

 ジタバタと暴れる俺を、栗原さんが面白そうに目を細めて見ている。

「んんんん! んっ! ぷはっ!! ぁああアンタぁ! おもっ、面白がってんだろ!!」

 激しく怒る俺に悪びれもせず笑ってみせる栗原さんは、とんでもなく悪い顔をしていた。

「信じらんねぇ!まさかアンタがこんなタチの悪い事するなんて!!」
「別に悪戯した訳じゃ無いんだけどね」
「は…」
「変な男にくれてやるには惜しいなって、思っただけなんだけど」
「はっ、え…はっ!?」

(可愛いなぁ…)

 ――ボンッッ!!

「ひぇえ!?」
「あれ、オイっ!」

 初めて飛んできた栗原さんの小さな心の内が、更に俺に追い打ちをかけ…俺はのぼせ上がりぶっ倒れた。
 かっこ悪すぎる。




『俺の家へ引っ越す気は無い? 部屋は幾つか空いてるし、何より、お互いが今よりずっと楽にケア出来る』

 帰り際に出された驚くべき提案に、俺の心はグラッグラに揺れていた。
 仕事と言っても俺の立場など直ぐに代わりがきいてしまうし、しがみつく程誇れるスキルもない。辞めると言えば、直ぐにでも許可が下りるだろう。
 両親とはほぼ絶縁状態で、頼りにしていた店長との関係も既に破綻している。断る理由など何もなかった。

 それに幾ら国からの補助が有るからと言っても、月に何度も遠くから来るのは栗原さんが大変だし、仕事や私生活にも支障が出るんじゃないか、とか。そんな事は正直に言えば建前だ。

 俺は多分、栗原さんに惹かれてる。それも、恋愛感情を含んで…だ。
 あんなに見た目がよくてモテそうな人、俺には不釣り合いだって分かってる。それでも優しく触れられればどうしようもなく期待してしまうし、彼もまた、その手で救いを求めている気がするのだ。
 俺はその手を、掴みたい。



 ◇



「おい、退けよノロマ」

 退くのを待たずにぶつかって来る相手は、あれ程親切だった店長だ。

「すっ、すんません…」

 俺がオドオドと怖がるのが余計に腹立たしいのか、店長の心の中は最早嵐みたいに荒くれている。正直ここでの仕事には限界を感じていた。
 こうして俺が邪魔者扱いされるのは、その責任の大半が俺にあると分かってる。
 人と関わるのが苦手で、苦情は無いものの笑顔で接客とは程遠い対応。フォローはするよりもされる事が多く、何をやっても要領が悪いと来たら疎まれるのは当たり前のことだった。

 それでも…それでも、矢張りここまで風当たりが強いのはキツイ。それも、今まで良くしてくれていた人に掌を返されたのであれば余計に哀しみは深かった。
 俺が店長を変えてしまったのだろうか?だとしたら、尚更ここに居てはいけない気がする。

「あの、店長…」
「あ"?」
「上がりの時に、ちょっと話、良いですか」









「……で、辞めたいって?」
「もっ、勿論今すぐじゃなくて、代わりの人が見つかってからですが、俺、ッ!!」

 言い切る前に、店長に髪を鷲掴みにされた。

「いたっ! 痛いっ、店長!」
「今まで良くしてやって来たのに、用無しになったらハイ、サヨナラか?」
「違っ! 用無しなんて思って無いっスよ!」
「嘘つくんじゃねぇよこのクズッ! センチネルぅ? ガイドぉ? 何だよお前、ガイドに身も心も支えて貰ってるってか? あ?」
「ぃ"あ"っ!!」

 髪を掴まれたまま思い切り壁に押さえ付けられる。庇うこともままならずおでこを打つけ、視界がクラクラと回った。

「良い女なのかよ、あ? 治療とか言ってガンガンヤらせて貰ってんだろ!?」

 掴んだ頭を何度も壁に打ち付けられ、打つけたとこから血が滲む。
 店長が何でこんなにキレてるのか訳が分からなくて、只でさえ痛む頭はぐちゃぐちゃにパニックを起こしていた。
 辞めると言ったら、サッサと切られると思っていた。喜びはされても、引き止められることも、まさかこんな風に逆上される事なんて考えられなかった。

 俺が、俺みたいなクズが、女性とシてるのが気に入らないのか? 羨ましいとでも思っているのだろうか? だったら、それは否定しなくては。

「ちがっ、お…女じゃない」
「あ!?」
「俺のっ、ガイドは…男ですから!」

 途端、ピタリと止まる店長の暴力。

「お前のガイド、男なのか…?」
「は……はい、」

 だから、そんな良い話じゃない。
 そう言おうとしたのに、何故かその場の空気は更に温度を下げた。

「体液摂取…」
「えっ、」
「ンだよテメェ…男と…ヤッてんのかよ…」
「へ…? 痛っ!」

 掴まれていた髪を掴む手の力が再び強くなり、今度は体全体をピッタリと壁に押し付けられた。何をされるのか分からず壁にへばり付くと、途端に外されるベルトの金具。

「てんっ、てんちょっ、」
「黙れ…黙れ黙れ黙れ黙れクズ!!」
「ぅあああぁあっ!?」

 ズボンと下着の間を縫って入って来た手が、直に俺の中心を握り込んだ。壁にしがみ付いた俺の手が恐怖で爪を立て傷を付ける。
 その体に覆い被さるようにして店長が密着してくると、尻に硬くなったものがグリッと押し付けられた。

「ひっ!!」
「もう何回もここに咥え込んだんだろ!?」
「ちがっ、してないっ、してない!」
「一回くらい俺にもヤらせろよっ、なぁ!」

 一気にずり下されるズボンと下着。外気に触れた肌の感覚で、尻を曝け出されたのだと知った。
 体格の良い店長に、貧弱な体は簡単に押さえつけられたまま動けなくなる。
 振り向くことさえ出来ずただ喚いていると、俺の耳は遠くから聞こえた微かな音を拾った。
 店内の方で、誰かが叫んでる。

 それでも直ぐに意識は首に当たる荒い息、ベルトを外す音、尻の間に当てられた、硬くて熱い何かに持って行かれた。

 嫌だ、止めろ。

「ひぃやっ、ぃ嫌だぁああぁっ!!」

 バリバリと壁を引っ掻く音だけが、やけに大きく耳に響いた。














 襲い来るはずの痛みに目を閉じたのも束の間、不意に軽くなった背中を振り向けば店長が床に転がっていた。ピクピクと痙攣しているように見える。

「て…てんちょ…」

 驚いて近寄ろうとするが、それは別の誰かの手で食い止められる。

「気にしなくて良い」
「くり……はらさ…」

 長めの髪を乱した栗原さんが、もの凄くラフな格好で息を切らして立っている。その後ろには、レジに居たはずのバイト仲間が、驚きの表情を戻せず突っ立っていた。

「ズボンと下着、戻して」

 何がどうなっているのかも分からず、俺は子供みたいに栗原さんに言われるまま動いて身嗜みを整えた。店長はまだ、床に倒れてる。

「大丈夫、潰れたかもしれないけど生きてるから」

 何が? とも聞かずにブルッと震えたのは、栗原さんの後ろに立っているバイトだった。
 俺は店長が栗原さんに何をされたのか分からぬまま、震える手を引かれ店を後にする。
暫く歩いた後、遠くから救急車の音が聞こえた。



 ◇



「なぁ、栗原さん」

 連れて行かれたのは栗原さんが泊まっているホテルだった。彼は部屋に戻った途端俺を抱きしめた。胸元に俺を抱き込んで、ただ黙って髪を撫で続ける。

「俺、平気だよ。ちょっとビビったけど、助けてくれたから未遂だし、アレくらい何てこと無い。俺、男だし」

 声をかけてみても栗原さんは返事を返して来なかった。溜め息を一度だけ吐いて、頭を栗原さんの肩に預ける。そのまま目を閉じると、暗闇の中にさっきの光景がぶわりと広がった。
 思わず体を跳ねさせて栗原さんを見上げれば、何の表情もない顔でジッと俺を見下ろしていた。

 悔しい。男なのにあんな風に襲われて、トラウマみたいに恐怖を植えつけられるなんて。
 俺は唇をキュッと噛む。それと同時に、俺を抱く栗原さんの腕に力が篭った。

「こう言う事に、男も女も関係無いでしょ」
「けどさ、こんなのって…」

 男が男に抱きしめられて慰められるなんて、何だか凄く恥ずかしい。
 栗原さんはそう言った俺を抱き直すと、再び髪を撫でながら「気にしなくて良い」と言った。

「これは慰めてるんじゃなくて、俺がやりたくてやってることだから」
「え…」
「兎に角胸騒ぎがしたんだ。行ってみれば案の定君が彼奴に襲われていて、自分でも驚くくらい動揺した」
「栗原さんが、俺のことで…?」

 驚いてもう一度見上げると、そこには困り顔を浮かべる栗原さんがいた。

「怖いと思ったよ、君を傷つけられることが。俺は君を誰かに触れさせたくない…みたいだね、子供じみた独占欲だ」

 聞いた途端、隠すこともできず赤く染まる俺の顔を見て、今度は優しい笑みを見せた。

(可愛い…)

「んッ!」

 肉声とは違う何かが、耳ではなく俺の頭の中にスッと響いた瞬間、栗原さんは俺に唇を重ねた。それは“治療”なんかでは無く、欲を匂わせるキスだった。

 優しくしたい
 大切にしたい
 触れたい
 抱き締めたい

「んん〜っ!!」

 耳を塞いだって流れ込んで来るその声に、俺の体はこれ以上無いって程熱くなる。漸く解放されたそこから大量の息を吸い込むと、噎せるようにして栗原さんを責めた。

「あっ、あっ、アンタなぁ!」
「ん…」
「んッ!? んっ、はぁ、ンっ、ふ」

 だが全く何も主張できぬまま、またもや唇を塞がれたかと思うと舌をきゅうっと吸われた。

「ンぅうっ!」

 いつもとは真逆の感覚に、矢張り治療とは別物だと見せつけられて、顔だけじゃ無く全身が赤く染まりきった。
 俺の心は完全に観念して、全身の力を抜いて彼に全てを委ねる。
 すると栗原さんがほっとした笑みを見せた。それは、迷子の子供が親を見つけたような表情だった。
 しかし直ぐに何かのスイッチが入ったのか、全身にキスを落とし始めた。

「あっ、あ……ぁ、んっ」

 体を交わらせる時の様な激しさは無いが、明らかな愛撫に肌がピクンピクンと反応するのが自分でも分かって恥ずかしかった。

「やめっ、やめろよぉっ、あっ!」

 可愛い
 可愛い
 可愛い

「可愛くねぇよ!」

 聞こえた声に俺が叫んで抗議すれば、栗原さんは一瞬だけ驚いた顔をして、やがてニヤリと笑う。

「あっ!」
「へぇ…」

 それからの栗原さんは鬼でしかなかった。
 甘い言葉を、しかも肉声では無くワザと心の中で呟きまくって俺の脳を痺れさせる。その上体がとろんとろんに蕩けるくらいあちこちにキスを与えられた。
 バイト先で受けた暴力と恐怖、そして今までの記憶があっという間に遠くへ追いやられる。
 その感覚に何だか少し切なくなって、涙が一粒零れ落ちた。







 店長には今でも感謝している。
 襲われたってその気持ちは変わらないし、忘れたいとも思わない。だって、本当に良くしてもらったから。
 俺たちの関係は修復できないくらい壊れてしまったけど、だからこそ、この気持ちはちゃんと伝えるべきだとも思う。だから、もう一度話をしに行こう。
 今までの、ダメな自分とも決別するために。

 止まらなくなった涙と嗚咽を零す俺に、栗原さんは止めること無くキスを降り注いだ。
(ありがと、ありがとな…栗原さん)
 アンタが支えてくれたから俺、変われるかもしれない。口には出していないはずなのに、栗原さんは意味ありげに目を細めた。

 彼の手に指を絡め強く握ると、彼もまた、強く握り返す。
 そうしてどちらともなく近付いて、初めて互いの意思が通じたキスをした。

 自身の過去を乗り越え俺を支えてくれたように、今度は俺がアンタを支え、深く満たしたい。
 物寂しい世界から、今度こそ俺が連れ出してやりたいと思った。


 俺が栗原さんの家へと引っ越したのは、この日から二ヶ月が経った頃の事だった。








「ちょっ、ちょっとアンタいつまでチュッチュしてんだよしつけーよ!!……なんだよっ、笑ってんじゃねぇよバァカっ!!!」


END


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