番外編 ***
錆も、剥げ落ちたところも、塗りムラも無い綺麗な扉の前で尻込みしていた。
今まで何度か訪れくぐったことのあるこの扉も、今日はなんだか重々しい雰囲気が取り巻いていて近づき難い。
「何やってんだ?」
「あ…」
ひとりでモヤモヤと考え事をしていたら、いつの間にか扉は開かれひとりの男性が顔を覗かせていた。
「寒かったろ、早く中に入って」
「あ、す、すんません。お邪魔します」
カチコチに躰を固くした俺を振り返り、笑う。
「今日からはただいま≠チて言うんだよ」
誰も訪れることのない、物寂しいアパートとサヨナラしたのは数日前のこと。それから少しだけ、久しぶりに実家に戻った。
相変わらず両親との会話はなく、色々あった結果、結局追い出される形で実家を後にしたのがさっきのことだ。
「ご両親には話せた?」
返事の代わりに視線を落とした俺を見て、その人…栗原さんは、短く笑って俺の頭を優しく撫でた。
「話せただけでも進歩だ」
「…ですかね」
「ああ」
撫でる栗原さんの手に、自身の手を重ねる。
「俺、栗原さんが居てくれたらそれで良い」
栗原さんは何も言わず、重ねた俺の手を握り返した。
俺は今日から、住み慣れたあの街を離れ、この優しい人と一緒に暮らす。
俺はセンチネルで、彼はガイド。
最初の出会いは最悪で、互いに分厚い壁を作って接していた。だけどいつの間にか彼からその壁が消えていて、そして俺の壁までブチ壊しに来た。
抵抗はした。したけど…結局俺も一人は寂しくて、その寂しさに気付いた栗原さんに俺は、心も躰も救われ…今に至る。
彼も過去に酷い傷を負っていた。その話を俺にしてくれた時、不思議と彼を助けたいと、救いたいと思った。救われているのは俺の方なのに、何故かそう思ったのだ。
一緒にいるだけで心が温まる気がした。触れられれば恥ずかしくて、でも嬉しくて。躰は自然と熱くなって、持て余した熱を彼にぶつければ、それは難なく受け止められた。
何度もキスをして、何度も触れ合ってきたけど…俺たちはまだ、最後の一線を越えられずにいる。
それは全て、俺が悪いんだけど…。
「荷物は殆どもう片付いてるから、あとは好きに配置替えして」
与えられた部屋は、俺がひとりで借りていたアパートよりも広かった。必要な家具は全て部屋に収まっている。だけどその中に、ベッドだけがない。
「く、栗原さん…あの、」
「ここは自由に使っていいから」
「いや、えーっと」
「寝室はこっち」
歩き始めた栗原さんについていくと、だだっ広い、ベッドしかない、だけどそのベッドがとてつもなく大きい寝室へと辿りついた。
「ここが俺たちの寝室」
「へっ!」
「おいで」
寝室に入り、ベッドに腰掛けた栗原さんが俺を呼ぶ。体は瞬時にさっきの固さを取り戻し、緊張で汗をかいた。
「ほら」
痺れを切らし迎えに来た栗原さんに手を引かれ、俺も寝室へと足を踏み入れる。そうして腰を下ろしたベッドの柔らかさに感動していると、油断した躰がグワンと倒れた。
俺は、ベッドに押し倒されていた。
「久しぶりに触れられる」
「あっ」
目尻を甘く下げた栗原さんに、あっと言う間に口付けられた。それは直ぐに深いものに変わって、緊張していた俺の躰も気付けばトロトロに蕩け始めていた。
「んっ、は…んっ」
何度も角度を変えて舌を絡め、流れ込む彼の唾液を嚥下する。それは細胞の隅々まで染み渡っていって、侵され始めていたソレが綺麗に浄化されていった。
「あっ、あっ!」
シャツの裾から、体温の低い栗原さんの手が腰から脇まで滑り上がった。その刺激に肌がビクリと反応すれば、彼はそれに気を良くして更に手をいやらしく動かした。
「ひあっ! あっ、栗原さっ、んぅっ!」
完全に捲れ上がったシャツから曝け出された胸の突起を口に含むと、唇で挟み吸っては舌で押しつぶす。
「あぁあっ、やっ、ぁあっ!」
あまりの刺激に腰が浮く。とっくに俺のソレは怒張していて、それに気づいた栗原さんがズボンと下着の間を縫って、手を差し込んだ。
「嫌だ! 嫌だぁッ!!」
途端躰が勝手に暴れ、彼の手を拒絶した。ハッと気づいた時には栗原さんはもう、俺の躰に少しも触れてはいなかった。
「あっ、あの…」
「急かすつもりじゃ無かったんだけど…久しぶりに会えたから、ちょっと興奮してたみたいだ。悪かったな、怖かっただろ?」
「ちが…、栗原さん俺はっ、」
「大丈夫、分かってるよ」
困ったような笑みを向ける。躰の位置を少し戻して、俺のこめかみにそっと…キスを落とした。その優しい触れ方が、俺の胸を余計に締め付けた。
「引越しと同棲祝いに、夕食は俺が何か作るから買い物に行こうか」
「え、栗原さんが作ってくれるんすか?」
「外食がいい?」
「いや…」
「俺は、今夜はふたりきりが良いんだけど」
カッと赤らめた俺の頬を、栗原さんがそっと撫でた。
「良かった、俺だけじゃなくて」
「いつから心、読めるようになったんすか」
「残念ながら、相変わらず俺に第六感はないよ。でも君のことなら、表情だけで良くわかる」
「悪かったな! 分かりやすくて!」
「ははっ」
笑って立ち上がると、そのまま俺に背を向けた。
「上着取ってくるから、ちょっと待ってて」
寝室を出て行く彼の後ろ姿を黙って見送ってから、静かに溜め息を吐いた。
決して俺は、栗原さんを拒みたかったワケじゃない。そうじゃないのに、どうしても躰が触れ合いを受け入れない。そう…あの人に襲われた、あの日から。
俺がバイトしていたコンビニの店長。
男らしくて逞しくて、俺に無いものを沢山持っている人だった。
誰も必要としてくれていない孤独な世界の中で、唯一俺を必要としてくれる人だと信じていた。好かれていると、思っていた。だけど違っていた。
センチネルとしての能力が上がったその時、俺はあの人の心の中を聞いてしまった。
(何がセンチネルだよ気持ち悪ぃ)
(ただのポンコツじゃねぇか、使えねぇ)
(ふざけんな、役立たずのフリーター野郎)
言葉にされない暴言に、俺の心は一瞬でバリバリにひび割れて、襲われ、粉々に砕け散った。
あの日確かに栗原さんに救い出されたはずなのに、俺の躰は下半身に受ける刺激を拒絶する。下着の中に入ってくる手の感触を…忘れる事ができないのだ。
思い出したくなんてないのに、記憶は一瞬でフラッシュバックして、気付けば目の前の栗原さんを押しのけている。そんなことが何度も続いて、あれから二ヶ月経つ今でも俺たちは先に進めずにいる。
「このままじゃ…捨てられるかも」
俺も男だから、少なからず分かるつもりでいる。寸止め状態が、どれほどキツいかを。
実際自分の躰の欲だって最近持て余し始めている。本当は、もっとずっと深くまで繋がりたいし、その奥で彼の性を受け止め、内側から俺を浄化して欲しい。
そんな想いが中々伝わらないのがもどかしくて、辛かった。
◇
外の空気はキンと冷たく寒かった。
何気ない話をしながら歩く商店街は、先ほど足を踏み入れた広いマンションよりもずっと身近に感じる場所で、思わずホッと息をつく。
「何にしようか、何が食べたい?」
「得意料理とかあるんですか?」
「大抵のものは作れるよ、独り身長いからね」
そう言って俺を見下ろすその顔は、どうして独身なんだろうと疑問しか浮かばないほど出来が良い。
少し長めの髪がよく似合う、甘いマスク。色白なのに貧弱には見えない、服の上からも分かるしっかりと鍛えられた肉体。同じ男の俺から見たって魅力的なんだから、女性からみれば生唾ものの優良物件だろう。
「肉…が食いたいです」
「肉か」
その美しい顔に見蕩れながらぼんやりと答えたその先で、誰かの悲鳴が聞こえた。
「なに…?」
数十メートル離れた辺りに、人だかりができている。その輪の中から誰かが叫んだ。
「誰かっ! ガイドさんはいませんかっ!!」
は、とひと呼吸するよりも早く隣から栗原さんが駆け出した。釣られるようにして、俺もその後ろを追った。
「どうされました」
「あなた、ガイドさん?」
「そうです」
「彼女、多分センチネルで」
「倒れたんですね…大丈夫ですか?」
栗原さんがしゃがみこんだその足元に、俺よりも少し若いだろう女性がぐったりと倒れ込んでいた。
「すみません、腕に触れます」
言うが早いか、栗原さんは彼女の細く白い手首を掴んだ。それから、数秒で状況は変わり始めた。
青白かった女性の顔に血の気が段々と戻り、握りしめている腕に力が戻って来た。まるで癒しを求めるかのように、自身の腕を握る栗原さんの手にもう片方の手を重ねしっかりと握る。
やがて瞳を開けるまで回復し、倒れていた躰を支えられながら起こすことができた。ここまで、数分の出来事だった。
「気分はどうですか」
「あ…あの、驚く程良くなりました」
彼を見上げるその瞳に、嫌な予感がした。それは、大きな期待を込めた瞳だったから。
「それは良かった。今日は遠慮なんて無しに直ぐにでもパートナーを呼んで、しっかりと癒してから、念の為に病院へ行かれることをおすすめします」
「はい…本当にありがとうございました」
お礼を言い終わっても、彼女はその手を離さない。
「すみません、そろそろ手を」
「あ、あの! こんなことを急に言うのは失礼だと承知なのですがっ、」
やめて…
「こんなに早く治るということは、私たち、相性がとても良いと思うんです」
やめてくれよ…
「よかったら、私とパートナーを契約して」
そこまでが限界だった。俺は栗原さんの後ろで踵を返し、ひとり来た道を引き返す。
拒みたくないのに拒んでしまう、セックスもろくにできない面白みのない男の俺と、あんなにか弱そうな、美人で、触れられることになんの抵抗もない女性だったら、一体世の中の男はどっちを取るだろう? 俺に勝算なんて微塵もないじゃないか。
最後まで見せ付けられるくらいなら、いっそこのまま何処かへ消えて失くなってしまいたい。そう思ってふらふらと歩いていると、後ろから凄い力で腕を引かれた。
「どこ行くの!」
「…栗原さん……なんでここにいんの?」
「なに…?」
「あの人は?」
「え?」
「さっきの…」
栗原さんの目が吊り上がった。
「言ってる意味が分からない」
「だって」
「だって≠ネに? 俺があの人と何だって言うの」
掴まれた腕が捻り上げられる。
「いたっ、痛いっ」
「時間をかけてゆっくりと思ってたけど…君には荒療治の方が良いみたいだ」
「あっ」
今度はふたりで、来た道を引き返していった。
「ひっ、や…あっ!」
ベッドに投げられ、素肌を曝け出した躰。縛り上げられた腕。さっきは優しくゆっくりと与えられていた愛撫も、今では嵐のように俺の躰を翻弄していた。
舐められ、時に歯を立てられた胸の突起は真っ赤に腫れてジンジンと痛むのに、それでも躰は彼の触れた場所に熱を溜める。
「くり、くりはらさっ、や…やだ…」
段々と触れる場所が下へと下がっていく。
徐々に増える恐怖心に躰が震えるが、いつもなら止めてくれるその手を、栗原さんは止めてくれなかった。
「あっ!!」
下着の下に手が滑り込んだ。硬くなったソコを無遠慮に握りあげられる。
「ひっ!?」
その刺激が過去を思い起こさせ躰が跳ね上がる。無意識に逃げようとした躰を、腕を、強く引き止められた。
「いま、誰が君に触れてるのかちゃんと見ろ!」
「やっ、」
「光っ!!」
頬を捕まれ、無理矢理目を合わせられた。ゆらゆらと頼りなく揺れていた俺の視線は、向けられる強い視線に捕まり動けなくなる。
「見ろ、光。いま、君に誰が触ってる?」
「ひ…、う、ふぅ」
怖くて怖くて仕方なくて、瞳から涙が溢れた。それを、懐かしい優しさがぬぐい取ってくれる。
「ひかる」
「うぅ…」
「光、俺を見ろ」
「くり…はらさ、」
「そう、今君に触ってるのはアイツじゃない。俺だよ」
「栗原さん」
シュッ、と腕に巻かれた紐を解かれ栗原さんに抱きついた。
「栗原さん…栗原さんっ、」
「うん」
「くりはらさっ、れを…すて…な…でっ、おねがっ」
「ひかる」
「おねがっ、なんでもする…ひっ、な…でも、するからぁ」
「馬鹿野郎ッ」
「んんっ」
頭ごと強く引き寄せられ…だけど優しく、口付けられた。
本当は、ああいう綺麗な人こそこの人の隣に相応しいのかもしれない。分かってる。けど、それでも、やっぱりこの人を俺は手放したくない。誰にも、渡したくない。
「先に手を離そうとしたのは光だろ」
「ごめっ、ごめ…なさ」
「約束してくれただろう? 俺を助けてくれるって。俺を救い出してくれるって」
「栗原さんっ」
「君しかいないよ。俺を救えるのは、君しかいない。俺は光じゃないと駄目だ……二度と勝手に手を離そうとするな」
「んっ!」
再び重ねられた唇。滑り込んできた舌に、思考を蕩けさせられる。
「ぁ…ン、」
「まだ怖いか?」
「ンンっ、あ、ンあっ、あっ」
ぬるぬると、俺のソレに絡まった栗原さんの指が動く。
強く握りこまれたときは怖かったのに、今の刺激は生まれて初めて受けるもので…不思議と怖くなかった。それどころか、気持ちよすぎて腰の辺りまでジンジンしてきて、
「ぁあっ、や、」
「怖いか?」
「あっ、足りな…あ、もっと、ン! もっと…さわって」
栗原さんの躰を挟んでいた足をもじもじと動かし、つま先を彼の腰に滑らせる。と、
「まさか煽る余裕があったなんてな」
「へ…?」
自分がした行動が一体どんな作用を生んだかなんて、この時の無知な俺は全くわからなくて…。
「くり…はらさ…?」
「今日の俺にトラウマを持ってくれるなよ?」
「え? ひゃっ、あああっ!!」
俺は童貞処女から…ハリケーンのように処女だけ失い見事、童貞非処女という稀な存在になった。
引越して、同棲して、初めて食べた食事はカップラーメンでした。
END
2017/12/4
※リクエストありがとうございました!!
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