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ダストボックス:千尋


SIDE:千尋



『俺は千尋しかいらないから』

 そう言った要の言葉は、そのままの意味を俺に示した。
 友人に話しかけられても誰に話しかけられても、それこそ両親に話しかけられても要の心は少しも動かないのに。

「かなめ」

 俺が一言その名を呼べば、能面の様だった要の顔がまるで花が綻ぶように解けた。

「なぁに、千尋」
「……暑い」

 漫画雑誌を読む俺の後ろで、俺を抱き込むようにして座る要。互いの距離は既にゼロ距離だ。

 兄ちゃん兄ちゃんと後をついて回っていた天使は姿を消して、いつの間にか適度な距離を保ちたがった弟。
 容姿も頭脳も身体能力も、何もかもが人より優れている要はみんなの憧れの的で、逆に俺はそんな要に近づくための踏み台でしかなかった。
 俺が近づくと邪険に扱うようになって、会話すらあまりしてくれなくなった要に寂しさを覚えていたのは少し前のことだ。けど、そんな少し前のことを俺はもう、忘れつつある。

「お前…そんなんで読めるの? 後から貸してやるからちょっと待ってろよ」
「ちゃんと見えるから大丈夫」
「でも、俺の読む速度とお前の」
「良いから」

 要の鼻先が俺の首筋を擽った。背筋がゾワッと粟立つ。

「暑いなら、クーラー付ける?」
「ひっ」

 言葉を紡ぐ要の唇が俺の項に擦れて、俺は思わず要を突き離した。

「…先に読めば?」

 そのまま立ち上がろうとするが、要がそれを許さなかった。

「俺は千尋の後に読むから良いよ。だから読んでよ、今ここで」

 逃げを打った俺の腕を要が引き寄せる。そうして俺は、再び要の腕の中に閉じ込められることになった。
 俺の腹に回った要の手がTシャツの上から脇腹を滑る。それがやがてどこへ辿り着くのか、俺はもう知っている。でも、俺はそれ以上要を拒むことができなかった。

 要は俺にとって、目に入れても痛くないほど可愛い弟だ。俺を邪険に扱い、冷たく鋭い視線を投げて寄こして来たって、思春期を迎えた故の可愛い反抗程度にしか思っていなかった。
 流石に俺を踏み台にする奴らまで許容はできなかったけれど、だからと言って俺が要を嫌いになることはない。それくらい要は大切な存在なのだ。
 俺はきっと、要にお願いされればなんでも受け入れてしまうだろう。それが例え“普通”とはかけ離れた願いであっても、両親がこの上なく悲しむことであっても。

「ただいまぁ! 千尋、要、居るならちょっと荷物運ぶの手伝って!」

 玄関から聞こえた母の声に反応して、要の腕が漸く解けて俺から離れた。耳元で微かに舌打ちの音がする。

「…いま行くよ」

 要はいつもと変わらない。
 家の中、家の外、学校。全ての場所で要は、相変わらず俺と一線を引いた付き合いを続けている。けれど、人目がなくなると途端にその線は消え失せて、俺の内側にどんどん入り込もうとするのだ。
 可愛がってきた弟に冷たくされ、寂しく思っていたのは本当だ。久しぶりに目を見て笑いかけてくれた要に、胸がときめいたのも嘘じゃない。だけどそれは、あくまで要を弟として見ている上で感じたことだ。こんな、訳のわからない関わり合いがしたかったわけじゃない。それでも…。

 リビングを出て玄関へ向かえば、すでに要が母を手伝い荷物を運び始めていた。

「何この量…」

 どんどんテーブルの上に乗せられていく、大量の食材たち。その明らかにいつもと違う買い物の量に、俺が間抜けな顔を見せれば母が笑った。

「流石にこれだけあれば足りるでしょう?」
「へ?」
「私たちが居ない間は要がご飯作ってくれるって。ちゃんとお願いしなさいよ?」
「…え、なに。旅行にでも行くの?」

 まだ俺がぽかんとしていると、母が漸く俺の様子に気付いて眉を顰める。

「やぁだ、忘れたの? お婆ちゃんの家よ。毎年一緒に行くでしょう? 今年はふたりとも行かないって言うから、久しぶりにお父さんとふたりで行くのよ」
「え? 俺、行かないなんて一言も…」

 そこまで言った所で、隣に立った要に小指をそっと掴まれた。

「なに千尋。アンタ一緒に行くの?」

 掴まれた小指に、要の小指が絡まる。

「……ううん、俺も要と留守番してるよ」
「そう? 明日のお昼には出発して、一泊してくるから。親が居ないからって夜遊びしちゃダメよ?」
「うん」


 要は俺の大事な弟だ。
 目に入れても痛くないほど、可愛くて可愛くて仕方ない弟だ。だからどんな無理なお願いをされたって、俺はそれを拒否することなんてできないのだ。例えそれが、身の破滅を迎えるものであったとしても…。

「気をつけて行ってきて」



 俺たちは明日の夜。
 きっと、
 夜遊びよりも悪いことをする――――


END






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