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「いただきます」前編



 肌を刺すような寒さも、もうすぐ正午を迎える頃となればさすがに和らいでいる。

「はっ、」

 吐き出す息も、もう白くはない。神主を失った崩れかけの神社の石垣を右手に、見た目よりもキツイ勾配である長い坂を上って行けば現れる、古びた平屋の一軒家。入り口であろう引き戸の上には、埃にまみれた看板が掲げられている。

 ───[[rb:願叶堂 > げんきょうどう]]

 なかなかに仰々しい名前であるが、果たしてどれだけの人間がこの店の名前を覚えているのだろうか。そもそもここが、何かの店だと知られているかどうかも怪しい。
 太陽が真上に昇っているというのに、店の周りはシンと静まりかえっていて物音ひとつしない。石垣が消えたその先には深い森が広がっていて、それを背に立つ店の雰囲気は真昼でもどこか薄暗く陰湿な印象があった。

「もう……やっぱりまだ起きてない」

 両手に握りしめた買い物袋を持ち直すとガサリと音を立てる。大きな溜め息をつきながら店の真正面に立った[[rb:松永瑛二 > まつながえいじ]]は、引き戸には手をかけず裏手へと回り込んだ。

「ただいまー!」

 いつだって鍵のかかっていない勝手口を開くと、かかとで脱いだスニーカーを乱雑に放った。そのままキッチン台に荷物を置き辺りを見回すが、案の定そこに生活音は一切しない。この家の主は、瑛二が買い物に出掛けた二時間前と同様に未だ布団の肥やしとなっているようだ。
 瑛二はもう一度溜め息をつくと、ビニール袋から野菜を取り出し包丁を握った。

 瑛二は物心がついてから高校を卒業するまでの間、児童養護施設で生活していた。その施設から徒歩十分ほどの場所にあるお化け屋敷、それがこの古びた商店『願叶堂』である。
 はっきりと明言されたことはないが、表の破れかけの張り紙の文言から、瑛二はこの店を質屋のようなものだと思っている。実際煤と埃だらけの店内には、いまいち価値の分からない様々な物が所狭しと並べられていた。
 妖怪やこの世の者ではないものが住み着いていそうなどこか二次元化している外観と、立て付けが悪く、開くのに一苦労する入り口の引き戸。その戸は硝子張りなのに、肝心な硝子が汚れで白く曇っているから中は覗き見ることができず、余計にお化け屋敷感が増している。
 そんな子供の頃から変わらぬ佇まいのこの店で唯一変わったことといえば、十年前に店主が世代交代したことだろうか。昔はそれこそお化け屋敷と呼ばれるに相応しい、含みのある笑みが恐ろしい老人が店主を務めていた。まあ、それが今の店主の祖父であるのだが。

 瑛二がこの店でお手伝いさんのような真似事をするようになって、もうすぐ丸二年が経つ。それは現店主との同居の年数とイコールになるのだが、いまだに瑛二は彼をよく理解できない。
 付き合いだけで数えれば、お化け屋敷としてここに忍び込んだ七つの頃からになるので、かれこれ十三年の付き合いになる。それでも彼という男を理解するには全く時間が足りていないのが現状だ。
 鍋の中で料理が完成を叫んだのを見てコンロの火を止めると、相変わらず静かな部屋の中にギシギシと足音を立てて進んだ。
 キッチンから居間、そしてその隣の襖をパーン! と勢いよく開ける。立て付けの悪い家の中で唯一スムーズに開く扉かもしれない。そうして開けられた部屋の真ん中、畳の上に敷かれた煎餅布団はこんもりと膨れ上がっていた。

「縁くん! もう昼だよ!」
「ンう゛ぅ……」
「ほらほら起きて、ご飯が冷めちゃうよ」

 布団の中から聞こえる唸り声を背にさっさと部屋から離れる。あの部屋から出てくるのにはもう少し時間がかかりそうだと、時間を見計らって居間の石油ストーブに火を入れた。
 上にたっぷり水を入れたヤカンを置いてから、なんとなしに表の店に続く雪見障子を開けた。
 一際冷やされた空気が充満する、陽当たりが悪く薄暗い店の中。立ち並ぶ木製の棚は置かれた商品までしっかりと埃を被っていて、正直これが売り物になるのかと疑いたくなる有様だ。そうして見まわした中でふと目に入ったのは、掌の中に収まる大きさの銀細工。中心に鶉の卵ほどのオパールがはめ込まれた、美しいブローチだ。

「……これ、」

 思わず手を伸ばしそれに触れようとした、その時。

「やめた方がいいですよ」

 伸ばしかけた自身の手に、後ろから伸びてきた冷たく大きな手が重なった。

「ソレにはそれなりの念が篭ってますからね。あまり触らない方がいい」

 握りしめられるようにして戻された自分の手を見て、それからその手を握りしめる相手を見上げた。

「縁くん」
「おはようございます、瑛くん」

 そう言ってにっこりと笑う男───[[rb:社縁 > やしろえん]]は、芸能界にすらそうそう転がってはいないほどの美丈夫。
 全体的に色素の薄い男の髪は癖のない灰茶で、瞳の色は更に色を落とした薄茶。これが光を吸うと、まるで黄金のように光り輝くのを瑛二は知っている。子供の頃からずっと変わらぬものの一つだ。
 寝間着にしている紺青の浴衣の上から、若者が着るには些か渋すぎる[[rb:海松色 > みるいろ]]の羽織を広い肩から着流す姿は深い色気を纏い、瑛二は無意識にゴクリと喉を動かした。
 もう一度ぐい、と手繰り寄せられた自身の手を見て、これ以上あの銀細工に関して彼が話をするつもりがないことを知る。こうなると、どれだけ瑛二が質問しようとも彼は貝のように堅く口を閉じ何も答えてくれないのだ。

「さて、せっかくの食事が冷めてしまいます。食べましょうか」
「……縁くんがそれを言うの?」

 もう何時間も前から起こしていたというのに。じとりと睨めば、縁はわざとらしく眉を下げて反省の言葉を口にした。実際反省など、これっぽっちもしていないくせに。


『なあ、あの腐りかけの神社の近くにお化け屋敷があるって知ってるか?』

 誰が最初に言い出したのか、それはあっという間に子供たちの間で有名になった。瑛二も、そして瑛二がお世話になっている施設の子供たちも、退屈な日常に差した刺激には敏感だった。

『変人ヤシロのとこだろ? 歩いていけるな』
『よし、今日みんなで行ってみようぜ』
『でも俺たち、夜は外出禁止だろ?』
『今から行けばいい。昼間でも十分雰囲気あるらしいぜ』

 にやりと笑う少年に、瑛二はでも……と渋った。
 楽しいことは好きだ。みんなでワイワイと賑やかに騒ぐことも。だがお化けは見たことがなくとも怖いし、施設の職員に怒られるのはもっと嫌だった。

『なんだよ瑛二、お前びびってんのか』

 尻込みする瑛二を子供たちはケラケラと笑い馬鹿にする。瑛二の見た目の野暮ったさとビビりで引っ込み思案な性格は、施設の子供たちに揶揄われることが多かった。

『おいトモ、ちゃんと瑛二の手を握っててやれよ』

 そう言って呼ばれた少年は、瑛二よりも七つ年上の年長者、[[rb:淡田智則 > あわだとものり]]。親に捨てられ施設に預けられた瑛二を、常にそばに置いて守ってくれた兄のような存在。

『トモくん……』

 心底不安そうな七歳の小さな手を、十四歳の手がしっかりと握りしめる。

『瑛、心配するな。絶対に俺がそばにいてやるから』

 大人からしたら、十四の手などまだまだ小さい内に入るのだろうけれど。それでも瑛二にとってはどんな大人の手よりも、目の前に差し出される智則の手が一番、安心できたのだ。


「そんなにソレが気になりますか?」

 後ろからかけられた声に思わずびくりと肩を揺らす。昼食の洗い物を終えた縁が手ぬぐいで両手を拭きながら、冷え切った廊下に座り込む瑛二の横に腰を下ろした。瑛二の目は、相変わらずあの銀細工に向けられている。

「なにがそんなに気になります?」

 縁の声はいつだって穏やかだ。彼が声を荒げたところなど、子供の頃を含めても一度だって見たことがない。瑛二とは四つしか歳が変わらないのに、昔からどこか達観したように大人びている不思議な人だった。

「あれって、」
「はい」

 思い出すのは、あのブローチを大切そうに握りしめていた持ち主の顔だ。亡き母の形見なのだと、命よりも大切なの物なのだと、それはそれは慈しむ瞳でそれを見つめていた。だがそんな大切なものがここにあるということは。

「…………」

 結局言葉を詰まらせてしまった瑛二に、縁がくすりと柔らかく笑んだ。

「人ってのは大変ですね。大切なものがたくさんありすぎる」
「大切なのに、どうして手放してしまうんだろ」
「それ以上に大切なものがあるからでしょう」
「でも……だけど……」

 大切ってなんなんだろう。本当に大切だったのなら、手放せるものなんだろうか? 手放せてしまうということは、結局は大切でもなんでもなかったのではないのだろうか? じわりと目頭に滲んだ涙を隠すように顔を俯けると、その頭ごと大きな手にそっと引かれ縁の肩に埋もれた。冷えた空気の中、彼に押しつけた顔だけが暖かい。

「無理して納得しようとしなくてもいいんです。君の心の傷は、君が思うよりもずっと深い。ゆっくり、じっくり癒やしてあげればいい。私はずっとそばにいます」
「っ、」

 そのまま雪崩のように決壊した涙腺は、それからしばらくの間縁の肩を濡らし続けた。

 瑛二はこの店を、質屋のようなものだと思っている。……だが実際はもっと複雑で難解なものなのだと知っているし、それを瑛二が完璧に理解するのは困難だ。だから端的にまとめて“質屋───のようなもの”と理解している。
 ここに来る客はどこか普通ではない。普通の客はなぜか店に入ってくることが叶わず、ある一定の種類の人間にしかあの店の扉は開かない。それがどういった仕組みでそうなっているのか瑛二には分からないが、扉は開いたが最後。客は大切な何かを失い、替わりに自分の望んだ欲望を手にして去って行く。例えその大切なものを取り戻したくとも、もう二度と持ち主の元にそれが返ることはない。そういった約束なのだそうだ。その辺りの仕組みもまた瑛二にはよく分からなかった。縁はそれを総じて呪いのようなものだといった。
 そうして瑛二もまた、とある一人の男の野望と引き換えとなり置き去りにされた【商品】だった。

 兄のように慕っていた智則のことを、特別な人として見るようになるのにさほど時間はかからなかった。そして智則もまた、瑛二を特別としていた。それは同じ施設の者たちお墨付きで、実際彼らは瑛二が十八を迎えたときに一緒になることを約束していた。
 智則は周りからの【施設育ち】だなんて不名誉な称号を無に帰するほど出来がよかった。施設を出て行く際には、必ず成功を遂げて瑛二を幸せにしてみせると豪語していたし、誰もその言葉を馬鹿にすることはなかった。実際、彼は驚くほどの飛躍を見せた。
 だがそんな智則と瑛二の約束された未来に暗雲が立ちこめたのは、瑛二が高校を卒業するのにあと半年まで近づいた頃だった。

『欲しいものがある』

 智則は店の扉を開き、その頃すでに店主となっていた縁の前に客として現れた。

『その扉を開く意味を、君はちゃんと理解してますか?』
『……欲しいものがあると言っただろう』
『旧知の仲でも対価はいただきますよ。失ってからの苦情は一切受け付けませんが』

 黙ったままの智則の鋭い瞳に縁は短く息を吐く。

『いいでしょう。あなたの望みをご用意いたします』

 そうしてその半年後。彼は望むモノを手に入れ、そして正しく失った。




 桜の花びらが舞い散る、春の日差しがまぶしい希望に満ちあふれた世界で。

『すまない……すまない、瑛二ッ』

 施設の前で、卒業証書を片手に胸にリボンをつけた瑛二の前に現れた智則は、悲壮感をあらわに土下座した。何度も謝る彼に戸惑い、同じように地に膝をついて震える彼の肩に手を置く。

『なに、トモくんどうしたの?』
『……お前を……お前を、連れていけなくなった……』

 瑛二は首をかしげる。連れて行けなくなったとは、どういうことだろう。確かに今日はこの後、智則と共に新居へ引っ越しをする予定になっている。ということは、その部屋に自分を連れて行けなくなったということだろうか。

『え、ほんとどうしたの。新しい部屋、もしかして契約できてなかったとか?』
『瑛二……』
『大丈夫だよ、別に少し時間がずれたって死ぬわけじゃ───』
『子供が、できたんだ』

 瑛二はこの瞬間、世界の時間が止まったのかと思った。言葉はちゃんと耳に入り頭の中に届いているのに、どうしてか理解ができなかった。

『こども、』

 こども。子供? 子供ができたって、なんだろう。そんな言葉、存在してたっけ。
 瑛二と智則は間違いなく恋人関係であったけれど、深い繋がりにはまだ至っていなかった。それは智則が、瑛二が高校を卒業するまで待ちたいと言った結果だったのだが。それ以前に、例え性交をしていたとしても彼らは男性同士で、子供をつくることは不可能だ。───だから、子供ってなんなんだ。

『トモくん……子供って、』

 地面から顔を上げた智則の顔は、自信に満ちあふれていたいつもの顔からほど遠い、土気色で死人のような色をしていた。

『……昇進の、ためだったんだ。なんとしてでも、その切符を手に入れたかった……全部、全部お前との未来のためだったんだ……瑛二、瑛二だけを愛してるのに……』

 智則は願叶堂で、出世に必要なコネクションを望んだ。切望していた大きな昇進の道に必要なモノだった。だがそうして手に入れた道の先に立ち塞がったのは、コネ相手の後ろにいた妙齢の娘。娘は容姿も頭脳も人並み以上である智則を大層気に入った。自分のモノにしたいと願った。その結果が、コレだ。

『ほんの少しの期間だけ利用するつもりだった。本当に、ほんの少しだけ……』

 だけどその期間だって、智則は瑛二と過ごしてきたのだ。

『ずっと、俺と一緒にいたのに……?』

 自分に愛していると囁く唇で、ほかの人に触れていたのか。

『瑛二っ、』
『俺たち、一度だって別れてないよね。いつも通り一緒にいて、一緒に住む部屋決めて、食器買って、未来の話しながら笑ってたのに。その裏でずっと、他の人を抱いてたの……?』

 お前を一番愛している、そう言いながらその手は知らない女の人を抱き、あまつさえその胎に命を宿したというのか。自分たちの間では絶対に手に入れられない、そんなものを、彼は……。

『瑛二、瑛二ッ』

 自分に伸ばされた手に恐怖を覚え思わず避ける。

『いやだっ、触んないで!』

 涙がボロボロと零れた。さっきまで希望に満ちあふれ眩しく光り輝いていた世界が、今は真っ黒に塗りつぶされたように暗くて何も見えない。ただただ、汚れた世界に思えた。

『どうして……なんでだよッ!』
『瑛二、信じてくれ、愛してるのはお前だけなんだ!』
『やめろよ、愛してるなんて言うな!』

 今の彼のその言葉に、一体どれだけの価値があるだろうか。残念ながら瑛二には、全く意味を持たないものに成り下がってしまった。

『嫌いだ……トモくんなんて……大嫌いだっ!』
『瑛二ッ!?』
『二度と俺の前に現れるなっ!!』
『瑛二ッ!!』
 
 愛しくて堪らなかった人からの声に振り返ることなく、瑛二は走った。走って走って走って、そうして辿り着いた先は。

『今日からはここが、君の家です』

 瑛二に手を差し伸べ彼を闇から掬い上げたのは、周りからいつも変人扱いされている社縁、その人だった。


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