2
◇
なぜこんなことになったのか。
「お互い、悪い話ではないだろ?」
いつぞやと同じように上質なソファに座り長い足を持て余すように組んで、その上で両手の長い指を絡ませ笑う。その顔は二ヶ月前に見たあの日のまま美しさを保ち、いやむしろこの短期間で更に磨きがかかったようにその存在が輝いている。
「俺にはもう番がいる」
「この話を持ってきた時点で、俺にそれは通用しないって分かるだろ」
黒曜石のような瞳がとらえているのはジョウの首に嵌められている首輪と、そのタグだ。
「これは、」
「まあ、大体のアルファは騙せただろうけど」
言外に自分レベルのアルファには無駄な行為だと言いたいのだろう。確信を得た瞳に、これ以上は言い逃れできないのかと唇を噛み締めた瞬間。目の前に座っていた男、ミトがジョウの隣に移動した。そのまま筋の通った高い鼻先をジョウの首筋に埋める。
「匂いが似てるな。相手は兄弟か?」
「ッ、」
顔を覗き込んできたミトに息を呑むと、長く綺麗な指が首輪の下に入り込んだ。
「ちょっ!」
番でもないオメガのうなじに触れるなど言語道断、マナー違反もいいところだ。だがその指先が首輪の下の醜い凹みに触れた瞬間、目の前で火花が散ったように視界が瞬く。
「ハッ、ぁ……」
「なるほどね、咬み痕ですらないのか」
「やめっ、」
「咬もうとしたがキミに酷い抵抗にあって、傷をつけることしかできなかった。が、結果的に中途半端に繋がってしまった、ってところか」
「やめ……ろっ!」
鋭く睨みつけうなじを撫でる手を弾こうとするがするりと避けられ、ミトは両手を上げ降参のポーズを取る。しかしその顔には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
驚くことに、今ミトに言われたことは全て事実だった。上位のアルファには匂いと傷だけでそんなことまで分かるのか……。
もう十年も前のこと、ジョウが中学二年生の時の話だ。両親が共に家にいなかった夏休みのある日、ジョウは生まれて初めての発情期を迎えた。予定より三週間も早く起きたそれに対処は追いつかず、偶然居合わせた兄がラットを起こしジョウを襲った。本能に呑まれる前に激しく抵抗し兄の腕から逃れ、隣家に逃げ込んでなんとか事なきを得た。
とても優しく聡明であった兄が獣と化して襲ってくる姿は、今思い出しても震えが止まらなくなる。
ことの顛末は大体そんなそところだ。だがヒートの予定が狂った事故とはいえ、先にオメガのフェロモンで誘ったのだと身内は皆兄ではなくジョウを責めた。
また奇跡的にうなじを守り番契約を結ぶには至らなかったし、レイプも免れた。だがアルファの鋭い牙でうなじに傷をつけられたジョウは、辛うじて兄にだけ少しのフェロモンが分かる以外オメガとしての機能の殆どを失った。
ヒートが来ない体はホルモンバランスがめちゃくちゃに崩れ、常に体の不調が付き纏う。それでも自分は加害者なのだと己を責め続けてきたある日、ジョウは兄の部屋の中で偶然見つけてしまった。
夥しい数の自分の写真と、事故が起きた日の録画テープ。そして番になれなかったことへの無念を綴った日記……。
あの日のことは事故でもなんでもなかった。アレは……アレは全て兄が仕組み、ヒートもラットも人為的に起こされたものだった。そこで漸くジョウは兄の自分への異様な執着を知った。
「なんなんだよっ、何がしたいんだよ!」
「だから、さっき言っただろ、俺と番契約を結ぼうって。つまりは『ソイツ』から解放してやるってこと」
二ヶ月ぶりにジョウの前に姿を現したミトは、バーの裏口から出て帰宅しようとするジョウを拉致する形で車に押し込むと、彼の行きつけであろうカフェバーのVIP席に連れこんだ。
こんなに時間が経ってから一対一で報復されるのかと思わず身構えたジョウの目の前に、一枚の紙が置かれた。
そうしてミトが口にしたのは報復でもなんでもなく、『自分と番の契約を結ばないか』という想像を遥かに超えた提案だった。
紙には、同居は免れないようだが死ぬまできちんと番契約を続け、衣食住と、好きなものも好きなだけ与えられる何不自由ない生活を保証すると書かれていた。
「所謂、契約結婚ってやつだ」
「そんなことをして、一体アンタになんのメリットがあるんだ」
「番持ちの既婚者になれば、煩わしい誘いがなくなるだろ」
「アルファは何人も番を持てるんだ、俺一人と番ったところで意味なんてないだろ」
「あるさ。元々俺はオメガを番に持つ気はなかった。だが一人も番を持っていないからしつこくアピールを受ける。だからといって適当に番関係を結んで、発情の相手をしたことで本気になられても厄介だ。だけどその点キミはアルファが嫌いだし、俺にも興味がない。最高の相性だろ」
それともキミも俺に惚れてしまう? なんて嫌味ににっこりと胡散臭い笑みを浮かべるミトに眉間に皺がよる。
「でも、俺はオメガだから新たな番契約なんて」
「結べる。俺ならその中途半端な『痕』を消すことができる。それこそキミが一番望んでいることなんじゃないのかな」
「……アルファが嫌いなオメガなんて他にいくらでも」
「いない」
いないよ。重ねるようにもう一度、彼にしては珍しく語気を強めて言い放った。
「ついでに付け足すと、この前のメンバーはまだ店やキミへの報復を諦めていない。でも俺と番えば言わずもがな」
とどめを刺され、テーブルの上に置かれた契約書を見つめた。
「頼むから、店にも皆んなにも絶対手出ししないで。…………この首の痕跡も、絶対に消してくれ」
ミトは今までで一番深い笑みを浮かべた。
「契約成立、ってことでいいのかな」
こくりと頷いたジョウを満足そうに見つめた後、ミトは綺麗な右手を差し出した。
「では改めて、月折美人(つきおりみと)」
「……西島丈(にしじまじょう)」
その日、初めて互いに本名を知った。
次へ
戻る
★