最終話
小さなボストンバッグに急いで自分の荷物を詰め込む。
こうして改めて見てみると、どれもこれも桐嶋さんが俺の為に買い揃えてくれた物ばかりで、自分で揃えた物なんて殆んど無かった。
それがまた、切なかった。
十六歳で上京し家族と離れた俺は、夢の為とはいえ一人で暮らす事に寂しさを感じてた。だからあの日、桐嶋さんに初めて出逢ったあの日…。
『この子、ウチで預かっては駄目でしょうか』
そう社長に言ってくれた事が俺は凄く、凄く、凄く嬉しかった。
敏腕マネージャーだと聞いていたからどんな鬼のような人かと思ったら、仕事も親切に教えてくれたし、一緒に住んでくれたし、その上家事全般を全てこなしてくれた。
そして何より、何時も俺を励まして支えてくれた。
まるで歳の離れた兄の様だと思った。
けど、今考えるとそう感じたのは初めの頃だけだったかもしれない。甘やかされることが嬉しくて、心地よくて、触れて貰いたくて、褒めて欲しくて…。
『ナナ、おいで』
名前を呼ばれるだけで胸がキュッとして、
『ナナの髪は猫っ毛だな。細くて柔らかい』
髪に触れられると胸がキュッとして、
『湯冷めしない内に早く寝なさい』
その長くて綺麗な指で頬を撫でられたら、蕩けてしまうかと思った。
「俺っ、バカじゃん…なんで、今まで気づかなかっ……ひぅ、うっ…」
ボストンバッグを掴む手に、ポタポタと涙が零れ落ちる。
今更気付いてどうするの。別の人を見てると知ってしまったのに、ずっとそれを側で見続けるの?
『家を出ますとは、言わないんだ』
耳の中でナオキさんの言葉が木霊する。
俺は馬鹿だ。どうしてあの時この家を出なかったんだろう。あれは暗に、俺が居ると二人の時間が取れないから出て行け、と言われていたんじゃないのか。
「ひっ、う…ひっく、」
ボロボロと流れ続ける涙もそのままに、俺は鍵を外して部屋を出た。早くこの家から出ないと桐嶋さんが戻って来てしまう。
いや…戻ってこないかも知れない。桐嶋さんは今、ナオキさんの所なんだから。だから、戻って来ないかも……。
そう思ったら、足からストンと力が抜けた。
「ナナ……?」
玄関のドアが開く。少しだけ息を切らせ、額に汗を滲ませた桐嶋さんが立っていた。驚いた顔をしてる。俺が、こんなとこに居るから?
「きり…っまさ、」
「なに、してる…その荷物は、何だ」
玄関先で座り込む俺の横に、ポツンと転がるボストンバッグ。それを見た桐嶋さんの目がスッと細まった。桐嶋さんはバッグの前に座り、荒い手つきでチャックを開ける。
「何だこれは。お前、今からどこ行く気だ」
「ひっ、えぅっ…俺っ、」
「ナナ!! お前何考えてる!? 何処に…誰のとこに行く気だっ!!」
掴まれた手首が熱い。怒ってる。でも、今は俺を見てる。桐嶋さんの色素の薄い瞳の中に、情けない顔の俺が映ってた。
桐嶋さん
桐嶋さん…
俺、やっぱり貴方が好きで堪ら無いです。
大粒の涙が、ポロっと頬の上を滑り落ちた。
「いっ、行きたくない…」
誰のところにも、行きたくなんてない。
「離れたくっ、無いっ!」
貴方の側から離れたら、きっと呼吸すら上手くできない。
「っねがぃだから、誰のとこにも行かないでっ、俺を…置いてかないでっ」
「ナナ」
桐嶋さんのシャツに縋り付く。その自分の手が酷く震えてて、みっともなくて笑いそうなのに、笑えなかった。
「邪魔だっ…て、分かってるっ、でも、離れたくないんっです、うっ、うっく…っれ、俺っ、桐嶋さんが…桐嶋さんの事が……ッ、」
気付けば、
俺は桐嶋さんに唇を奪われていた。
「んっ、んん…んっは、ぁンんっ」
桐嶋さんの片手が、俺の後頭部をかき抱く様に支えて、もう片方の手は俺の顔をしっかりと固定していた。ちっとも離して貰えない口付けは苦しくて、酸素を求めて唇を開けば容赦なく中に侵入された。
「ぁふっ、ん…んっ、ん」
飲みきれない互いの唾液が俺の顎を伝い、服を濡らしていく。
唇から離れた桐嶋さんの舌がそのラインを丁寧に辿って行くから…俺の口はその妙な刺激に変な声を漏らした。
やがて舐め取ることを辞めた桐嶋さんは、また唇に軽い口づけを施す。ちゅっ、ちゅっ、と啄むだけのそれにも俺の背筋にはビリビリと電気が走った。
「ナナ…」
そして漸くキスの嵐が終わると、桐嶋さんは俺を強く抱きしめる。
「何でお前は…いつもそうやって勝手に変な方に走るんだ」
「は…ぁ、…?」
呼吸の整わない俺は、ダラリと力を抜いたまま桐嶋さんに身体を預ける。
「邪魔ってなんの話だ、いつ俺がナナを邪魔だと言った?」
「そ…れは…」
「何でお前はそんなに鈍いんだよ。ここまで鈍いとは…」
はぁ〜と深いため息を吐かれ、俺はムッと口を突き出した。
「に、鈍いのは俺だって自覚してますよ…自分の気持ちだって、さっき漸く気付いて」
「じゃあ俺のは?」
「へ?」
「俺の気持ちは、ちゃんと分かったのか?」
チラリと桐嶋さんを見ると目があった。少しだけ困った様な顔をしていて、そしてやっぱり細められた瞳の中には俺がいた。その奥に微かな情欲が見えた気がして、思わずカッと顔が赤らんだ。
「で、でも…ナオキさんは」
「何でそこでナオキが出て来るんだ。ああ…あ〜なる程、どっかで入れ知恵されたな」
俺は顔を俯ける。
「何を聞かされたか分からんが、俺の恋愛対象は普通に女性だ。ナオキもそうだ。つまり俺たちは単なる仕事仲間、分かるな?」
俺は頷く。けど、また目頭に涙が溜まった。だって今、女性が好きだと言ったから…。
「あーー泣くな泣くな! ったく、ナナは直ぐ早とちりするから…もうお前が一人前になるまで待つの、止める。危なっかしくて見てられない」
桐嶋さんは俺の顔を上に向かせると、もう一度触れるだけのキスをした。
「ナナ、好きだ。初めて会った時からずっと、お前が可愛くて仕方ないよ。頼むから俺から離れようとしないでくれ。出て行くなんて言わないでくれ。俺以外を頼ろうとするな……ほんと、頼むから…」
ぎゅぅうっとまた抱きしめられた。耳を付けた桐嶋さんの胸元から、早鐘を打つ胸の音が聞こえる。
「俺のこと…好きなんですか?」
「そう言ってるだろう。じゃなきゃ、一緒に住んだりしない」
「でも、俺は女の人じゃ」
「知らん! 惚れたもんは惚れたんだ。それも一回りも年下に…いい歳したおっさんが」
桐嶋さんに『おっさん』だなんて似合わなくて、俺は思わず吹き出した。
「笑うな」
「だ、だって桐嶋さん」
「年齢のことは結構気にしてんだ」
「若く見えるのに」
「そう言う問題じゃないんだよ」
「………桐嶋さん、」
「何だ」
「…………好き、です」
恥ずかしくて目を見て言えなくて、桐嶋さんの胸に顔を押し付けて言ってみる。そしたら、その胸がクツクツと可笑しそうに上下した。
「そんなこと、とっくに知ってるよ」
やっぱり、桐嶋さんには敵わない。
◇
『だって…好き、なんだ…』
『ッ、』
はいカットーーー!!
「ななをくん、凄く良いよ! 思わずこっちまでドキッとしたよ!」
「えへへ、有難うございます!!」
「ナオキくんもドキッとしてたでしょ、良い表情してたよぉ?」
監督のその言葉に、ナオキさんが見たこともないほど赤面した。
「なっ、なっ!」
「ははは! 図星だ!」
「監督っ!!」
「まぁまぁ、良いことじゃない。役に入り込めてるってことだからね! さぁ、少し休憩を入れようか」
監督の補佐が出演者たちに休憩を言い渡しそれぞれが散っていく中で、ナオキさんは立ち去らず俺の所に留まる。
「お前さ…また何かあったろ」
「え?」
「好きな奴でも出来た?」
「えっ!?」
さっきまで監督にイジられていたクセに、今は俺をイジる気満々だ。
「そっ、そんなんじゃないですっ!」
「嘘だね、絶対なんかあったよ。ほら言ってみ? ほら」
「やめっ、止めてくださいよぉ!」
「こら、何してる」
弱い脇腹を突かれ逃げ回っていると、桐嶋さんが飲み物を持ってやって来た。
「周りに凄い目で見られてるぞ。自分たちの役柄を忘れるんじゃない」
慌てて周りを見渡すと、何処かヨソヨソしく目をそらす人たち。何だか頬が赤いのは気のせいか。
「変な誤解を与えて広まったらどうする」
桐嶋さんが咎めるから、俺はシュンとして謝っ…ろうとした。
「嫉妬でしょ」
「え、」
思わず振り向けば、ナオキさんが意地悪な顔で笑ってた。
「単なる嫉妬でしょ、それ。ナナに触んな〜! てオーラ出てるよ」
何も言えず、ポカンとする俺。でも。
「何だ、分かってるなら触るんじゃないよ。コレは俺のなんだから」
そう言って、桐嶋さんが俺の手の甲にキスをした。
硬直した俺と真っ赤になったナオキさんの後ろで、黄色い悲鳴が響いた。
【不思議な魅力で光る俳優、戸田ななを】
そんなキャッチフレーズが定着し、脇役にはこの人有り! と人気を博し始めるのは…このドラマの放送が始まって間もなくの事だった。
END
↓↓おまけ↓↓
『今日は自ら発掘して来るから』
そう言って出て行った社長が連れて来たのは、ちょっと小柄で、とても真っ直ぐな目をした少年だった。
「この子、今日付けでウチの子にするから。この子、テッペンに押し上げるから」
その言葉の重みもまだ理解できておらず、キョトンと俺を見上げる彼に俺の心は鷲掴みにされた。
「初めまして、桐嶋玲一です」
差し出した手を、まだ成長途中の手がキュッと握る。
「と、戸田ななをです! 宜しくお願いします!!」
◇
「社長、約束通りナナ専属に替えて頂けるんですよね」
俺は人気俳優のランキングが載った雑誌を、ポイッと無造作に社長へと投げる。そのランキング三位に【戸田ななを】の名前が書かれていた。
「ま、約束だからな」
「では失礼します」
「ちょっと待て!!」
「何です?」
社長室から出て行こうとした足を止め振り返る。
「手は……出さなかっただろうな」
「はい、まだですが」
“まだ”の言葉に社長が頭を抱えた。
「良いか!? 我慢してたからって暴走してやるなよ!? 優しくしてやれ! 良いな!?」
「野暮ですね…言われなくともトロトロのドロドロの甘々に優しくして」
「言うなぁあっ!! もう良い! 行けっ!」
「失礼します」
俺は今度こそ部屋を後にした。
事務所に戻る廊下で、一人昔を思い出して笑う。
『この子、ウチで預かっては駄目でしょうか』
その瞬間、社長の顔が引きつったのが分かった。多分、俺の奥底にあった欲望に気が付いたのだろう。あの場で何も知らずに居たのはナナだけだ。
嬉しそうに目を輝かせたナナに、社長は首を縦に振るしかなくなった。
『二十歳になるまでは絶対に手を出すなよ!? 良いな!?』
社長に釘を刺されてから四年。
「よく我慢したよなぁ、俺も」
ドラマ撮影を終えて、久しぶりに連休を与えられたナナ。
その連休で俺に何をされるとも知らず、迎えを待っているであろう事務所へと足早に向かう。
「俺がお前に、教えてやるから」
今夜はきっと、
寝かせてやることは出来ないだろう。
END
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