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「今日はもう茶は無理だな、帰るか」
凍てついた場の空気をワザと無視した和美ちゃんは、荒れた部屋もそのままに出て行く。
「蜂川先生っ」
その後ろ姿を呼び止め廊下に飛び出したのは鈍広先生だった。
「何でですか!? 何でっ、何で!!」
何を言いたいのか分かったのは、きっと和美ちゃんだけだっただろう。
「お前は一体何をやってる」
カッとなって赤らんでいた鈍広先生の顔は、和美ちゃんの言葉でみるみる内に青ざめていった。
「満足か? お前の取った行動は、本当に欲しい物をくれたか? 自分の立場も、その重要さも忘れた今のお前に、俺は用は無い」
聞いたことの無い冷たい声音で吐き捨てると、和美ちゃんは再び背を向け歩き始めた。
あの言葉は確かに鈍広先生に向けられたものだったが、その台詞に体が固まったのは鈍広先生だけではなかった。
生徒会長、副会長、庶務、書記。そのどれにもズシリと来る言葉だったのだろう。何も響いていないのは、空気も読めずに初めからずっと何か喚いている皇太陽だけだ。
誰もが自分のことにいっぱいいっぱいで気付くことが出来なかった。鈍広先生の変化に…。
「っ、和美ちゃんっ!!」
気付いた時には既に遅く、先生の手には鈍く光る物が握られていて、先生はそれを持って和美ちゃんへと走り出していた。
俺の声に振り向いた和美ちゃんも護身が間に合わない。
「「「「っ!!!」」」」
全員が衝撃に目をつむりかけたその時。
「はい、お終い」
「あぐぅ!」
カランと言う音共に、和美ちゃんの足元にはケーキ用のナイフが落ちた。
「りっ、理事長!?」
ナイフを持っていた鈍広先生の手首を捻りあげたのは、何とこの学園の理事長だった。
闇に紛れた理事長は、一体どこから現れたのか誰も分からなかった。
この学園に隠し扉が多数あるという噂はあながち嘘ではないのかもしれない。
「公憲」
「あ"っ、ぃあっ」
鈍広先生の手首から、ミシリと嫌な音が鳴る。
「私はね、君の事は可愛くて可愛くて仕方がないんだ。だって、大事な甥っ子だもの。でもね、それとこれとは……別だ」
「ひっ」
突如声のトーンが下がった理事長。それが何を意味するのか、鈍広先生だけは分かったようだ。
「血は争えないね。矢張りお前も彼に惹かれたか。でも、だからこそ分かるはずだ。大事な物を傷付けられそうになったら、私が何をするか」
「ぁっ、」
手首を掴んでいる手とは反対の掌を鈍広先生の手に添えたかと思うと、
「あぁぁあっ!!!」
バキリと嫌な音が響いた。
「理事長っ!」
「和美、朱里くん。すまなかったね」
そう言って理事長は俺たちに頭を下げた。
「理事長…」
「そんな顔をしないで、君のせいでは無いから」
廊下に蹲っている鈍広先生を目に映し、和美ちゃんが初めて顔を歪ませる。その顔をするりと手で撫でる理事長。
「おや、」
「朱里」
俺は無意識に理事長の手を掴み、和美ちゃんから離していた。
理事長はそんな俺を見てその目を細めると、笑うでもなく怒るでもなく…そっと俺の腕を外した。
「和美、もう私たちに囚われなくて良い。お前の好きな様にしなさい」
「辰憲さん…」
俺にはどんな状況なのか全然分からなかったけど、それは確かに和美ちゃんを解放したようだった。だけど、互いにとても寂しそうな顔をしていた。
和美ちゃんの髪をくしゃりと混ぜた理事長の手を、俺は今度こそ止めることが出来なかった。
◇
荒れ果てた生徒会室は、結局あの後俺たち二人で片付けることになった。
色んな雑念が邪魔をして掃除がはかどらず、結局気付けば時間は夜明けに近い時間となっていた。
どうせ数時間も寝れないのだから、少し話でもするか? との和美ちゃんの提案に乗って、俺たちは生徒会の仮眠室にて色んな話をした。
こうなる前の生徒会の話や、和美ちゃんが教師になった頃の話も沢山した。けど、やっぱり気になるのは理事長との関係で…。
和美ちゃんにとって理事長は、兄の様な、育ての親の様なものなんだそうだ。
幼い頃に両親を事故で亡くした和美ちゃんは、親戚である理事長の家、東条家に引き取られた。
しかし、その東条家での和美ちゃんの扱いは酷いもので、それを守り助け育ててくれたのが、現在この学園の理事長である東条辰憲だった。
理事長には婿養子として東条家を出ている兄弟が一人いて、その子供が鈍広先生。
先ほどの混乱した鈍広先生の様子を見ていて、彼は和美ちゃんに思いを寄せているのではと感じていた。それが理事長の言葉で決定的になり、尚且つ鈍広先生だけではなく理事長も和美ちゃんの虜になっている様だった。
「二人の好意には気付いてた。けど、どうすることも俺には出来なかった」
俯いてしまった和美ちゃんの顔には、確かに苦悩が浮かんでいた。恩を感じている相手からの好意は、嬉しくも大きな重荷になっていたのだろう。
「ずっと自由になりたかった。なのに不思議だな…ああ言われると何でか不安になる」
困ったように笑う和美ちゃんの表情に俺の心はぎゅっと痛む。
今まで重いと思っていた鎖が、外された途端物足りなくなったり、不安になったり。それは理解出来ない事ではなくて。
ただ、もうそこへは戻って欲しくないと言う欲が強く湧く。
「ねぇ和美ちゃん。それって…理事長じゃないとダメ? 鈍広先生じゃないと、ダメ?」
「へ?」
「その…さ、重荷にはなりたくないけど、その…支えにならなれないかな、って」
自分で言っていて恥ずかしくなり、最後の方は殆んど尻窄み。全身の温度が上がって行くのも分かり、思わず顔をそらしてしまったのだが…。
「!?」
ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられ驚いて顔を上げれば、和美ちゃんは「恥ずかしい奴だなぁ」と照れ臭そうに笑っていた。
その顔を見て俺は、何だか無性に泣きたくなった。いや、泣いてた。
「しょうがねぇヤツ」
そう言って俺の頭を胸に抱く。黙ってされるがままにしていれば、和美ちゃんはも静かに俺の背中をさすっていた。
あぁ、このままさっきの俺の言葉は無かったことにされてしまうのかもしれないな。そんな事を思った時だった。
「俺はこう見えて教師なんだよ、知ってたか?」
「え…?」
冗談めかして言う和美ちゃん。でも、目が真剣だった。
「俺は教師って仕事に誇りを持ってるし、生徒を支えてやりたい。生徒に支えられる何てことは、まだあっちゃいけないんだ」
脈絡なく始まった話。でも、嫌な予感がした。“教師”に付随してくるもの、それは生徒だ。そして俺は、紛れもなくその“生徒”なのだ。
生徒に支えられる教師が居ても良いじゃないか、そう思いもするが、和美ちゃんの信念はそうではない。それを曲げさせるのもまた、何か違う気がする。
言われる先が予測出来てしまい、俺は唇を噛み締めた。けど俺の耳に入って来た言葉は、想像したどの結末とも全く異なる未来を運んで来る。
「ゆっくり、でも、早く大人になれよ?」
ポカンと馬鹿な顔を晒した俺の前髪を、掻き上げる様に撫でる。その優しく甘い手つきに、俺の止まりかけてた涙が再び溢れた。
「なるっ、なるっ! 俺、早く大人になるからっ!」
――だから待ってて
声に出来なかった言葉を胸の内に秘めて和美ちゃんの首に顔を埋めれば、和美ちゃんも俺の肩に頭を預ける。
「あぁ…お前の卒業式が待ち遠しいなぁ」
そんな独り言の様に呟かれたその言葉が、この先ずっと、俺の原動力となる。
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