完
消毒くさい部屋から外を眺めていた。
今朝から幾度となくこの部屋を行き来する医者や看護師も、昼過ぎになって漸く落ち着いた。
ふっ、と息をつくともう一度紫穂は体をベッドに沈める。
医者の話によれば一週間ほど目を覚まさなかったようで、体はその話の通りに少し重くて怠かった。だがそれは、眠っていたからなのか怪我から来るものなのかイマイチよく分からない。
「…ボロボロだ」
紫穂の上半身は包帯に包まれていた。頭の傷に触れようとすれば、利き手も固定され動かない。そうして手を動かす事を諦めたところで、個室のドアが遠慮がちにノックされた。
「はい」
短く返事をすれば、ドアは直ぐに開いた。
「よっ!」
そう言って左手を上げた上代も、右肩をガチガチにギブスで固定されている。
「その肩…」
「うん、バッキリ行っちゃって。全治二ヶ月だってさ。まぁでも、結構綺麗に折れてたからもう少し早く治るかな? ってちょっと期待してんだけどね」
早く退院したいし。そう言って上代はベッドサイドに有る椅子を引き出して腰掛けた。上代が体を傾けた時に見えた、右側の鎖骨辺りの変色した皮膚に目を奪われる。
きっとそれは、傷を負った肩から続くものなのだろう。
「またグルグル悩んでんでしょ、次男くん」
「………」
「馬鹿だね、これはキミのせいじゃないよ」
上代は何でもない様に言ったが、そんな言葉を紫穂が鵜呑みにする訳がなかった。
「由衣は脳震盪と背中の打撲、諒くんは右腕と腰を複雑骨折、上代は右肩。それをやったのは……和穂」
「そう、三男くんだ。だから次男くんは」
「違う、俺だ。……俺が、和穂を狂わせた」
「………」
「あの時にお前、言ったよな。『俺たちを狂わせる何かを持ってんだ』って。俺は多分…知ってた。俺が言うこと、やること、態度で兄弟たちがどんどん狂うことを、俺は知ってた」
離れようとすれば執着が強くなって、従順になれば執着ごと抱きしめられる。それを何度も繰り返すことで紫穂は無意識に安心を得ていた。兄弟達が、自分をまだ必要としているんだと。
「諒くんと和穂が仲良くなって、怖いことから解放されたと思った。でも俺は…いつも何処かで寂しく思ってた」
“俺の事が好きなんじゃなかったの?”
「だから当て付けの様に由衣を可愛がった。由衣が可笑しくなり始めたことに…気付きながら」
諒にも和穂にも靡かない紫穂が特別扱いをする事で、由衣はどんどん狂っていった。諒に、和穂に影響された部分もあっただろう。だが、矢張り大部分は紫穂からの影響だったのだと…今の紫穂にはそうとしか思えなかった。
「俺の兄弟は狂ってる。でも、一番狂ってんのは俺なんだ」
「次男くん…」
上代は、決して紫穂を追い詰めるつもりで言ったわけではない。だが間違いなく、兄弟や上代、深く関わった相手を狂わせていく何かを紫穂は持っていると確信していた。
それが何なのか分からないところが、また恐ろしいとも思っていた。
「ずっと考えてた。こんな狂った世界、誰が回してるんだろうって。けど、今なら分かる。諒くんの世界も、由衣の世界も、和穂の世界も……全部、俺が狂わせて回してた」
紫穂はそっと目を伏せた。
「今朝、電話で両親と話したんだ」
自分を愛していないはずの両親は、紫穂が目を覚ましたと連絡を受けて涙を流し喜んだ。どうやら三日ほど前までは病室に詰めていた様だが、仕事の都合で再び海外へと飛んでしまったそうだ。
「何度も泣きながら謝られた。『守ってやれなくてごめんね』って、父さんにも、母さんにも」
両親は由衣の異常さに気づいていた。あの“溺愛”と見えた二人の態度は、ある意味で監視の様なものだったのだ。諒と和穂の異様な距離感にも気付いていたが、そこは由衣とは違い危険性が無いと判断したのか諦めていた様だ。
単なる恋愛ならば、例えそれが兄弟同士であっても自由にさせてやるしかないのだと…。
両親は会社を紫穂に継がせたいと思っていた。それは諒と相談して決めたことだった。この特殊な学園へ紫穂を入学させる事はとても不安であったが、この学園出身であることは将来間違いなく有利になることと、諒が教師として学園に居ることが決め手となり…そうして両親は諒に紫穂を託した。
「だからあの時、長男が直ぐに引いたのか」
上代が紫穂と恋人となったと伝えたあの玄関前での出来事の後、諒は直ぐさま会社の対処へと移った。あの時の動きにてっきり長男は会社を継ぐ意志があるのかと思っていたが、実際は全て紫穂の将来の為だったのだ。
紫穂の目から涙が落ちた。
「何も知らなかった。知ろうともしなかった。一人で被害者ぶって、悲劇気取って!」
「次男くん」
「あの時、由衣は和穂から俺を庇ってくれたっ、諒くんは俺を逃がしてくれた! 和穂はっ! …全部俺が悪いんだ、全部全部俺が可笑しくさせた! 俺がッ!!」
「次男くんっ!!」
上代は自身の左肩に紫穂の頭を何とか引き寄せた。
紫穂の頭には痛々しく包帯が巻かれており、身体中怪我だらけだから無茶が出来ない。上代自身もまた右肩を怪我していて上手く動けないのだが、今はそれが酷くもどかしかった。
力一杯抱きしめてやりたかった。痛いと紫穂が怒る程に、両手で強く強く、抱きしめてやりたかった。
「次男くん…」
こんな時に限って掛けてやる言葉が見つからなくて、自分の不甲斐なさに舌打ちをしたくなる。それでも、そんな上代にまるでしがみ付くように頭を預ける紫穂が愛おしくて仕方なかった。
見た目よりも柔らかい、短く切られた髪をそっと撫でれば、その優しい刺激に反応したかのように紫穂が顔を上げた。その瞳に上代が息を呑む。
その先が、見えた気がした。
「上代」
「言うな…」
「俺、」
「言うなって!」
「俺……学校、辞める事にした」
「何でだよッ!!」
上代が椅子から勢いよく立ち上がった。握り締めた左手が怒りで震えている。それでも紫穂の目は上代を捕らえたまま逸らされる事は無かった。
「俺、変わりたいんだ。もう諦めたりしたく無い。今のままここにいたら、きっとこの先もまた同じ事を繰り返す。だから俺は、誰にも頼れない、誰も俺を知らない…家族のことも知らない場所に行く」
紫穂の目は真剣だった。先ほどまで泣いていた頼りない、幼いままの目では無い、本気の目だった。
「……本気か」
「ああ」
「もう、決めたのか」
「父さん達にも話した。退院でき次第、留学する」
上代がガタンと椅子に体を落とす。それは座ると言うよりも脱力に近かった。
「次男くんはさ…やることがイチイチ極端なんだよ」
「諒くんにも同じこと言われそうだ」
上代の呟きに紫穂は思わず笑みをこぼした。
「兄弟たちには言うのか」
「ああ、話すつもりでいる」
「三男くん、は」
紫穂は目を閉じる。
瞼の裏で、幼い頃の和穂が笑った。
『シーちゃん! 一緒にあそぼ!!』
「………会えない」
紫穂を殴り付けている所を、騒ぎを聞き付けて集まった人たちに捕まった和穂。暴れるかと思ったそれはまるで糸が切れた人形の様に動かなくなり、そのまま和穂は空っぽになってしまった。
そうして彼は今、真っ白な部屋の中にひとり…孤独と共に閉じ込められている。
「まだ、会えない」
半身だった。
側にいることが当たり前だった。
和穂が紫穂を手放さないことが普通だったから。
それを手放せなかった紫穂は、後戻り出来なくなるまで和穂を追い詰めてしまった。
「今の俺には、手を放すことしか出来ないんだ」
引き摺られてしまう。
いま会えば、和穂の執着に、引力に引き摺られてしまう。また同じ事を繰り返してしまう。でも…
「戻ってくる。情けない自分を捨てて変わる事が出来たら、俺は必ず戻って来る。例え和穂を選べなくても、向き合える様になったら…ちゃんと俺が“俺”として向き合える様になったら。俺が和穂を連れ戻す」
「次男くん…」
「一年か、二年か、もっとか。今はまだ分からないけど、それでも出来るだけ早く戻って来るから、その時は俺、その………かみしっ…」
紫穂の瞳いっぱいに上代が映った。
唇に重なった温度は今までのどの時よりも優しく、二人の間で溶け合った。それを惜しむ様にして、上代がゆっくりと離れた。
「一番に俺んとこ戻って来てよ」
「上代…」
「だって俺、コレでも一応“彼氏”なんだからさ。先に他の男んとこ行かれちゃ立つ瀬無いでしょ?」
ニッと笑った上代に、釣られて紫穂も笑った。
「そうだった。俺、“恋人”居たんだっけな」
クスクス笑えば上代が「忘れてんなよ」と膨れっ面を見せ、また紫穂が笑う。
「何時になるか分かんないぞ? それでも本当に待ってんのかよ」
「待っててあげるよ、俺、優しいから」
「へぇ…じゃあ約束して貰おうか。でも俺たち、腕折れてるからな。指切りの代わりだ」
「え?」
初めて紫穂は自ら唇を重ねた。
今までと違うその温もりに、上代が目を見開き放心するのは、それから直ぐ後の事だった。
「戻って来たらちゃんと言葉で言うよ、上代」
―――― 3年後 ――――
「ぇえっ!? 上代先輩、今日サークルの飲み会行か無いんですか!?」
「ごめんねぇ〜ちょっと用事あってさ」
「もしかして彼女ですかぁ?」
「まぁね」
「え"っ! 本当に!? 彼女いるって嘘じゃなかったんですか!?」
驚きながらもまだ食い下がろうとする後輩を軽くあしらいながら、上代は一週間前に突然届いたメールを思い出す。
【来週戻る】
余りの簡素さに初めはイタズラかと疑ったほどだった。それでも。
それでも、誰よりも早く自分に届いたであろうそれに嬉しさは隠し切れなかった。
「なぁんか、昔よりも磨きがかかった気がすんなぁ」
上代は二通目に届いた空港に着く時間だけが載ったメールを確認すると、堪えられぬ笑みを浮かべた。隣では後輩が初めて見る上代の甘過ぎる笑みを見て固まっていたが、もう上代の目には映っていない。
今の上代の目に映っているのは、見上げた青い空と、そして…
飛び立ってから一度も連絡を寄越して来ないようなツレない、けれども誰よりも愛おしい待ちに待った相手だけなのだ。
「早く戻っておいで、次男くん」
上代は歩き出す。
三年前のあの日、聞けなかった言葉を聞く為に――――
遠くで蝉が鳴いていた。
日差しは柔らかさを失い、寧ろ攻撃的ですらあった。
そんな暑さの中でいま鳴いている蝉は、一体いつまで生きられるのだろうか。明日には簡単に死んでしまうかもしれないし、例えもったとしても一週間の命。世界は酷く残酷だ。
だが、それでも世界は回り続ける。
歪みや残酷さを含ませながら、それでも美しく…人々の心を惹きつけ回り続けるのだ。
END
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