3***
諒はあの後、授業が終わっても話しかけて来なかった。どこか心ここに在らずと言った感じが気になりはしたが、それでも、自ら進んで諒に関わる事はしたく無かった。
その日は全ての授業を終えても直ぐに帰る気にはなれず、少しだけ中庭で時間を潰す。
梅雨入りをしたとは言え未だ夕方は肌寒い日も多く、ワイシャツが冷んやりとして来た所で俺は漸く重い腰を上げた。
「あ、やっと帰って来た」
夕焼けも消えかかる頃に部屋へと辿り着けば、そこには良く知った男が立っていた。
「……和穂」
凭れかかっていた背をドアから外すその姿を見て、思い出す。決して忘れちゃいけないことを俺は忘れていたのだと。
「話があるんだ。中、入れてくれる?」
そう言って微笑む和穂は美しい。でも、俺の背筋には冷たい汗がツッと流れ落ちた。
俺は和穂に嫌われている。理由は分からない。でも、それで良かった。
ある日突然和穂に嫌われ、関わりが減った事には正直ホッとしていたんだ。だから俺は忘れてしまった。
父も母も、諒も由衣も、昔から苦手だし怖い時がある。でも俺は…俺は一番、
和穂の事が、怖かった……
「和穂、お茶…」
「ありがとう」
共有フロアにあるテーブルに着いた和穂は、生徒たちから“王子”と呼ばれるに相応しい笑顔を俺に向けた。そしてそのまま、お礼を言った癖に出したお茶には見向きもせず俺を見続けている。
俺はその目から細かく震える手を隠したくて、乱雑に湯呑みを放ると直ぐに手を引っ込めた。いや、引っ込めたはずだった。
「ッ、」
引っ込めようとした手を和穂に捕まれ、俺はひっ、と上げそうになる声を必死で堪える。そんな俺を一部始終逃さず見ていた和穂は、笑んでいる目を更に細めて言った。
「諒くん、僕とはもう遊ばないんだって。何があったの?」
手首を掴む手に力が込められ、俺は痛みで眉をしかめる。
「…知らない」
「………」
「な、何も無いって」
「嘘は駄目だよ、シーちゃん」
シーちゃん。
随分前から呼ばれなくなったはずのその呼び名に、俺は今度こそ隠すこと無く体を跳ね上げた。
「う、嘘なんかじゃない!」
「…悪い子」
掴まれた手が更に引き寄せられ、その拍子に肘が湯呑にぶつかった。中身なんて少しも減ってなくて、たっぷり入っていたお茶は見事にテーブルの上で湖を作る。
でも、そんな物を気にする事なんて出来なかった。目の前の男が…弟が……和穂が、余りにも怖すぎて。
「か、和穂…」
「シーちゃんは約束も守らない嘘つきだ」
「ちがっ、」
「じゃあ、僕との約束覚えてる?」
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。そんな俺を見た和穂は、口端だけをクッと持ち上げ笑う。
「言ったはずだよ。諒くんとも、由衣とも仲良くしちゃダメだって。シーちゃんに触らない代わりに、それだけは守ってね、って」
「でも、でもアレは子供の頃の話で‥‥」
「約束破ったら、お仕置きだって僕は言った」
「嫌だっ、和穂‥‥頼むからやめて」
「駄目だよ、シーちゃんが悪い。諒くんでも嫌なのに………………由衣なんか抱きやがって」
低く落とされた和穂の声に、堪えきれず溢れたものが頬を伝ってゆっくり落ちた。
◇
小学四年生の夏、俺は風呂場で諒にイタズラされた。まだ未発達なカラダをひたすらベタベタと触られただけだったが、それでも今考えればアレは一種の性犯罪だったと思う。
でもその時は、諒の手付きに多少違和感があったものの、実の兄にそんな事をされていると言う感覚は無かった。まだまだ性に対して疎かったんだと思う。けどその日の夜、今度はベッドの中で双子の弟に襲われた。
『やっ、なに!? 和穂っ!』
『諒くんとお風呂でしてたでしょ』
何を!? と思っている間に和穂は俺のパジャマのスボンを下ろし、下肢を押さえつけると中心にしゃぶりついた。
『イヤッ! いやっあ、あっ、やだぁっ』
幼いカラダは反応など示さないし、気持ち悪さしか分からない。けど、そんなことは関係無いとばかりに和穂は俺の幼いソレをひたすら舐めた。
その日から、諒と何かある度に和穂は俺に"おしおき"をする様になった。そしてまた、それに比例するように諒の手が俺に伸びる頻度も増えた。
夜が、兄弟が、和穂が…怖くて仕方なくなった。
『うっ、うっ…うぇ、』
『シーちゃん泣かないで』
『いやっ! 和穂なんて嫌い!! うぅっ、』
ある日遂に精神が限界を迎え、俺は和穂にベッドで組み敷かれながらわんわん泣いた。そしたら和穂は真顔になって聞く。
『諒くんは良いのに僕はダメなの?』
『諒くんだってヤダよ!』
『じゃあ、諒くんを止めたら許してくれる? 嫌いなんて言わない?』
『……変なこと、しないなら』
『わかった。でも、シーちゃんも約束してね。諒くんとはもう仲良くしちゃダメだよ。由衣とだってダメ。僕以外と必要以上に仲良くしないで』
『うん』
『絶対だよ。約束やぶったら…酷いからね』
俺は簡単に返事をした。この時はもう、諒の事も怖かったから。二人から逃げられるならなんでも良かった。
だから、逃げることだけを考えた俺はその言葉の重みなんて分かっちゃいなかった。
『うん、約束する』
◇
うつ伏せ、腰だけ高く上げさせられた俺の中で暴れ回る凶器。背中で縛り上げられた腕がヒリヒリと痛み、でもそれ以上に腹の中が熱くて死にそうだった。
絶えず聞こえる粘着質な水音と、肌と肌がぶつかる破裂音にも似たそれ。空気が当たる度にピリピリとする首筋は、微かに血の臭いも漂っているから噛み跡まみれになっているんだろう。
「んっ、ん"っ、ん…あっ! あっ」
「諒くんがダメなんだから、由衣が良いわけないでしょう?」
「あっ、んぁッ、ンぅ…あっ、ああっ、」
「抱かれた訳じゃないにしろ、あんな性悪に先こされるなんて許せないよ」
「ぅあ"ぁ"あっ!? あ"っ、ん"んっ!」
体内から鈍く響くごりゅごりゅとした音に、一番"良いところ"を抉られたのだと知る。だけどそれはそんな生易しい話ではなく、脳天を突き抜ける程の、痛みにも似た快感をもたらした。
「もっ、やぁ"……や、やめっ」
それでも後ろだけではイく事が出来ず、その苦痛にカラダが痺れて痙攣する。俺がぐしゃぐしゃに顔を歪めて泣くと、和穂は後ろからそれを愉しげに覗き込んだ。
「駄目だよシーちゃん。だってここ、僕以外を知ってるみたいだもん」
お仕置き、増やさないとね。
ぐっ、ぐっと腰を深く揺らしうっそりと笑った和穂を目の端に捉え、俺は暑いのに冷や汗をかいた。びくついた身体が中をぎゅっと締め付け、和穂がまた笑う。
一体どうしてこんなことに…?
諒が、和穂が、俺を見ていたのはずっと昔の事だったのに。二人の目にはもう、俺なんて映って無かったはずなのに。今怖いのは由衣だけのはずだったのに。なんで…
今の俺には、答えなんて何一つ分からなかった。
永遠と浮上と沈下を繰り返す中、いつの間にか上がることが出来なくなって暗闇の中に落ちていた。そうしてどれだけ経ったのか、微かな物音と肌寒さに目を開けると、開け放たれた部屋の入口に上代が立っていた。
「上代…」
何とも言えない顔でジッと俺を見ていた。
上代が普通に部屋にいるということは、どうやらもう和穂はここに居ないらしい。目覚めた俺の頭の中は案外冷静だった。
きっと今俺は、酷い格好を晒しているに違いない。
そう思って上代からカラダを隠そうとしても、腕はまだ背中から開放されておらず、うつ伏せから起き上がろうにも困難を強いられた。その上、動こうとする度に水音を立てカラダの中から和穂が溢れ出した。きっと、太ももを伝い落ちるそれも上代には丸見えなんだろう。
ゆっくりと部屋の中に入って来た上代を見上げる。
「ごめん、腕…外して」
酷いものを見せてる自覚がある。申し訳なく思いながら掠れきった声で頼めば、上代が可笑しそうに口角を吊り上げ手から何か床に落とした。
足元に散らばる無数のプラスチック破片。それは、この部屋の外に取り付けらていたはずのネームプレートだった。所々に『上』だとか『希』と言った字が読み取れる。
「やっぱ、キミの兄弟狂ってんね」
先程まで綺麗だったはずの上代の名前は、今は見る影もなく…無残な程粉々に砕かれていた。
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