呪いを完成させた男



「恵に会わせたい人がいるんだよねー」

 俺と津美紀を引き取った軽薄そうな白髪頭が言った。予想もつかなかったが、親に金で売られた事実を子供に言うようなデリカシーのカケラもないやつが会わせたいと言うのだから、ろくでもない相手だろうと思った。

「こんにちは、縁です」

「ソックリでしょ」と言った五条さんには何も言わずに、その人は俺の前にしゃがんで目を合わせて名乗った。

「伏黒、恵」

「めぐみ」と優しい声がゆっくりと俺を呼んで、少し泣きそうな顔で笑った。

「よろしくお願いします、恵くん」

 差し出された手を見た。見慣れない、女の人の手。津美紀とも違う、大人の手。自分の手を差し出すと、そっと大事なものに触るように手を握られた。反対の手も添えられて、俺の手を包むように。「恵が素直に握手するなんてねー」とからかうように五条さんが言った瞬間、俺は息をのんだ。握った手を縁さんは自分のおでこに当てたからだ。まるで祈りを捧げているかのように。まるでなにかを誓っているかのように。

「恵くんとお姉さんのお世話をさせていただきます」

 そっと手をおでこから離すと微笑んだ。そして、片手が俺の頬を包むように触れて、俺の心臓はうるさくなった。初めて会うのに、その目が大好きだと言っているように見えた。今までそんな目を向けられたことなんてなかった俺は、どうしたらいいのか分からなかった。

「恵くん、お姉さんを紹介してくれますか?」

 頷くと、縁さんはゆっくりと俺から五条さんへと顔を向けた。立ち上がった縁さんにまた五条さんが小声で何かを言うと、縁さんは首を振った。それが少し悲しそうに見えて、俺はイラッとして、津美紀の待つ家まで縁さんの手を引いた。縁さんと会った津美紀は嬉しそうで、帰るときには縁さんに「絶対すぐ来てね」と抱きついていた。


「恵くん」

 縁は初めて会ったときに言った通り、俺と津美紀の身の回りの世話をしてくれた。結局関係性が分からず、五条さんの恋人なのか聞くと、ぎょっと目を丸くして「まさか」と首を横に振った。そこで俺の遠い親戚なのだと説明してくれた。どこかうさんくさい五条さんが連れてきた人だけど、俺は縁を信頼できると思った。

「どうしました?」

 縁はお茶を淹れる手を止めた。首を傾げた彼女に俺は言葉を選びながら口を開いた。

「アンタ、禪院なんだろ」

 その名前は五条さんと初めて会ったときに聞いた名前だった。俺を金で買う予定だった家。津美紀を連れて行っても幸せにはなれないと五条さんが言った家。

「禪院に行っても津美紀はしあわせになれないって五条さんが言ってた」
「なれませんね」

 きっぱりと即答しながら、縁は何かを思い出したように俯いた。五条さんの言っていたことは正しかったらしい。「そうか」と呟いた。

「アンタは?」

 俺の質問に驚いたように顔を上げた。なんでそんな質問を投げかけたのか自分でもわからなかった。ただ津美紀が幸せになれない場所にいるこの人は幸せなのか疑問に思った。

「私は、あの家を出たようなものですから」

 苦笑いした相手に俺は、ふーん、と気のない返事をした。その家にいるわけではないらしい。それならいいか、と俺は一人で納得した。すると玄関の開く音が聞こえて「ただいまー」と津美紀の間抜けな声が聞こえた。


「恵」

 最初の頃は毎日のように通っていたが、津美紀が泊まって欲しいと頼むと、縁は泊まるようになった。それからは、三人で暮らしていると言ってもいい状態になった。五条さんと同じ呪術師をしているという縁は、俺たちを寝かしつけてから仕事に出る日が多かった。たまに昼間から仕事だったり、帰ってこない日もあったが、そういう日は事前に俺たちのごはんだけでなく、津美紀の好きなケーキや俺の好きな甘さを控えた甘味を冷蔵庫に用意してくれていた。

「絵本選んだ?今日は津美紀がいないから、二冊選んでいいよ」
「べつに、本くらい、自分でよめるし」

 縁はよく読み聞かせをしてくれる。図書館で本を借りてきたり、本屋で買ってくれたり。しかし、もう三年生になった今では自分で本が読めるし、絵本を読むような年でもない。大人だって絵本読むのよ、と縁は言っていたけど。一緒にいられることは嬉しいし、甘やかそうとしてくれることも嬉しいが、時々恥ずかしさを感じる。

「読んでほしくない?」

 しょんぼりとした縁に「別にそうは言ってない」と慌てて返すと、ぱっと表情を明るくさせる。適当に本棚から二冊選んで渡して、隣に座ると、するりと腕が俺の体を包むように回され、膝の上に乗せられた。

「ちょっ!」
「今日は二人っきりだから、思いっきり甘えていいよ」

 抵抗するために振り返ろうとすると、ふふふ、と嬉しそうに笑うのが見えた。なんで抱っこする側がそんなに嬉しそうなんだよ。重いだろ。そう言いたいのに、その顔を見ると何も言えなくなる。

「おとまり会なんだから明日かえってくるだろ」

 津美紀は泊まりで誕生日会に参加している。だから俺が寂しがると思っているようだった。別に一日くらい居なくたって寂しくなんかならないのに。むしろ寂しいと思っているのは縁の方に見えた。ぎゅっと俺を抱きしめると、右手で俺の頭を撫でる。弓形に目を細めて俺を見る縁は全身で俺を大切に思っていることがわかる。

「足しびれるだろ」

 正座した足の上に俺を乗せている縁に言えば、ふふっと笑った。

「恵は優しいね」

 細長い指が俺の髪を掻いて、額が露わになる。そこに愛おしそうに柔らかい頬が擦り寄る。温かく柔らかい感触に、じわじわと言いようのない感覚を覚える。

「縁」
「なあに?」

 縁と生活し始めてからだ。時々どうしたらいいのかわからなくなる。全身で愛していると言われているような感覚だ。あたたかくて包まれるような感覚に、息が出来なくなる。初めて向けられる深い愛情に俺は戸惑うしかなかった。
 両親のことはほとんど覚えていない。母親がまだ生きていたら、こんな風に大切にしてもらえたのだろうか。縁は自分の母親には若すぎるけれど、与えられるそれは小説で読む家族の日常のそれだと思った。

「絵本、よんでくれんだろ」
「もちろん」

 自分がぶっきらぼうになにか言っても、優しく返してくれる。なぜこんな自分にそんな深い愛情を向けてくれるのかはわからないまま。元来疑い深いはずの自分が、その愛情が自分へまっすぐ向けられていることは今では疑いようもなかった。


「恵」

 中学に入って、色んなやつと喧嘩して、津美紀は口うるさくなった。学校からの呼び出しも少なくない。縁が保護者として学校と対応してくれた。面談が終わり校門を出ると、五条さんが立っていた。五条さんがヘラヘラ笑って「元気だねー」なんて言うのは予想の範疇だったが、縁も俺をあまり怒らなかったのは意外だった。

「無駄に怪我をさせるのは良くない」

 やっぱり、と反抗心が込み上げ始め、口元に力が入った瞬間。

「一撃で相手を戦意喪失させるのが効率的だよ。非術師相手なんだし、むしろ一撃で戦意喪失させられるようにならないと」

 真面目な顔で言われた言葉に、俺はギョッとし、五条さんはブッと吹き出した。数分前は相手の親に頭を下げていたのに、縁の口から出てきたのは俺の行動を肯定するようなものだった。ゲラゲラ笑い出した五条さんを縁は「なんでそんな笑うんです」と不満そうに見た。

「あー、面白い。さすがだね」

 普通は怒るだろ、と言うと縁は、何を言っているのか、と言いたげな顔で俺を見上げた。

「恵は理由もなく人を殴ったりしないでしょう」

その言葉に俺は、は、と息を吐いた。

「恵、帰ろう」

 じわじわと腹の奥に感じるあたたかい感覚に支配されて、差し出された手に自然と手が伸びた。大きく柔らかい手は、いつの間にか小さくなっていた。中学生にもなって手を繋ぐ親子なんていない、と普段ならその手を取ることはなかっただろう。特にいつも揶揄ってくる五条さんの前では。それでも、この日はその手の優しさに触れていたかった。



「恵!」

 領域から出ると同時に窓から投げ出され、亡霊と紹介された男に圧倒され奥歯を噛み「どうするかな」と呟いたとき、いつの間にか目の前に見知った背中があった。「縁」と腕から血を流している背中を呼ぶと、突然男の纏う空気が変わった。

「オマエ、名前は?」

 男の問いかけを不思議に思いながらも名乗ろうとすると、男は笑った。

「禪院じゃねえのか。よかったな」

 ふと視線が俺からずれる。

「やっぱりオマエはいい女だな」

 低い声は愛を囁くような甘さを含んでいた。同時に尖った呪具をこめかみに突き立て、自分の命を自ら放棄した。あまりにも不釣り合いな言動に狼狽する。自害した男の隣に片膝をつくと、先程まで戦っていた黒髪の男とは別人が地面に倒れている。

「縁」

 微動だにしなかった縁を見上げると、その視線は倒れた男から俺へ移った。「今のは」と俺が呟くと、はらりと涙が縁の片目から零れた。

「亡霊だよ」

 立ち上がって、その頬を包むように右手を伸ばした。涙を親指で拭う。縁が泣くのを見るのは初めてだった。そっと目を閉じた縁は自分の手を俺の手の上に重ねた。あいしてる。唇が音もなく震えたように見えた。



2022/03/08
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