目を開く。現れるのは深紫の瞳。昼前の空が見えるのは、夜勤明けだからだ。
「――――っ、」
額に滲んだ冷汗を拭い、強張る身体をなんとか動かし、布団から起き上がる。
先日、浦原隊長と昼ご飯を食べた。その日は朝から楽しみなような、億劫なような複雑な気分で過ごした。昼前に身支度を済ませて、わざわざ具象化してまで心配してきた『薄紅葵』へ礼を言って部屋を出たような気がする。…記憶があまりない。
正直、自分でも大丈夫だろうかという不安はあった。喜多の兄とは言え、相手は男である。二人きりで食事をしてちゃんと食べ物が喉を通るか心配ではあるし、万一浦原隊長を殴るようなことがあってはいけない。…そう思っていたのに、失礼なことをしてしまった。
途中までは普通に楽しかったのに。
『離してください、』
鈍色の記憶がよぎる。先ほどまで見ていた悪夢が蘇るが、頭を振って霧散させた。
――――違う、違う。
室内は程よく温かいのに、身体は氷のように冷たかった。
夜、場所は浦原兄妹の住む宿舎の一室。
喜助はようやく、喜多に相談したいことがあると言った。(購入品であるが)夕食を準備して彼女の機嫌を取った状態にしたとはいえ、話題が話題なので彼女の殺意が高い。
「早く話してよ。どうせ杜屋ちゃんなんでしょう?どんな話であれ最終的には殴るんだから早く言え」
――――喜多チャン、ボクの今生に救いが無さすぎでは?
どうしようか。このままこの案件を話したら…と最悪の想定がよぎるが、制裁からはどうやっても逃れられないので、諦めて話し始める。
「その…怖がらせちゃったんス」
「は???」
「待って待って待って!話を聞いてから処刑っスよ?!訳が分からなくて困ってるんスから!」
かくかくしかじか、状況の説明をする。喜多チャンは目をぎらつかせつつもそれを静かに聴いて――――勢いよくボクの襟首を掴んだ。
「ウガァ!!」
「それは脳内お花畑な女の子じゃないなら誰だって怖がる!分かってるお兄ちゃん?上背もあってガタイも良い男が華奢で小さい女の子の腕をとったら捻り潰されるかもって恐怖を抱くのは当然!怖がらないのは私とか夜一さんとかみたいな一部であって、杜屋ちゃんみたいな普通の女の子の話じゃないんだぞ!」
「それはそっスね………でも、気になるのはまだあって」
「ああ?!」
「どうしてあんな…なんて言うのか、刷り込まれたような、昔からそうだったような怖がり方をするのか分からないんスよ。うまく言えないけれど、あれは確かにその瞬間の恐怖じゃなくて、経験して何度も反芻した感じの恐怖?な気がしてですね」
虚を突かれたかのように喜多チャンが黙り込む。掴まれた襟首はそのままだが、それでも力が抜かれていく。
「………私も詳しくは知らない。でも昔、嫌な目にあったことはあるみたい。異性とふたりきりみたいな状況、四番隊ですらあまりなりたくないみたいだから」
まあ、うちの隊でそういうような状況、ほとんど無いけどさ…。ぼやくような発言と共に襟首を掴んでいた手が離された。
「それでも、卯ノ花隊長以下上層部がそうさせないってのもあるんだ。四番隊初日の件もあったし、何より杜屋ちゃんに言い寄る男の多さは尋常じゃないから」
診療のときだって、非常時以外なら基本杜屋ちゃんフィルタで弾かれた人は彼女に回さないようにしている――――そんな状態であったことを聞いて驚く。…そこまでの美人だったか。
「そんな彼女と二人でご飯行っちゃったんスけど」
「しばらく背後に気を付けた方がいいよ」
「うへェ…」
何だかとんでもない事案に首を突っ込んだかもしれない。だが、そんなことは大した問題ではない。それよりも大切なのは、彼女なのだから。
「杜屋サンと仲直り、というか、謝罪はしたいっス。でも、これ以上怖がらせるのも、ちょっと」
「…お兄ちゃん、最近杜屋ちゃんと顔合わせてる?」
言われれば、全く、顔どころか姿すら見かけていない。休憩時間に四番隊舎近辺の飲食店へ足を運ぶが、すれ違うことも無かった。
頭から血の気が引いていく。喜多チャンが「あっ(察し)」みたいな表情になる。
「嫌われてる………」
「まあさ、何とか会話をしてもらえるまで追いかけるしかないんじゃない?」
「喜多チャンなかなかのストーカー思考っスね?」
「でもそうじゃん。伝えたいならちゃんと言葉にして本人に言わないと始まらないし。杜屋ちゃんは優しいから、こちらがふざけてなかったら誠心誠意応えてくれるよ」
少なくとも誰かを経由してどうこうしようとした瞬間、心の扉閉め切るから。
確かに、そうなる気がする。
「頑張るっス」
全く手をつけていなかった夕食をかき込む。彼女と友好的関係でいたいことは真実だ。それを分かってもらえるように、頑張らねばならない。