コトノハ


本編



小野寺雫は、地味な少女であるけれど、真面目かと問われれば決してそうではない。
もしも彼女が真面目な少女であるというのであれば、教師からあれほど禁止だと言われている学校の屋上に忍び込み、昼食を食べるなんてことはしないし、それを毎日行うということは、勿論在り得ない。
しかしながら彼女は、毎日毎日、屋上へ足しげく通い、自分で作った手作りの弁当に箸を伸ばす。
校庭で遊ぶ生徒の笑い声が、風に乗って聞こえて来る。
侵入を禁止されたこの空間は、学校という世界の中でも少し隔たれた特殊な場所で。そんな小さな世界を独占出来ることに対する、ほんの少しの優越感。
それに、快感に等しい何かを感じているのだから、やはり彼女は、真面目で品行方正な少女とは程遠い。
真面目で品行方正な少女といえば。
そう、同じクラスの、あの少女がピッタリだろう。
膝上数センチの、長すぎず短過ぎずのスカートで。ふくらはぎまで覆われた白いソックス。腰まで伸びた、黒く真っ直ぐな髪。
成績優秀でクラスの人間からも教師からも一目置かれていて、しかもお家柄も良いという。
そんな、完璧とも言える少女が、雫と同じクラスに存在していた。

「あ……」

そして、その完璧とも言える少女は、今、目の前で、屋上の柵を乗り越えて、校庭を見下ろしていたのだった。


― コトノハ ―
第一葉 小野寺雫と小鳥遊鶫


上履きを丁寧に揃えて置き、白いソックスの裏を汚しながら、彼女は屋上で一人立っていた。
それがただ、普通に立っているだけなのであれば、きっと絵になったであろう。
けれど彼女の身体は柵の向こうにあって、彼女の気まぐれで、その身体は屋上から真っ逆さまに落ちていってしまうということは想像に容易い。
何故彼女が此処にいるのか。
そもそも何故あんなところにいるのか。
雫の中に多くの疑問が渦巻き、ぱくぱくと口を動かしながら、なんとか言葉として吐き出されたのは

「あ、あの、危ない、よ……?」

この、なんとも頼りない、弱々しい声のものであった。
けれど、そんな声でも彼女は気付いてくれたらしい。
少女がくるりと振り向けば、風になびいて、腰まで伸びた黒い髪がふわりと揺れる。
大きな瞳に宿るのは、エメラルドを連想させる黄緑色。白い肌にはシミやニキビといった、余分な存在は一つもなく、つるりと陶器のようになめらかだ。
ふっくらとしたさくらんぼ色の唇。その両端を持ち上げて、彼女の顔は綺麗な笑顔を作り上げる。

「うん。知ってる。」

そう言って、クラスの人気者の優等生、小鳥遊鶫は小鳥が囀るような愛らしい声で返事を返した。
その笑顔は、教室でよく見かけた、クラスメイトに向けるよくある笑顔。
とても美しく、綺麗な笑顔であるはずなのに、屋上の柵の向こうにいる彼女のその立ち位置が、綺麗な笑顔を異質のものへと変えている。

「時々ね、こうして、校庭を見下ろすの。人がゴミみたいなだなぁって思うけど、それと同じように、此処から落ちたら死ぬのかなぁ、死ぬってどんな感じかなぁ、って、よく考えるの。」

でも、と、鶫はこちらの返事を待たず、饒舌に言葉を綴っていく。
教室でよく見かける彼女は、もっと静かでお淑やかな印象であったから、これは、少し、否、かなり意外過ぎる一面であった。
少なくとも、彼女に想いを寄せている男子生徒には決して見せられないものだろう。

「私は死なないわ。死ねないという方が正しいのかしら?だって、死ぬのはとても痛いしとても怖いもの。わざわざ自分から死ぬことが出来るのというのなら、それはとっても勇気のある人か、うっかり死んでしまったおバカさんか、その二択だと思うわ。」

それは自殺を試みようとした人たちに対してあまりにも失礼ではないか。
そう言いたいのはやまやまだが、彼女は柵に身体を預けたまま、右足を持ち上げてぷらぷらと外に放り出している。
バランスを崩せば落ちてもおかしくはないものだ。
いつ落ちるか、どうしたら戻って来るか、そんなことばかり考えてしまって、彼女の発言一つ一つに突っ込んでいる余裕はない。

「人って、何故、死にたいって思うのかしらね。死ぬ必要なんてないのに。だって、その理由はきっと、人生において些細なものよ。解決する手段はきっとたくさんある。ただ、死ぬよりも己のプライドが崩れるのが早いだけかもしれないけれど。泥水を啜って生きるよりは、確かに死ぬ方が楽だなぁって私も思う。死にたくても死ねない人ってたくさんいるでしょうし。もし、死ねない人が死ぬのを助けてくれる人がいたら、とても素敵な人だなぁって私は思うの。」
「……意外。」
「意外?私が?嗚呼、そっか。あなたは教室での私しか知らないものね。」

カシャン、と音を立てて、彼女は身軽な動きで柵を乗り越え、雫の目の前へとやって来る。
こんな身軽な動きが出来るのだから、運動も得意なのだろう。そういえば、体育でも彼女は常にクラスの中心にいたな、と思い返す。
黄緑色の瞳はきらきらと輝いていて、やはり彼女は、こうして間近で見ても、綺麗な人だと、そう、思った。
それと同時に、思う。
クラスでも常に隅っこにいるような自分が、中心で輝いている彼女とこんな近くになって話すことなんて初めてだったから、夢みたいだ、と。

「人間、心も身体も綺麗なんて、そう簡単にはいないものよ。特に学校なんて小さな世界で無難に生き残るには、綺麗な心のままではいられない。それは会社でもそうなのでしょうね。人間、社会の渦で生き残るには、多少、汚い心というか、そう、狡い心を持たなければ駄目なのよ。女は特にそう。表面上は仲が良くても、裏では悪口や罵り合いのオンパレードよ。こんなどろどろしたパレードじゃ、イルミネーションも腐りきっているでしょうね。だから、この小さな社会に上手く溶け込めない人は、相当どんくさいか、要領が悪いか、心が綺麗か、そのどれかかしら?」

今、遠回しに自分がどんくさくて要領が悪いと、莫迦にされた気がする。

「あら、それは違うわ。小野寺雫。私、あなたはとても心が綺麗な人だと思うの。」

彼女は人の心を読む力でも持っているのだろうか。
にこり、と柔らかく微笑みながら、鶫は雫の手を優しく取る。その手は少し冷たくて、それは春の風に吹かれていた故なのか、元々彼女が低体温故なのか。
しかし、彼女の手は冷たいというのに、こちらの身体は、どうしてだろうか、熱くなるばかりなのだ。
心臓の鼓動も少しずつ早まっていく。
何故だろう。何故だろう。疑問ばかりが、雫の心の中に過っていた。
しかし、雫の胸の高鳴りなど知らぬ存ぜぬの顔で、鶫はにこにこと、その愛らしい笑みを雫に向けている。
教室では見たことのない笑み。
けれど、その笑みは、学校で見かけた彼女のどの顔よりも活き活きとしていて、愛おしくて、そう思ったと同時に、また更に、心臓がどきりと跳ねた。
そして、はたと我に返る。
そういえば彼女は、自分の名を、呼んだような。

「……私の、名前。」
「あら、クラスメイトの名前は知っていて当たり前でしょう?」

彼女の言うことは最もだ。
けれど、雫はクラスに馴染めているかと言えば、決してそうではない。
教室では教師に指名されることも殆どなく、席替えの度に何故か隅になるため、窓際で外を眺めぼうっとしながら過ごすことが殆どだ。
更に言えば、二人組を組んで行わなければいけない競技が多いこの授業は、雫が体育を苦手とさせるには十分で、常に見学をしている程。
虐められているという訳ではない。嫌われているという訳でもない。けれど、決して好かれてはいない。
それが小野寺雫の、この学校という小さな社会の枠組みでの役割で、そんな彼女の名前を、うっかり忘れるクラスメイトに対しても、怒りなんて抱く訳がない。
寧ろ、名前を憶えている人間の方が、ずっと珍しい。
小鳥遊鶫のような、クラスの誰からも愛される人間であれば、自分のような、隅っこにいる地味で影に等しい人間なんて、視界に入っていることもないだろう。そう思っていた。
故に、意外だったのだ。
「小野寺雫」という人間の名を覚え、認識しているという事実に。

「それとも、あなたは私の名を覚えていないのかしら?」

鶫は少し不服そうに頬を膨らませる。
雫は慌てて、首を勢いよく横に何度も振った。

「ち、違う。知ってる。……だって、小鳥遊鶫さんは、クラス委員をしているし、皆から人気で、先生からも信頼されてて、クラスの中心人物。だから。でも、私は、教室でも目立たなくて、知ってる人の方が珍しいというか、だから、その。」
「あら、褒めてくださるの?嬉しい。でも、私はクラスの人気者なんて、そんな大層なものではないわ。私もあなたと同じ。“本当のお友達”は、いないの。」
「本当の、友達?」
「ええ。本当の友達。」

だから。そう言って、鶫は少し力強く、雫の手を握る。
決して痛む訳ではないその力のこもった手は、先程よりも、温かいような、熱を持っているような、そんな気がした。

「私と、本当のお友達になって欲しいんです。」

それは、高校二年生の、桜が散り始めた昼休み時。
クラスの隅にいるだけの少女が、クラスの中心人物から、本当の友人になって欲しいと言われた日。
小野寺雫と小鳥遊鶫が言葉を交えた日であった。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -