契約の紡


本編



「聞いていいか、楠。」

穹集は静かに問いかける。
楠は穹集と目を合わせることなく、何だ、とだけ返事を返した。
直接顔を水とも、彼が少し笑っているというのは、声色だけで判別がつく。

「お前はやけに、私の分身に肩入れしていたな。余程可愛く思えてしまったか?」
「莫迦者。そういう目では見ていない。ただ、あの何も知らぬ無垢な目を見て、思い出しただけだ。」
「おや、思い出したとは、何だ?」
「……さて、遠い昔のことだ。」

そう言って、楠は目を閉じる。
その仕草が会話を終了させる合図だったかのように、穹集も、楠に対して何も言わなくなった。
思い出した。そう語る程度には、脳裏に残っている記憶。
けれど、今、楠が口にしたところで、彼を傾げるだけなのだろう。

(昔のお前を思い出していた、なんて言っても、お前の中にはもう昔なんてないのだから。)

そんなことを思っていると、穹集は、なぁなぁと楠に声をかける。

「なぁ楠。理想郷とは、何だろうな。」
「さぁ。何故、そのようなことを?」

穹集の質問に、楠は疑問を持つように投げかける。
すると穹集は、屈託のない無垢な笑顔で、燕とよく似た笑顔で、笑った。

「約束したんだ。誰としたかは忘れたけれど、理想郷を創るって。」


第五十二結 : 旅立ち


天気は晴れ。
空は澄み渡るような青空で、海の波も比較的穏やか。絶交の航海日和であった。
申し訳程度の小さな波に揺られてぐらぐら揺れる小舟を見ながら潮の香りを堪能していると、そんな彼の名を呼ぶ男の声が聞こえる。

「燕。もう身支度は整ったのか?」
「氷雨!」

いくつかの荷物が入った袋を抱えた氷雨は、船にその荷物を抱えながら声をかける。
身支度とは言っても、燕の荷物はこの地に辿り着いた前後と比べてそう増えていない。増えたと言えば、愁礼から貰った刀くらいだろう。
寧ろ身支度に困っていたのは氷雨の方で、やれ食料だの水だのを見繕い過ぎて、危うく船が沈没しかけたのだから危なっかしくてかなわない。
次に運ばれたこの荷物程度で船が沈まないその様子から、大方水流に確認をしてもらい、最低限の荷物だけにまとめたのだろう。
少し疲れたような顔をしている水流の顔が、それを物語っていた。

「水流殿。すみません。食料まで用意していただいて、それだけじゃなく、他にも色々一緒に考えていただいたようで……」
「いいのよ、これくらい。寧ろ、私たちが出来ることなんてこれくらいだし。まぁ、氷雨は少々心配性みたいだけれど……思いやりのある従者を持てて幸せね、と言うべきか、あんな心配性な従者じゃあなたも苦労しそうね、と言うべきか……恐らく両方かしら?」
「あ、あはは」

そう言って燕は苦い笑いを返すしかない。
確かに氷雨は心配性で、それは季風地に来る前もそうで、この短い期間の旅を経た後も、変わる気配はない。
きっとこれは死んでも変わらないだろう。
彼の心配性とは、後数十年付き合っていくしかない。

「でも、この旅を続けている限り、私と彼は従者である前に兄弟でもありますから。もう少し、あの心配性な片割れとの旅を楽しみたいと思いますよ。」
「もう、次の目的地は決めたの?」
「はい。まずは渓雲地(ケイウンチ)へ向かおうと思います。」
「あそこは季風地と違って、鬼が多く住む土地よ。こちらで出会った鬼たちとは違って性格も温和だとは聞くけれど……大丈夫かしら?」
「だからこそ、です。私は、ずっと思ってたんです。これでいいのかな、って。確かに、私たちが倒したのは、人を殺すことを楽しむような、凶悪な鬼や妖ばかりでした。けど、全部が全部そうかと言えば、やっぱり違うと思うです。妖を生み出すきっかけになったのが悪い人間であるように、人間だって、いい人や、悪い人がいます。妖や鬼は悪い存在だと一括りに決めつけたまま、私は空然地へ帰りたくない。もっと、広い視野を持つ為にも、世界を知りたいと思ったんです。」

燕たちは、季風地を後にすることにした。
けれど、それは空然地へ戻るためではない。新たな地へと向かうための旅立ちであった。
季風地から渓雲地の距離は短いし、船旅でもそう時間はかからない。
渓雲地も季風地と同様、元来一族の長が土地を自治していて、季風地よりも現在は安定しているという話だから、二人きりで旅をするにはもってこいだろう。

「ごめんなさいね、見送りが私だけで。村長たちはそれぞれの村のことに今後専念しなければいけないし、朱鷺たちも、その手助けに行っているから。」
「そんなことないです。村の方が、大事ですから。水流殿が来てくれただけでも、すごく嬉しいですよ。お忙しいところ、ありがとうございます。」

燕はそう言って、水流に軽く頭を下げる。そんな燕と、船の準備をしている氷雨を、水流は交互に眺めた。
寂しくなるわね、と、水流は小さく呟く。

「あなたは少し危なっかしかったけれど、それでも、瞳も魂も、全てが真っ直ぐで、一緒に居て、楽しかったわ。」
「私もです。水流殿や朱鷺殿、蛇養殿、兎月殿、……それに、みんな。当然、楽しいことばかりではありませんでした。辛いことや苦しいことも、痛いこともあったけれど、でも、みんなに会えて、本当によかったと思います。」
「あなたのような真っ直ぐな人が、神子でよかった。いえ、神子である前に、友人で、とてもよかった。」
「水流殿……」
「気を付けて。渓雲地だって、きっと楽しいだけの旅じゃないわ。今後もそう。長い家出には、リスクが付きものよ。」
「覚悟の上です。いずれ、一度は空然地へ戻る予定ですよ。長期間、屋敷を空けて良い身分ではないということは、重々承知していますから。けれど、今、このままのこのこ帰るだけじゃ駄目だと思うんです。世界のためにも、空高のためにも、そして、私自身のためにも。」

世界を知らないまま、神子なんて出来ない。
世界を知らないまま、神の分身なんて名乗れない。
あのまま、何も知らないまま、一族の人間に言われるがまま、屋敷の中で過ごしているだけでは見えなかったもの。触れられなかったもの。感じられなかったもの。
燕にとって、それが、溢れかえるほどたくさんあった。
だからこそ、本来ならばいけないこととはわかってはいるけれど、燕は、空然地へは戻らないという結論を出した。

「いつか、空然地へ戻ったら、きちんと、この世界のことについて、考え直したいと思うんです。」

季風地で起きた惨劇は、閉鎖的な環境は生み出したが故の悲劇であった。
己とは異なる者を排除する。
そんな人間といて、当たり前にも等しい悲しい考えがあったからこそ、琥白は殺され、白鼬という妖を生み出してしまった。
他の妖たちだって、人間の身勝手な感情の被害者だ。
もしもっと、己と異なるものを受け入れることが出来たなら。手を取り合って、協力し合う道を探ることが出来たならば。
こんな悲しいことが起きることはなかっただろう。
そしてそれは、この世界全体にも言えることで。

「私は、季風地のことを、噂程度でしか知らなかった。」
「そうね。私たちも、このことは自分たちの問題だからと、あまり、公言しなかったもの。」
「でも、それがよくないのだと思うんです。我々は互いを知るべきです。そして、手を取り合って、よりよくしていくべきなんです。理想論であるというのは、百も承知ですが。」
「確かに理想論かもしれない。けれど、間違ってはいないわ。だって、あなたがこの季風地へ来なければ、現状は、全く変わらなかったかもしれない。……特に、桜楽や宋芭のことについては、手遅れになっていたかもしれないもの。」
「助けてほしいときには助けてと言える世界を、助けてと言えば、皆が手を差し伸べて助けてくれるような、そんな優しい世界が、私にとっての理想郷ですから。」
「……理想郷?」
「ふふ、なんでもありません。」

そう言って、燕が笑うと、つられてなのか、水流も共に微笑んだ。
海風が吹けば、彼女の、海と同じ透き通るような青い髪がふわりと揺れる。
もうすぐ船を出さねばならない。
そうしなければ、そろそろ季風地へ向けて、空高の捜索部隊が来てしまうだろう。
それよりも前に、この地を去らなければ、せっかくの旅立ちも台無しになってしまうに違いない。

「燕。」

水流はそう言って、手を差し伸べる。
その差し伸べる手が何を意味するか察した燕は、己の手も差し出して、その細く白い手を握り締めた。
雪のような白い手は、春の陽気のように温かい。

「また、会いましょう。」
「はい。また。」

互いに、少し名残惜しそうに手を離せば、燕はくるりと水流に背を向け、氷雨の待つ船へと向かう。
荷物を積み、氷雨の乗っている船に燕が身体を預ければ、船は少し揺れたけれども、沈むことなく、しっかりと海の上に浮いていた。

「行くぞ。」
「はい。」

氷雨の声に頷くと、船と陸地とを結んでいた縄がゆっくりと解かれる。
海の波に乗って船がガタンと動き出せば、船は、季風地を、水流たちの元を、離れ始める。
手を振る水流に、燕は、大きく手を振り返す。
水流の姿がだんだん小さくなっていき、彼女が見えなくなっても、燕はずっと、手を振り続けていた。

「氷雨。」
「何だ?」
「楽しかったですね。もちろん、楽しいだけじゃなかったし、苦しいことの方が多かった。見たくないものもみた。こんな言い方、不謹慎なのはわかっている。けれど私は、楽しかった。」
「……私もだ。お前のそんな活き活きとした顔、屋敷では見れなかったからな。」

氷雨が言葉を返せば、燕は、嬉しそうに、少し頬を赤らめて微笑む。
氷雨、氷雨、と、燕は少し甘えるように、氷雨へとすり寄った。
氷雨はかなりの心配性ではあるけれども、それと同じくらい、燕も、甘えん坊なのだ。

「氷雨。行きましょう。二人一緒なら、きっと何処へだって行けますよ。」
「そうだな。世界の果て、なんていうのもありかもな。」
「ありですね!」

船はゆっくり動いている。
新しい目的地へ向かって。
けれど今は、この船さえあれば、二人が揃えば、何も怖くないと、何処へだって行けると、確かに、そう思えたのだ。
そして二人の旅路、その終焉には、未来に向けて、何かが紡がれることだろう。








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