契約の紡


本編



ある日突然、滝の水量が減った。
いつもと異なる光景に、宇姫は不思議そうに、掛気へ問いかける。どうして滝の水量が少ないのかと。
そう問うと、掛気は少し困ったような顔をして、頬をかきながら笑った。

「どうしてだろうなぁ。最近雨が少なかったから、そのせいかな。」

その時、掛気は一つ、嘘をついた。
本当はわかっていた。何故、滝の水量が減っているのか。
それは、この滝の上にある川が、少しずつ、塞がり始めているから。東の村をよりよくするために、畑を耕すために、水が必要なのだと村人たちが言っていたのを、掛気は聞いていた。
掛気は、この滝の恩恵故に生まれた精霊。
村人たちが畑の水を引くために川の流れを変えれば、此処はいつか、水が完全に流れなくなるだろう。滝はなくなり、此処はただの崖になり、水は干からび、掛気という滝の精霊は、実体を保てなくなり姿を消すことになるだろう。
それは、精霊にとって「死」を意味する。
けれど、掛気はそれを受け入れた。
人間がよりよく生きていくために、この季風地の何処よりも澄んでいる水が使われるというのであれば、本望だ。
精霊は自然と共にあり、自然は生と共にある。
生ある限り自然は移ろい、在ったものがなくなり、新しいものが創られることも、ある。
これは全て自然の摂理だ。
だから掛気は全てを受け入れていたし、村がよくなれば、きっと、人々にとっても、宇姫にとっても、生きやすい世界になるだろうと、この状況を歓迎すらしていた。
だから、掛気はわからなかった。
自分が消えることで、宇姫がどうなるかを。
まだ若いとはいえ、宇姫ももう、大きくなった。自分なしでも生きられる。掛気という親代わりは、もう、必要ないだろうと、掛気は、そう思っていた。
掛気はあくまで、精霊だから。人為らざる者だから。
孤独の寂しさも、大切な人を第三者から奪われた時の怒りも、憎しみも、悲しみも、知ることが出来なかった。
故に、孤独な鬼が一人、生まれてしまったのである。

「俺はもう、自然の環から零れ落ちた。もう、精霊としての実態を保つことは出来ないし、俺自身のこの意思さえ、曖昧で、おぼろげで、幽霊のような、ただの思念という概念だ。」

掛気には、もう、肉体はない。
手を伸ばすことも出来ないし、走ることも、話すことも、何をすることもかなわない。
けれど、もしも叶うならと、掛気は願う。

「宇姫を、頼む。」

水を操り、駆ける、龍と同化した青年の背を見つめながら、掛気は、静かに願ったのだった。


第三十五結 : 泣き虫鬼と滝の精霊 其の四


胸が、ひどく熱く感じた。
それは胸から溢れる赤い水のせいなのか、それとも、この胸を貫く、鋼のように硬い鱗から伝わる人の熱のせいなのか。
恐らくその両方なのだろうと、ぼうっとした意識の中、宇姫は一人、考えていた。
こんな時でも涙は止まらないもので、視界はじんわりと滲んでよく見えない。一度瞬きをして、瞳に溜まっていた雫を零してみると、視界が先程よりもずっと鮮明になった。
碧い髪の村長は、何故かとても苦しそうな顔をしてこちらを見ている。
苦しいのはこっちだというのに。
呼吸をしようと口を開いても、その大きな手が肺まで壊してしまったのか、ひゅーひゅーという音を立てて、空気が逆に漏れて逝く一方だ。
自分はこのまま死ぬのだろうと、何処か、他人事のように考えてしまう。

(嗚呼、結局、敵は討てなかったな。)

そんなことを考えて、目を閉じれば、記憶の中にいるあの人の背中が浮かぶ。
掛気を奪った者たちへの復讐も、それによる掛気の仇討ちも、全てが全て、かなわぬ夢となってしまった。否、そもそも、敵なんて何処にもいなかったのだ。
確かに、掛気を奪ったのは村の人間だ。
けれど、自然と共に生まれる精霊は、自然と共に生き、自然と共に消えてゆく。掛気から教わったことだが、彼の言う通り、生命が生き、環境が変わり、移ろい、また、命が移ろうのも、当然のことで。
きっと、掛気はわかっていた。
自然の移ろいも、そして、己の死も。
もし彼がわかっていなかったことがあるとすれば、宇姫が、いかに掛気に依存して、縋っていたかということくらいだろう。
宇姫は、自嘲染みた笑みを浮かべる。否、笑みを浮かべられているかどうかすらわからない。既に身体の感覚はないし、指を動かしてみようとしても、ぴくりとも動いてくれないのだから。

(全部、僕の独り善がりだ。)

独りぼっちが寂しくて。苦しくて。また独りになるのが嫌で。
それを紛らわせるために、全部が全部を憎んで、恨んで、掛気を奪った村人たちに矛先を向けて、黒い感情に従うがままに、暴れて、暴れて。
得られたものは何もない。
しかし、宇姫は満足していた。
ようやく全てを終えられるということに。もう何も恨む必要がなければ、悲しむ必要はない。泣いてばかりの鬼としての生を、ようやく終えることが出来る。
そう思うと、ほっとしている自分がいた。

(掛気さん。掛気さん、掛気さん、掛気さん……。)

口を、開こうと、言葉を発しようと、試みる。
全身の力が抜けて、だらんと、口は開けられているけれども、言葉は零れ落ちることがない。
それでも、宇姫は、心の中で、声を発した。

『悪い子で、ごめんなさい。』

胸を貫かれ、事切れた宇姫の身体から、宋芭はゆっくりと自身の腕を引き抜いた。
どろりと粘り気のある真っ赤な液体が腕にこびり付いていて、その鉄の臭いに顔をしかめながら、腕を振り、赤い液体を払う。
涙を流し、虚空を見つめたままの亡骸を地面に寝かせると、その冷たくなった身体は次第に水のように透き通っていき、パシャン、と音を立てて弾け散った。
その場に残されたのは水溜まりだけで、まるで、彼が水に還ったような、帰るべき場所に帰れたような、そんなように思えてならない。
否、そうであって欲しいと、宋芭は、静かに願う。

「そうだ、珊瑚……」

宋芭は背中を預けていた部下のことを思い出し、振り向く。
珊瑚は、刀を握り締めたまま、呆然と、立ち尽くしていた。
そして彼の足元には、両手に短刀を握り締めたまま横たわる、鬼四兄弟末弟の姿。
一見すると、珊瑚が溺を倒したかのように見えるけれども、驚愕と戸惑いに溢れたその表情が、彼が意図して倒した訳ではないということを証明していた。

「珊瑚、どうした。」
「宋芭さん……」

宋芭は珊瑚の元へと向かうと、右手を人間のそれに戻して、珊瑚の足元に倒れる溺に触れる。
身体は冷たく、首に手を添えたところで脈もなく、それが死体であるということがすぐにわかった。
けれど、妙だ、と宋芭は思う。
その身体は、冷たい。否、冷たすぎるのだ。いくら死体とはいえ、死んだばかりであればまだそれなりの温もりというものが残っているはずで、しかしこの死体は、死んでから相当の時間が経過しているかのような、それ程までに、冷たかったのだ。

「宋芭さん、これ。」

そう言って、珊瑚が示したのは、溺の右側頭部から生えている黒い角。
パキン、と音がしたかと思うと、黒い角には徐々にヒビが入り、みるみる砕け散ったのだ。
鬼の角が壊れるのを初めて目の当たりにした二人は、呆然と、その様子を見つめてしまう。
一体何が起きたのだろう。
そう思っていると、聞きなれた声が響いた。

「宋芭殿!珊瑚殿!」

二人が顔をあげると、そこには、燕の姿があった。
宋芭と珊瑚の無事を確認してほっと胸を撫で下ろした燕は、ふわりと身軽な動きで珊瑚たちの前に降り立つ。
その後に、氷雨も続いて降りて来た。
燕と氷雨の衣は、所々、土で汚れていた。赤い血のようなものがこびり付いている箇所もあり、宋芭たちの元へ着く前に、戦闘があったのだと推測できる。

「何があった?」

宋芭が問いかけると、氷雨が口を開いた。

「鬼の兄弟は、倒した。もう、東の地をこれ以上攻め入る者はいないだろう。」
「鬼を倒したって……でも、末っ子はこっちに居たんだぞ?もしかして、急にこいつが死んだのは、何か関係があるのか?」

珊瑚が問いかければ、燕は、静かに頷く。
そして、神妙な面持ちで、呟いた。

「……その方は、いえ、その方たちは、元々、死んでいたんです。」

と。

 


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