契約の紡


本編



シャラン、シャランと、頭に付けた髪飾りを鳴らしながら、男は山の周囲を彷徨っていた。
一歩、一歩、空中で足を踏みしめて、空の上を歩いている。
長く白い髪を漂わせ、翡翠の瞳で、灯る炎を視界に捉えた。
その炎の周囲には、妖の気配は存在しない。
ひとまず、朝までは大丈夫だろう。

「……ごめんなさい。」

小さく口を開けて、男は呟く。
こんなつもりではなかったのだ。
誰も、誰も死んでほしくなかったのだ。
恨みを、嘆きを、憎しみを抱きながら、命を散らしてしまうのは、とても大事なことだから。
その命を、どうにかして、繋ぎとめて欲しかったから。

「……こんなことになるなんて、思わなかったんだ。」

男は袖で顔を覆い、誰にも見られぬように、見つからぬように、ひっそりと、静かに涙を流していた。


第十九結 : 楠という男。


「私はな、理想郷を創ろうとしたんだよ。」

楠という男の話は、そんな言葉から始まった。
誰も苦しまなくていい、誰も嘆かなくてもいい、ずっとずっと、幸せに生きていられる理想郷を、創ろうとしたのだそうだ。
みんな、幸せに生きたいはずだから、だから、みんな、自分の理想に共感してくれるに違いない。
だから、自分は間違っていない。
理想としている想いを、願いを、実現させることに、なんの、迷いもなかったそうだ。
実際、彼の創り上げた理想郷は、すこぶる平和に回っていたのだという。

「自分が正しいと信じていた。私の想いは、私の理想は、間違っていないはずだと、そう、信じていた。」

楠はそう言って、静かに目を閉じながら、噛みしめるように呟く。
きっと、彼の瞼の裏には、過去に描いていた理想郷の光景が広がっているのだろう。
声が温かさと懐かしさで満たされていた。

「人々が、平和に生きている毎日を見るのが好きだった。こんな平和な光景が永遠に続くのであれば、こんなにも素晴らしいことはないだろう、と。」
「……あなたの創ろうとした理想郷は、どうなったのですか?」
「滅んだよ。」

滅んだと、そう告げた彼の声は驚くほど、淡々としていた。
けれど、その淡々とした声色とは裏腹に、目を細めた瞳は潤んでいて、宝石のような瞳に光を与えている。

「壊れるときは、呆気なかった。こんなにも簡単に崩れるものなのだろうかと。慕った者も、愛した者も、皆、喪った。」

それは、まるで砂時計のようだったという。
手の隙間から滑り落ちていくように、気付けばあっという間に零れ落ちて、その手のひらには何も残らなかったのだと。

「私は理想郷を目指した。永遠の理想郷を。けれど、永遠を望まない人間がいた。……なぁ、燕。お前に一つ、質問をしたい。」
「何ですか?」
「お前は、ずっと、誰も死ぬことのない平和な世界があったら、どう思う?」
「……それは、誰も死なないのは、良いことではないのですか?」
「……そうか。では、質問の仕方を変えよう。ずっと誰も死なない。ずっと平和だ。でも、それは文字通りずっとだ。永遠に。何年も、何十年も、何百年も、ずっと、ずっと。そして、誰も死ぬことはないけれど、何も生まれない。今在る命が喪われない代わりに、新たな命が芽吹くことはない。そんな世界は、どう思う?」
「それは、たとえ話ですか?」
「嗚呼、たとえ話だよ。」

そう言って、楠は笑う。
けれど、それはたとえ話と言うには、少し具体的過ぎて、まるで本当にそんな世界があったかのような口ぶりで。
燕は少し、考えるような仕草をする。
難しい質問だ。
人が死なないのは、良いことだと思う。人が死んでしまうことの悲しさは、この地に降り立って身に染みた。
妖の手で残酷に殺されてしまう村人も、集落との争いで命を落としてしまう勇敢な男も、大切な存在を失うことで狂ってしまう精霊も、彼の語った世界では存在しないのだろう。
そんな世界は、きっと、優しい世界だ。
けれど、その世界に在るということは、代償として、新たな命を芽吹かせる機会がないということ。
この世界では、人が生まれ、そして、死んでいく。
けれど、ただ死ぬだけではない。新たな命に、紡いでいく。そうして命は、世界は、回っている。

「……難しい質問です。」

燕はそう言って、困ったように、笑う。

「私にとっては、誰も死んでほしくないから、誰も死なない、犠牲にならない世界というのはとても素晴らしいと思ってしまいます。例えそれが、永遠に、長い時間の中、続くものであったとしても。でも、もしかしたら、それを望まない人も、いるかもしれません。限られた時間の中だからこそ、感じられるものや、見えるものがあるという人もいると思いますし、それに、誰かが死んでしまうことは悲しくても、その分、また、新たな命が生まれて、育って、想いが、繋がって、紡がれていく世界も、きっと、素敵だと思うから。だから、どちらかを選ぶなんて難しいです。」
「……お前の回答もまた、難しいな。」
「どちらも間違っていないということです。永遠の平和も、繋がっていく未来も、きっと、どちらも大切で、どちらも素晴らしいものですから。」
「お前らしい答えだな。」

楠はそう言って、燕の頭を優しく撫でた。
少しくすぐったいと思ってしまったが、それでも、嫌悪感は抱くことはない。
それどころか、この温かさに、燕は覚えがあったのだ。
愁礼とも違う。氷雨とも違う。誰とも違うこの温もり。初めてのものであったけれど、それでも、燕は、それを何故か、知っていた。
けれど、楠が語る「お前」というのは、燕であって燕でなくて、燕を通して、別の誰かを見ているようにも思える。
それはきっと、楠が語った、古い友人という人なのだろう。
優しい笑みを浮かべたまま、楠がゆっくりと立ち上がる。
楠の隣に座っていて、彼の身体が影となっていたから気付かなかったけれど、気付けば、洞窟からは光が注がれていた。
もうすぐ、朝なのだろう。
氷雨が身じろぐ音が、唸るような声が聞こえる。

「……さて、お前の仲間も、そろそろ目覚めるだろう。もう二つばかし、懺悔の代わりに、教えてやる。」
「何ですか?」
「まず一つ。今回、この季風地で起きた妖の騒動。あれは、半分は私の連れが原因だ。」
「……え?」

その言葉に、燕は目を丸める。
それはそうだろう。あんなにも騒ぎになっている、色々な人を苦しめている妖の騒動、その原因が、今まで目の前で、あんなに優しく笑ってくれていた男の知り合いなんて。
そんな燕の視線を悟ったのか、落ち着いて欲しい、と、楠は言葉を付け足す。

「……悪意があった訳じゃない。アイツもまた、目の前で喪われる命を見るのに耐えられなかっただけなんだ。枯れそうになった桜の木も。飢えて死にそうだった兄弟も。迫害された、哀れな子どもも。」
「……迫害?」
「命を繋ぎ、留める。それが、それだけが、優しく愚かなアイツの力。……故に、繋ぎとめるだけで、憎しみを、怒りを、嘆きを、止めることは、出来なかった。」
「敵ではないけれど、味方ではないというのは、そういうことですか?」
「そういうことだ。私は、私たちは、誰にも死んでほしくはなかった。けれど、限られた時の中で、誰かが生きるために、生き残るために、誰かが死ななければならぬのなら、それを決めるのは私たちではない。」

楠との会話に、元々、少し違和感は覚えていた。
理想郷を創ろうとして、滅んで、そんな話をした楠。しかし、そんな話は、燕が知る限り、聞いたことがないのだ。
彼のいた場所。それは村や集落で済ませるには大きすぎて、世界と呼ぶに等しくて、まるで、別の世界から来たような、否、そうでないとしても、もっと別の時代の人間のような、人間ですらないような、長く生きた、生き過ぎた、人為らざる者のそれのように思えて。

「……貴方は、神様なのですか?」
「穹集では、ないよ。」

そう言って、楠は、また笑う。
否定は、しなかった。
そして、もう一つだ、と、楠は言う。

「これは、助言だ。償いの一つと思ってくれ。困った時は、もっと耳をすましてみろ。お前は神の子だ。穹集の分身で、誰よりも自然に愛された、世界に愛された人間だ。いざという時は、風が、水が、木々か、岩が、全ての自然が、お前に応えてくれるだろう。」
「待ってください。貴方は、貴方は一体……」
「私は楠。それ以外の誰でもないよ。」

楠は、そう言って、燕の頭を優しく撫でて、

「頑張れ燕。お前の敵にもなりたくないし、味方にもなれないが、この言葉だけは、本物だ。」

それだけ告げると、いつの間にか、楠は目の前から姿を消していた。

 


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