はかりごと


 墨汁を溢した様な夜だった。
 店の外では霧雨が音もなく降り、虫の声も無かった。
 
 そんな夜に八番隊の下級席官である私は何故か、同隊隊長の京楽春水と二人きりで酒を酌み交わしていた。場所は、貴族街にひっそりと佇む居酒屋、その最も奥にある個室である。その店は看板も出ていない古民家のような外見で、万が一一人でその前を通ったとしても店舗だとは気付かなかっただろう。京楽隊長に連れられるがままその店の前に着くと、藤色の重そうな着物を着た女性がお待ちしておりました、と、それはそれは丁寧に頭を下げた。
 所謂『一見様お断り』の、高級店であることは察するに容易かった。
 京楽隊長は護廷隊の隊長で上流貴族出身なのだから、こんな店を贔屓にしていても何ら不思議ではない。ただ前述したように下級席官で流魂街出身の私は、薄汚れた死覇装のまま来てしまったことを早くも後悔しはじめていた。
 
 席に着けば、あれよあれよと運ばれてくる色鮮やかな料理の数々。私の給料一ヶ月分でも払えないような食事はきっとどれも最高級だったのだろうが、これ迄に無いほど緊張していた私にはちっとも味がわからなかった。
 私の向かいに座る京楽隊長は食事にはあまり箸をつけず、静かに清酒を舐めていらっしゃった。
 味もわからぬ私がおいしいですと薄っぺらな感想を言う度に、彼は眉を下げて満足げに微笑む。その微笑がただ自分一人にのみに向けられたものなのだと思うと、何故だか脚の辺りがむずむずとした。
 
「…………あの、京楽隊長」
「何だい?」
「私、その何故ここに居るんでしょう」

 それは、我ながら何とも頓珍漢な質問だったと思う。
 一瞬驚いた表情を浮かべた京楽隊長は、真顔のままふっと吹き出して、そのまま口元を手で覆って喉でくつくつと笑った。閉じ合わせた濃い睫毛が、ふさふさと揺れている。

「なんで此処にいるかって、そりゃあボクが誘ったからでしょう」
「そう、そうですよね。そうなんですけれど、あの、何故誘ってくださったんですか」

 私、何か粗相を。ずっと胸につっかえていた不安を恐る恐る口にすると、京楽隊長はついに肩を揺すって大きく笑い声を上げた。

「やだな、ボクそんなに怖い?」
「そう言う意味ではなくて、ただ純粋にわからなくて……」
「ふふ、ようく考えてごらん」
「はぁ」

 そう言われても、思い当たる節などちっともないのであった。京楽隊長は未だ面白くて仕方がないらしく、時折独り言を漏らしながら忍音しのびねに笑っている。
 彼の言葉はいつだって軽く柔らかで私のような凡人には分かりえない何かを含んでいた。わざと私に考える余地を与えて、微笑を唇のほとりに浮かべて、それを肴に酒を呑む様な意地悪な人なのだ。
 
 ところで、いつだったかそんな愚痴を伊勢副隊長に漏らしたことがある。彼女は眉の間に皺を寄せてなんとも形容し難い顔をしていた。隊長も苦労されているんですね。色の薄い唇から漏れた言葉に含まれた真意はやはりわからなくて、私はどうして隊長格というのはこうも複雑な物言いが好きなのだろうと、忿懣遣ふんまんやる方無い思いに苛まれたのだった。
 


 次第に夜の色は濃くなっていった。

 京楽隊長は何度か、私の猪口に冷酒を注いでくださった。言い換えれば、私は京楽隊長が注いでくださった冷酒を何度か飲み干したということになる。高いお酒は美味しいし、隊長に注がれれば飲まないわけにはいかない。つまるところ、京楽隊長の目の前で私はすっかり出来上がってしまったのである。
 
 頭のてっぺんまでアルコールに浸かり、雲を踏むような心地で辛うじて正座をしていた。頭は前後左右関係なく振り子の様に揺れ、ゆわゆわと世界の輪郭がぼやけていく。本当は卓に肘をつけて頭を支えたかったけれど、流石に無作法である事は浮腫んだ頭でも理解できたのでどうにか踏み止まっていた。
 だいぶ酔っちゃったねぇ。霞の向こうで京楽隊長の声が聞こえる。私の大好きな、うっとりさせる錆声さびごえだった。

「すみません、隊長の前で、みっともない姿を……」
「いんだよ、それだけ心を許してくれているということだからね」

 もうだいぶ廻らなくなってきた舌でどうにか言葉を繋ぎ合わせる私にも、京楽隊長は深く優しく応えてくださる。アルコールのせいで重くなった瞼をつい閉じてしまっても、彼は何も仰らなかった。
 私はそんな鷹揚おうような彼にもう何年も懸想けそうしている。
 伝えるつもりは毛頭ないけれど。
 
「……ねぇ、名前ちゃん」

 いつにも増して惹きつけるような低音。それと同時に奇妙に肉感的に聞こえる声だった。

「はい、何ですか、きょうらくたいちょう」

 対照的に、私のふやけたような唇から溢れるのはいわけない鼻声だった。
 
「ちょっと、酔いすぎだね。大丈夫かい」
「大丈夫です。帰れないほどじゃないし……」
「ボクが送ってあげるよ。それともボクの屋敷で休むかい? 此処から近いんだ」

 そんな冗談、京楽隊長でも仰るんですね。口には出さなかったが、代わりに曖昧に笑う。その間も、京楽隊長の大らかさに託けて目は閉じたままでいた。
 
 ぎしりと床が鳴って、京楽隊長が立ち上がったのだと悟った。お手洗いにでも行かれるのだろう。もしかしたら隊長はお優しいから、あの品のいい女将さんを呼びに行ってくださるのかもしれない。熱った頭でそんなことを考えていると、不意に私の鼻先を上品に甘やかな香りが掠めた。すぐさま瞼を開く。

「た、いちょう、」
「……顔、真っ赤だね」

 その時やっと、京楽隊長が立ち上がった理由が私の隣に腰を下ろす為だったのだと知った。
 皮膚の厚く硬い掌の甲が、私の左頬に触れた。思わず身を固くしたが、京楽隊長は少しも気にするそぶりを見せず、それどころかその親指は頬から唇へと滑り降りていく。感触を確かめるように押し潰したり、撫でたり、骨太の指は思うままに動かされた。

 柔らかな癖毛に透ける落ち窪んだ瞳の底がぎらぎらとしていて、私は一瞬、本当に一瞬だけ、ここで彼に斬り殺されてしまうのではないかとすら思った。
 
「でもね、本当にこんなに可愛くなっちゃって心配なんだよ。変な男に捕まらないかって」

 彼の瞳は既に伏せられて長い睫毛が影を生んでいたけれど、私はもう目を逸らせなくなっていた。それが彼の鉛の様に重い霊圧の所為なのか、私の抱え過ぎた恋心の所為なのかはわからない。ただ、もう逃げることはできないと、本能的に感じていた。

「……やだな、心配しすぎですよ。私可愛くないですし」
「可愛いよ。いつも可愛いけれど、お酒を飲んでふわふわしてるはつちゃんはさらに可愛い」

 そう言う口元には、あの意地悪な微笑が浮かんでいる。さぁ、きみから求めてご覧。そう言わんばかりの余裕であった。

 酒で十分すぎるほどに潤していたはずの口がいやに乾いて、私はぎゅっと唾を飲み込んだ。固まった声帯はなかなか上手に震えない。
 
「……どうしてきみが此処に居るのか、答え合わせをしようか」

 もうずっと、私の心臓は全く別の生き物のように激しく跳ねていた。きっと京楽隊長はそれすらも見透かしているのだろう。分厚い手のひらをゆっくりと、私の頬に添えた。
 真っ直ぐに形良く伸びた鼻梁の下、整えられた口髭が男が言葉を発するのとともに緩く動く。
 
 ――ボクがきみを好きだって、知らなかったのかい。
 
 艶気を含んだ低く掠れた声が直接、私の鼓膜を揺らした。
 
「たい、ちょう」
「いい子だから、目を閉じなさい」

 京楽隊長の柔らかく揺れる前髪が鼻頭に触れた。押し付けられた唇は少しばかり乾燥していて、体の髄まで蕩かすような甘い花の香りがした。













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