首輪


「名前?」

 馴れ馴れしく呼ばれて振り返ると、そこに居たのは数年前に円満にお別れをした男であった。

「あ、久しぶり」
「久しぶり。一番隊に移隊したって聞いてたけど本当だったんだな。エリートじゃん」
「そんなんじゃないよ。運が良かっただけ」

 元恋人と言っても、今更何を意識することもない。私は仲の良い異性の友人に等しくそうするように、気取らない素振りで応えた。丁度良い返答、丁度良い表情、丁度良い声色。物差しできっちり測ったような正しい距離感。けれど残念ながら、彼は私と異なる長さの定規を持っている。

 彼は当時から、物理的にも心理的にも対人距離が近い傾向にあった。曲がりなりにも別れた恋人である私を見つけて無邪気に駆け寄って、体が触れ合いそうになる距離で笑いかけるところを見るに、その傾向は今も変わっていないらしい。

 私達が元恋人同士である事には違いないが、関係にわざわざ名を付ける事が得策とは思えない。元恋人というのは、私自身にも周囲にも恋人時代を匂わせる。それがどうしても、今の私には許されない。

 だから、特別な名前を与えない。友人と名付けられれば良いのだれど、恋人同士だったという事実は、私達を友人以上の何かに無理やり嵌め込もうとするので難しい。

 私は彼を傷つけない程度に重心を後ろにかけて、適当な微笑を浮かべ続けた。

「元気でやってるか?」
「うん、まぁまぁかな」
「なんだよそれ、はっきりしねぇなぁ」

 私が取った距離に気付かない彼は、昔と変わらず、嫌味のない朗らかな好青年だった。悪く言えば浅慮で、少し図々しい。けれど当時の私はそんな所を魅力的に感じていた。可愛げがあって、ちょっと頼りなくて、私がいないと駄目だと思わせるのが上手な男。もちろんそれらを計算づくでできるほど器用な人でないことも知っている。そういうところも、かつては好きだった。

 当然理由があって別れ、さらに数年過ぎた今となっては、彼の声も表情も、ただ上滑りしていく。私は居心地悪く視線を外しながら、彼の言葉を適当に聞き流していた。あの頃と変わらぬ瞳で真っ直ぐに私の目を見つめてくる彼が、やけに厭わしく思えてしまう。そう思うと、この関係はある意味友人以下の何かなのかもしれない。

 早く隊舎へ戻りたい。
 泥濘のような感情ばかりが募った。

「……なぁ、聞いてる?」
「え、あ、ごめん。聞いてなかった」
 
 慌てて顔を上げる。男は妙な訳知り顔で、「お前昔からそういうところあるよな」と笑った。泥濘がまた重さを増して絡みついた。一歩分、はっきりと後ろに下がる。

「今度飲もうって話」
「あー、えっと」
「勘違いするなよ。二人だけじゃなくて、同期みんなでだって」

 被せるように言う男は、厭な余裕を浮かべていた。その余裕の源が私にはわからない。本当に友人として誘ってくれているのか、それとも簡単な昔の女だと思われているのか、判断できない。
 いずれにしても、「ごめん」の三文字で済む事だった。彼の目を見て、言えばいい。ごめん。ちょっとやめとく。みんなにはよろしく言っておいて。そんな事を適当に付け加えれば良い。けれどなぜか私の舌はこんがらがったようにもつれて、無駄な時間を浪費する。嫌な予感はしていた。

 優しい彼は急かすことなく、私の返事を待っていた。しかしそれは、断られるはずが無いと思い込んでいる彼の傲慢さの裏返しでもあった。

 私は悩んでいるのではない。ごめんとだけ言いたいのに、何故か舌が回らない。やにわに、嫌な汗が背中にじわりと滲んだ。勝手に黒目がキョロキョロと揺れた。心臓が別の生き物のように鳴っていた。その頃にはもう、この目に見えぬ猿轡さるぐつわの理由はわかっていた。

 むせ返るような春の香りと共にゆったりとした足取りでやって来たのは、護廷十三隊総隊長、京楽春水である。

「や、名前ちゃん」
「そ、そ、総隊長殿!!」

 男は不躾に叫んで、それと同時に体を九十度に折り曲げた。そのまま壊れたおもちゃのように口を動かしているが、何一つ聞き取れない。一般隊士がこのような至近距離で総隊長に見える事など人生で一度あるかないかなのだから、彼が慌てふためくのも仕方がない事だと言えよう。

 京楽隊長は「そんなに畏まらなくて良いよ」と鷹揚に仰った。そして先ほどと同じようにゆったりと背後に回って、私の肩に両の手を置いた。横目に見た彼は平素のように、大きな唇の辺りに微笑を漂わせていた。けれど、触れている掌は恐ろしく冷たく、そして重かった。

「名前ちゃん何遊んでるのよ。あんまり遅いから心配になっちゃったよ」
「すみません……。同期と偶然、会って」

 鳴り続ける心臓と冷や汗は止まらなかったが、舌と声帯は上手に働いた。心ばかり「同期」と言う単語をはっきりと強調する。
 京楽隊長は無感情に「へぇ」とだけ仰って、後ろから私の目を覗き込んだ。密度の濃い睫毛の奥、深い海の底の色をした隻眼が私の小さな心臓を握った。

 呼吸に専念するために、目をきつく閉じる。それでも、血肉を蕩かす甘い芳香は決して逃してはくれない。

 一方、一人興奮冷めやらぬ様子の男は、好機とばかりに前のめりになって口を開いた。

「あ、あの! 自分は五番隊の――」
「あぁ、うん。ごめんね」

 ごく低く沈んだ声が、男の言葉を重く遮った。

「彼女、とっても大切な仕事ほっぽって来てるから、貰っていくね」

 大切な仕事。恐る恐る京楽隊長を見上げる。至極優しげな微笑みの奥に、燃えるような感情の色が鮮明に映っていた。

「名前ちゃんは本当に、悪い子だねぇ」

 厚い唇が子供に言い聞かせるようにゆっくりと、そして丁寧に動く。自身の眦が、か細く痙攣した。

 何も知らぬ男は、神にも等しい総隊長の言葉を素直に受けとり、首が取れるほどの勢いで京楽隊長の言葉一つ一つに頷いていた。それから、

「名前、総隊長殿に迷惑かけんなよ!」

 と言い残して、軽やかに去っていく。その背中が、遠く霞んでいくようだった。



  ******




「君は少しばかりお頭が弱いようだから、体に覚えさせないと」
「や、あッ」

 先ほどの現場からそう遠くない、人気のない建物の隅。京楽隊長に連れ去られるように導かれた私は、冷たい壁に背中を預けてどうにか体を支えている状態だった。

 影に入り込むなり、京楽隊長は噛み付くような接吻を下さった。不安からきつく閉じていた唇の隙間を親指の腹でなぞられれば、条件反射で唇を開く。舌を突き出して彼の愛撫を乞うのも、口の端から垂れる涎を拭わないでいるのも、すべて彼に躾けられたことである。

 京楽隊長は片手で私の弱々しい腰を支え、空いている方の手で私の顎を持ち上げた。そうでもしないと、体格差のありすぎる彼と立ったまま接吻をすることは難しい。ほとんど覆い被されるような形になるので一層息が苦しく、彼の唇の隙間から必死に酸素を求めるけれど、彼はそれすらも許して下さらない。目縁からは生理的な涙が落ちて、顎の先で唾液と混じり合い、死覇装の上に落ちていった。

「名前ちゃん」

 寂のある沈んだ声は、何度でも私を震わせる。

「僕との約束、忘れちゃった?」

 唇が離れ、改めて向き合う。彼の歳相応に乾いていた唇を、真実を見通す瞳を、熱情的に濡らしたのは私だ。そんな自分が今、どんな表情をしているのか分からないが、大きく首を横に振った。ひたすらに心の中を何か震え慄おののくような感情が走り、爛ただれていくようだった。

 主従というには穢らしい。恋人というよりも恐ろしい。私達の関係は、抱え込み与え続ける欲と熱でできている。

「違うの? じゃあ、こうされたくて態としてるのかな」

 耳元で低く囁かれれば、自然と全身が紅潮する。
 京楽隊長はそのまま熱い舌で耳の縁を舐り、粘り気のある水音が脳を犯した。みっともないとわかっていても、純粋な快楽から、鼻にかかった喘ぎが止め処なく溢れてしまう。

「あっ、は……ぁ」
「駄目だよ名前ちゃん。これはお仕置きなんだから、気持ちよくなっちゃ駄目」

 すかさず舌を指で摘まれる。反射的に喉の奥から動物の鳴き声のような声が漏れた。

「ぉ、ぅあ゛、うぅ」
「はは、何言ってるのかちっともわからないねぇ」

 京楽隊長はくつくつと喉を鳴らした。京楽隊長、と、名前を呼んだつもりだった。こんなに痛めつけられているのに、辱められているのに、私は甘い蜜に満たされていった。
 京楽隊長の骨っぽく太い親指が喉奥に触れ、そのままぐっと押し込まれる。迫り上がる吐き気を堪えると、身体が勝手に痙攣するように跳ねた。顔は、体液でぐちゃぐちゃだった。それでも眼は、ずっと離さずにいた。

「きみは、僕がいないと駄目なんだから」

 彼の落ち窪んだ瞳には、恐ろしいほどの欲情がありありと映っていた。それは彼自身の内側から来るものでもあったし、頬を紅潮させて彼を求め続ける淫らな女の姿でもあった。

「この先が欲しくなったのなら、今夜自分で僕の屋敷に来なさい。わかったね」

 息を吸うことに必死で頷くことも出来なかったけれど、京楽隊長は返事を待つことはしなかったし、返事なんて必要なかった。余裕を浮かべて、涙に絡んだ私の松部に唇を落とす。


 熟れた春の香りがした。













ちょっと怖い京楽隊長。
Twitterにていただいたリクエストでした。

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