瞳に映して




 義骸の準備。

 丁度お昼を食べ終わった頃、突然私の自室に訪れた檜佐木副隊長はまるで書類の催促でもするかのように軽く言い放った。束の間の非番を満喫しようととっておきのお茶を淹れていた私は、彼の目を見たまま数度瞬きをするしかなかった。

「任務ですか?」
「いや、夏祭り」
「は?」
「今日非番だろ? 俺もだから、二人で現世の夏祭りにでも行こうぜ」
「これから?」
「おう。隊長には言ってあるし、俺は半休取ってる。今から行けば、夕方には間に合うだろ」

 彼はなんてことないように言うけれど、どうしてそれを昨日のうちに言ってくれなかったのだろう。急須を流しに置きながら、演技っぽく顎に手を当てて考えるふりをする。私が彼の誘いを断るなんてことはあり得ないけれど、素直に従うのも癪なのだ。
 一方、その場で私の快諾のみを待つ檜佐木副隊長は呑気に庭の鴨を眺めていた。どうやら彼も、私が自分の誘いを断るわけがないとわかっているらしい。

 ややあって、壁掛けの時計の針が、カチリ。諦めの悪い私に、もうこれ以上足掻いても無駄だと告げる。

「……わかりました。準備しておきます」
「よし。じゃあ、浴衣もな」
「洋服じゃないんですか?」
「当たり前だろ。夏祭りだぞ」
「……なんで昨日のうちに言ってくれないんですか。準備とか、色々あるのに」

 胸に収めておけなくなった文句を、出来るだけ感情を抑えた声で溢す。檜佐木副隊長は勿体付けるような間を置いて、それからこちらを一瞥もせずに、ちょっとしたサプライズってやつかな、と、なんてことのないように言ってのけた。
 

   ***


 そんなやりとりがあったのが、数刻前。

 能天気な囃子が響く祭り会場に着いた頃には、空はすっかり夕陽に染まっていた。夏特有のベタつくような熱気は苦手だったが、入道雲が橙色に照らされて立体的に立ち上っているのは風趣に富んでいる。音質の悪いスピーカーから流れるアナウンスを背中に、私は一人河原に座り込んでいた。
 まさか檜佐木副隊長と浴衣を着て夏祭りに来るなんて、思いもしなかった。何故私なんかを誘ってくれたのだろう。真横に座っている男女は二人で一つのかき氷をつつき合う。決してそんな情景を思い描いて着いてきた訳ではないけれど。生ぬるい風に、期待とも自棄とも見える溜息を溶かした。
 
 そうやって暫し空を見上げていると突然、緊張感の欠片もない私の頬に冷たいものが触れた。弾かれたように飛び上がり、ひゃあ、と情けない声が勝手に喉から飛び出す。
 こわばった顔のまま慌てて振り返れば、深い縹色の浴衣を着た檜佐木副隊長が立っていた。驚きすぎだろと喉を鳴らす彼のその手には、二本の真っ青な玉詰瓶。たった今まで氷水の中を泳いでいたのであろうその氷面には、大きな水滴が滴っていた。
 
「無理矢理付き合わせたからさ、俺の奢り」
「……もっと普通に渡してください」

 一言文句を言わないと気が済まない私は、眉を顰めてそれを受け取る。既にビー玉は落としてあって、飲み口からは甘い夏の匂いが鼻腔をくすぐった。ああでも、一応お礼を言わなければ。そう思い直し、ありがとうございますと、人いきれに霞むような小声で呟く。

 安っぽく光るビー玉の向こうで、檜佐木副隊長がどういたしましてと目を細めた。


 
 ちょっと歩いてもいいか。そう言った檜佐木副隊長に連れられて来たのは、出店の喧騒から離れた高台。麓には夜景というには余りにも貧相な街光がちらついていた。
 檜佐木副隊長は古ぼけたベンチに座って、そのすぐ真横に袂から取り出した皺のないハンカチを敷く。どうやらここに座れという意味らしい。当然ながら断る事のできない私はその上に浅く腰掛けた。
 彼の手の中の空っぽのラムネ瓶がカラコロと陽気に揺れる度、私の心も青く揺れてしまうのが悔しい。その青色に奪われている彼の手を取る勇気があればと思うけれど、そんな勇気は持ち合わせていなかった。
 
「ここさ、去年はたまたま時間が合って、東仙隊長と来たんだ。でも今年は名前が非番だったから丁度いいなと思って」
「…………へぇ」
「ちょっと遠いけど。花火、綺麗に見えるんだぜ」
「そうなんですか」
「今日、雨降らなくて良かったなぁ」

 私はついに適当な相槌を打つことすら面倒になって、薄ら笑いで応えた。

 何が、丁度いいな、だよ。

 数年ぶりに引っ張り出した浴衣も、慌てて纏めた髪も、控えめに振った香水も、彼の前では結局なんの意味もありはしない。檜佐木副隊長にとっては私はただの補佐官で。隊長の代わりに呼ばれて。ラムネ一つで喜んで。僅かに抱いていた期待も呆気なく終わりを告げ、私は手慰みにビー玉を転がした。
 
 すっかり夜の帷を降ろす空には細月だけが浮かんでいる。遠くに聞こえる人々の活気の中に、拡声器のような声が混ざり始めた。
 私たちの隙間を埋めるのは、夏の湿った空気、二本の空っぽのラムネ瓶、曖昧な沈黙。その複雑な均衡を崩すのはいつも彼だ。
 

 刹那、空気を切るような高い音がして、腑に響くような爆発音。一瞬で世界が鮮やかに照らされる。

 檜佐木副隊長は「お、始まった!」と子供のような声をあげて、明るい夜空を見上げた。
 大輪から溢れる小さな雫すらもちらちらと煌めいて、そうかと思えばあっという間に夜に溶けてしまう。この空気も気持ちも、少しも取りこぼさないように持ち帰ろう。私は次々上がる色とりどりの光から目を逸らせずにいた。
 だから、彼の瞳が私を捉えていた事になんて、ちっとも気付かなかったのである。
 
 今年もこの花火、見たかったんだ。
 花火の爆音の隙間を縫うように、檜佐木副隊長が言った。

 残念でしたね。今日は、東仙隊長、お忙しくて。
 花火を見上げたまま、私も負けじと声を張った。
 
 一段と大きな四尺玉が上がった。大きな花火は轟音と人々歓声を引き連れて夜空に派手に咲き乱れる。楕円に広がって空を染め上げて、最後にぱらぱらと雫を降らす。この花火大会の一番の目玉だと、遠くのアナウンスが高らかに言った。

 私はというと、ものの見事にそれを見逃した。

 花火が打ち上がる直前、私の温い手を彼の熱い手が覆ったからだ。

 
「ちげぇよ。お前と見たかったの」
 
 彼の虹彩が様々な色に光る。
 もう、目を離せなかった。






prevnext
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -