雨音に隠して


 所謂死後の世界である尸魂界に、四季は不必要である。

 そう思っているのは私一人では無い筈だ。足袋が水を踏む嫌な感覚を感じながら、私は瀞霊廷は白道門の付近を大股で歩いていた。
 当然ながら、目的もなくこんな瀞霊廷の端を訪れた訳ではない。この辺りの甘味店に野暮用――まったくうちの上官は甘いものに目が無い上に人使いが荒いのだ――があったのだが、その帰りに突然の大雨に遭遇してしまったわけである。踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、一難去ってまた一難とはまさにこのことだろう。

 気のいい店主が傘を貸してはくれたものの、地面を跳ね返る雨粒が草履も足袋も関係無く濡らし、すっかり湿気を吸った死覇装も身体中に重く張り付く。女が持つには大きすぎる無骨な番傘は雨音が喧しく響くし、傘を持たない方の手には買ったばかりのお饅頭もあるしで、とにかく私の気分は地の底に沈んでいたのである。

 ――尸魂界に梅雨、いるか? 雨なんて別に降らなくて良くない? なんなら雪もいらない。一生春でいい。一年中桜が咲いているなんて、それこそがまさに天国じゃないか。死人の期待を裏切るような真似するな。

 思わず出てしまう舌打ちを雨音に隠す。


 その時ふと、無機質に連なる建物の軒先に立つ人影に気が付いた。気の毒に、急な雨だったから傘を持たずに来たのだろうその男の姿は、袖のない特徴的な死覇装。どんなに視界が悪くとも、私は決して彼を見間違うことはない。檜佐木副隊長、その人だった。

 仁王立ちで雨に霞む瀞霊廷を睨みつけている彼の手の中には剥き出しのカメラがあり、どうやら取材か何かの帰りらしかった。いつにも増して深く刻まれた眉間の皺を見る限り機嫌は良くなさそうだから、残念だけれど会釈だけをして通り過ぎよう。本音を言えばお声を掛けたいところだが。なんて、思った矢先。
 
「なぁ、ちょっと」

 傘を叩く喧しい雨音の隙間から、私を呼ぶ低い声が聞こえた気がした。恐る恐る傘を少し持ち上げて声の方を見れば、片手を持ち上げる檜佐木副隊長と目が合う。

「悪いが、ちょっと入れてくれ」

 泥水が跳ねるのも気にせずに駆け寄って来た檜佐木副隊長は、先程の顰めっ面がまるで嘘のように、からりとした笑顔を向けた。そして突然すぎる接近に口をぱくつかせている私を無視して番傘を奪い取ると、いやぁ突然の雨で困ってたんだよ、などと軽い様子で肩をすくめる。

 先ほどより数十センチ高いところに持ち上げられた傘は相変わらず雨音が酷く響いたが、真横から聞こえる檜佐木副隊長の声は雨音に消される事なく、私の鼓膜と胸を擽ったく揺らした。
 お前に会えてラッキーだったよ、なんて言って笑う彼に少しの他意も無いことくらい承知の上だけれど、ほんの僅かな期待が耳を熱くする。

「調査で白道門まで来たは良いんだが、まさか急に土砂降りになるとは思わなかったぜ。一人なら走って帰るんだが、これを濡らすわけにもいかなくてな」

 そう言って、視線を手元の小型カメラに落とす。

「それは、その、お疲れ様です」
「お前は何しに来てたんだ?」
「えっと、向こうのお饅頭屋さんに……。あの、お茶菓子を買いに」
「へぇ、その店美味いのか」
「らしい、です。以前うちの隊長がそう仰っていましたから。……あ、今日は隊長ではなくて、直属の上官のお使いなんですけど」

 言いながら、ちらりと隣をぬすみ見る。雨粒に濡れた檜佐木副隊長の黒髪が、星を散らした夜空のように輝いていた。私に気を遣っているのだろうか、その眦には平常の峻厳しゅんげんさは少しも見えない。

 背景の瀞霊廷が雨霞に霞んでいて、まるで二人きりみたい……なんて、胸の中だけでくらい、密心みそかごころに浮かれでもいいだろうか。
 
 そんな事を考えていれば不意に、檜佐木副隊長とばちりと視線が交わる。と言うより、私の不躾な熱視線に副隊長が気付いたと言った方がいいかもしれない。慌てて、視線を進行方向に戻す。

「……もしかして、そっち濡れてる? 悪いな」
「あ、いえ。違うんです、すみません」
「もっとこっち寄っていいぜ。もちろん嫌じゃなければ、な」

 目を伏せて冗談っぽく笑う檜佐木副隊長は、言うだけ言ってまた視線を戻した。

 嫌なわけないじゃ無いですか。

 蚊の鳴くように呟いた言葉は当然雨音にかき消されたが、檜佐木副隊長がそれを聞き返すことは無かった。


 それから途切れ途切れの他愛無い会話を数度繰り返していれば、あっという間に九番隊隊舎に着いてしまう。檜佐木副隊長は何度も礼を言いながら私に傘を預けると、素早く屋根の下に潜り込む。
 
「遠回りさせて悪かったな」

 軽く微笑むその片方の肩だけが、酷く濡れていた。

「いえ、こちらこそ」

 私は泥水を吸って真っ黒になったつま先を、ぎゅうと握った。

 此方を振り返ることなく隊舎へ入っていく檜佐木副隊長の背中をぼんやりと眺めながら、私は暫しの間その場に立ち尽くしていた。相変わらずの鬱陶しい雨音、重すぎる傘、濡れた足元、湿気にうねる髪の毛。どれもこれも嫌で嫌で仕方ないけれど。

 ――前言撤回。

 今日だけはそのどれもに、感謝をせざるを得なかった。





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