刺青


「親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨てゝしまいました。───お前さんは真先に私の肥料になったんだねえ」

 と、女は剣のような瞳を輝かした。その耳には凱歌の声がひゞいて居た。

「帰る前にもう一遍、その刺青を見せてくれ」
 清吉はこう云った。


 女は黙って頷うなずいて肌を脱いた。折から朝日が刺青の面おもてにさして、女の背中は燦爛とした。







谷崎潤一郎『刺青』より







    *****








 背の高く線の細い黒髪の青年が、一人の彫師の元を訪れた。彼が、顔に墨を入れて欲しい。と云うので、ははぁ、痛いですよ、と男が返したところ、青年は長い前髪を掻き上げて笑った。俺は死神になるのだから、刺青如きの痛みに耐えられない訳がない、と。

  


 生きていた頃、男は画工であった。死因は判らない。けれど、この流魂街で目覚めたとき、彼が真っ先に探したのは筆だった。腹を空かす心配も無く永遠とも思える時間が許されているこのせかいは、男にとって天国そのものであった。生憎上質な筆も色も紙も、手にするには能わなかったが、畜生の毛で筆を作り、その血で辺りの石ころに心ゆくままに描いた。誰もがそんな男を気味悪がった。それもそうだ。だいたいこの魂魄たちの拠る貧しい村に、絵を必要とする物好きなど居なかったのだから。

 けれど、人々は色や線を肌に纏うことを好んだ。なるほど、賢く生きねばならぬ。男は名の知れた彫師の元に弟子入りすると、すぐにその頭角を表した。その名は流魂街は愚か高き壁の向こうの人々の耳にまで届き、多くの貴族や死神が彼の腕を求めて斯様な辺鄙な所まで足を運んだ。

 しかし男は拘泥していた。彼の心を惹きつける程の皮膚と骨組みとを持つ人でなければ、彼の刺青を購う訳にはいかなかった。現に大金を握らす腹の大きな貴族などは何度も追い返したこともある。その拘りの強さこそが、彼がこれ程までに人気のある彫師であるのに、流魂街の外れのボロ屋に居る理由である。

 青年は、墨を落としたような黒目をぎらぎらとさせていた。自信に満ちたというより、何も恐れていないと思わせる青さだった。しかしその眼光の鋭さと張りのある若い肌に、男は奇妙な高鳴りを覚えたのである。

「画を拝見しましょう」

 と、男が言うと、青年はほっとした様子で緊張を緩めた。その表情はまだ、青年というより少年と言った方が良かったかもしれない。

「……こっちに彫って欲しいんだ、この画を」

 青年は、袂から一枚の紙を差し出した。そこには迷いの感じさせぬさっぱりとした筆運びで、二桁の数字が書かれている。記憶が容易に釣り上げられ、男は嬉しそうに笑った。

「はは、この画には見覚えがある。あの腕っ節の強そうな隊長さんだ。名前は確か、」

「悪いが」

 不揃いな黄色い歯を覗かせる男の言葉を、青年は控えめに遮る。

「おや、多弁が過ぎたようで。……ようく分かりましたとも」


 それからは何も言わず、二人は仕事に取り掛かった。


 日はうららかに川面を射て、八畳の座敷は燃えるように照った。水面から反射する光線が、青年の顔や、障子の髪に金色の波紋を描いてふるえている。部屋のしきりを閉て切って刺青の道具を手にした男は、しばらく目を閉じていた。

 ゆっくりと瞼を持ち上げて、麻酔薬によってすっかり寝息を立てる青年の頬骨の辺りに右手でぷつりと針を刺す。墨汁が皮膚に滲んでいくその様はいつ見ても恍惚とする。この群青色のしたたりは、私の命であり、この青年の命である。まだ若く張りのある肌に、小麦に焼けた肌に、刺し、抜き、時折深い吐息をついて、小さな画であるのに随分と時間をかけて描いた。


    ****


 青年は低く唸り声を上げながら目を覚ました。呼吸のたびに皮膚が疼き、青年は眉間に深く皺を寄せて左目をぴくつかせた。

「痛いでしょう。痛み止めを出しますから」

 男が労るように言うが、青年は首を横に振る。

「痛みは記憶に残るから。これでいいんだ」

 青年は、麻酔の残る浮ついた心地のまま障子を開けた。流魂街の色のない茅葺き屋根を西日が赤く染め上げていく。青年は「もう夕刻か」と、顔を歪めたまま呟いたが、男は青年の横顔、夕陽が刺青の面にさすその美しさにただ、深く溜息をついた。









  ****








「顔に墨を入れて欲しいんだ」

 再び訪れた青年は、すっかり顔つきを変えていた。

「ははぁ、痛いですよ」

 男は黄色い歯を見せて笑った。


「痛みは記憶に残るから、良いんだ」


 青年は誇るように、右手を閉じて見せた。なるほど、その端正な顔立ちに似合わぬ、三本疵が走っている。息を呑むほど痛々しく、均衡の保たれたうつくしい疵だった。


「さぞ、お痛かったでしょうな」

 言いながら、男は快さそうに笑った。

「今でも魘されるくらいさ」

 青年は、片眉を持ち上げて自嘲した。






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